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「八月の光」×「ビラヴド」×伊黒小芭内で社会構造と個人の関係について考える。

「奴隷制度が人の心にもたらすもの」について描いた、トニ・モリスンの「ビラヴド」が面白かった。

「奴隷制度について描いている」と書くとついそちらに意識がフォーカスされるが(そしてもちろんとても重要な問題だけれど)、自分がこの話で一番興味を惹かれたのは物語の語りの手法だ。

「八月の光」の解説の中で、フォークナーが活躍した時代はちょうどヨーロッパでモダニズム文学が流行していた、と書かれている。
 アメリカの南部の地方都市に住んでいたフォークナーは、ヨーロッパでその流行に触れて「意識の流れ」という文学手法を自分の作品の中に取り入れた。
 哲学的な領域でもちょうど実存主義が主流だった時代なので、文学にもその流れがきていたのだと思う。

「八月の光」は時系列が入り乱れていて、登場人物たちが記憶が浮かぶままに話を語る。
「ビラヴド」も「八月の光」と同じ語りの手法だけれど、現況と記憶(過去)がよりシームレスな「ビラヴド」のほうがずっと読みやすい。
「ビラヴド」は「自分が物事を思い出したり、考えたりするときが確かにこんな風に意識が流れるな」という感じそのままに話が語られる。
 時系列は滅茶苦茶だし、話の脈絡も因果もほぼないのだけれど、流れるように読める。
 世界や時間の法則をすべて無視して、自分の意識、認識のままに物事を語る。「こういう書き方がアリなんだ」と思った。

「ビラヴド」の語りの手法は、「奴隷制度という社会(の制度)が個人にどういう影響を与えたか→個人の内面をどう変質させるか」ということを描くのにマッチしている。
 その制度の中で行われた「悲惨な事実そのもの」を描くのではなく、その出来事が個人の内面にどう影響したのか、そして「そういう制度があるという事実」が社会を形成する「集合体としての『人間』」にどう影響を与えるのかを描きたいから、こういう手法を選んだのではと感じた。

 白人種は、外見はどうあろうと、黒人であれば、その皮膚の下にはかならずジャングルが潜んでいると信じていた。(略)
 自分たち黒人は、どんなにやさしく、どんなに賢く愛情に満ちていて、どんなに人間らしいかを、白人に納得させようと力を尽くせば尽くすほど、黒人が、黒人自身にとっては異論の余地のない事実を白人に信じさせようとして、身をすり減らせば減らすほど、黒人の心のジャングルはますます深くなり、ますますもつれてくるのだった。
 だがそれは(略)白い肌をした人々が黒人の心の中に種を蒔いたジャングルだった。
 そして、ジャングルは育った。広がった。(略) 
 ついにジャングルは、種を蒔いた白人たちの心に侵入した。
 一人残らずすべての白人に感染した。彼らを変えて別人にした。

 血で汚し、分別を失わせ、さすがの彼らでも望んでいなかったような非道な行為に走らせたので、自分たちが種を蒔いたジャングルに恐れおののいた。
 奇声を上げる狒々は自身の白い皮膚の下に住んでいた。

(引用元:「ビラヴド」トニ・モリスン/吉田廸子訳 早川書房 P402 /太字は引用者)

 その制度が生み出す状況が、「被差別者ー差別者」問わず関わる人全体の内面に食い入って形成されたものを共有する。共有することで社会の暗黙、もしくは無意識下の合意として広がっていく。
 それがその時代を生きた人間だけではなく、その先の時代を生きる人間の内面の底流にも受け継がれていく。
 そういうことをサクッとわからせてくれる文章だ。
 読めば読むほど凄いなと思う。

「八月の光」やコーマック・マッカシーの「ブラッド・メリディアン」「ノーカントリー・フォー・オールドメン」も「歴史という建造物とどう向き合うか」をテーマに含んでいる。
「ノーカントリー」では「ベトナム戦争を悪だと社会的に総括できない」から、その負の遺産(PTSDや罪悪感など)を個人が背負わざる得ない。
 先住民族への弾圧や奴隷制度、ベトナム戦争を始めとするグローバルサウスの国々への干渉などの歴史も、アメリカは他民族国家だからこそ、日本のように国全体で「一億総懺悔」できない。
 先住民族も白人も黒人も「アメリカ人」(被抑圧者も抑圧者も同程度に包摂している)から、「社会全体、国全体」で罪が背負えない苦しさがあり、だからそれが課題になりやすいのかなと感じた。

「ビラヴド」では、社会制度によって生まれた環境が人の内面を変質させていく様子、その変質させられた内面が「自分」になってしまうゆえの逃れられない苦しさ、個人が背負うその苦しさが歴史となることで社会を覆い尽くしていくという仕組みが語られる。

 自分は個人のシステムと社会システムが重なっているのであれば、個々人が自分自身の内面を点検改築していくしかないと思っている。
 他人に対してそれが出来るという短絡的かつ傲慢な思考が何を引き起こすかは、連合赤軍事件や文化大革命の結果を見ればわかる……し、理屈として考えても「画一化された思想、価値観で個人の内面を抑圧する」という発想が、そもそも「社会が個人を抑圧する」という構図をなぞっている。

とは思うけど、「社会によって内面化された自分の内部のシステムとどう向き合うか」は凄く難しい問題だ。
 だから繰り返し創作のテーマになるのだろうけれど。

「八月の光」では、個人が自己の内面から逃れようとすることから派生する暴力について描かれている。
 自分が「八月の光」が好きなのは、クリスマスは普通に考えれば同情すべき境遇なのに、ストーリーを読むとちっとも同情する気にならず、クリスマス自身もそういう安易な同情や哀れみを拒絶しているところだ。
「差別というスティグマを押し付けられた悲惨な境遇にありながら、まったく同情する気がしないほど悪人」なところがいいのだ。
 社会的境遇を理由に個人の罪は許されないと思うけど、逆に個人の罪を理由に社会的境遇を放置していいわけでもない。
 セサが自分の娘を殺した罪は罪として、奴隷制度によって傷つけられたセサの内面(尊厳)をどう回復していくかは考えられるべきだし、どれほど悲惨な経験をしたとしても人を殺すこと(傷つけること)は許されないことも合わせて語るべきだと思う。
「ビラヴド」も「八月の光」も、そういう両面から語ることが難しいことを物語として表現しているところが凄い(小波感)

 そんなことをツラツラ考えていた時、唐突に「鬼滅の刃」の伊黒のことを思い出した。
 伊黒は「蛇鬼に支配されている伊黒家」「座敷牢」「伊黒家(社会)のために生贄にならなければいけないという価値観」という三重の牢獄に閉じ込められている。
 だから「生きたかった」と思って「座敷牢」「伊黒家」を脱出しても、

(引用元:「鬼滅の刃」22巻 吾峠呼世晴 集英社)

「どこにも行けない」し、甘露寺さんと一緒になるためには(どこかに行くためには)「死ぬしかない→『自分という存在』から脱出するしかない」となってしまう。

「ビラヴド」では、「黒人の中にはジャングルがある」と言っていた白人たちも、言われた黒人たちもいつの間にかジャングルの一部になってしまったように、伊黒も座敷牢に閉じ込められているうちに自分の内面に座敷牢を形成してしまう。
「ジャングル」「座敷牢」、「八月の光」では「道」と作品によって形容は違うけれど、それが個人に対する社会(の性質や影響)を表している。

「ビラヴド」でセサが奴隷の立場から解放されても娘を殺した罪悪感から逃れられないように、伊黒も親族を見殺しにした罪悪感から逃れられない。
「ビラヴド」ではそういう傷痕を持っていても別の要素で人とつながることで救われるという結論を出している。だが物語でそれまで語られたことの重さと結論が吊り合っているように思えず、強引にハッピーエンドにもっていった感が否めない。
 伊黒は結局甘露寺さんと心中した(←この結末はやっぱり納得がいかない)

 自分の内面に構築されてしまったものを乗り越えるのは本当に大変なんだな、と創作を読むだけでも思う。他人に対してなら、「総括しろ」と言うだけだから簡単なんだろうが。

 個人の内面が回復することを通して、社会に根付いている構造は解消されるんじゃないかと思う。
 そうでなければその制度としてはなくなっても、社会の底で地下水脈みたいに延々と流れ続けるのではないか。(「ねじまき鳥クロニクル」はそういう話だった)
 言うは易し行うは難しだけれど、こういうことをツラツラ書いて自分の内部の構築物と日々向き合うしかないよな。

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