伊達政宗⑫

信州上田の真田氏は、この後政宗と多少の縁ができるのだが、この時の真田氏の当主真田昌幸は、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅び、その信長が本能寺の変で倒れると、俄かに自立を目指して動いた。
昌幸は時に北条氏についたり上杉景勝についたり、甲信に進出した徳川家康を手玉に取ったりして、とうとう秀吉に独立の大名をして認められるようになった。
こうして徳川と北条の間に、真田が小さく独立の大名として存立することになるのだが、真田の勢力が上州の沼田にも伸びていた。
秀吉が惣無事令を出すにあたり、北条との係争地である沼田をどうするかが懸案事項となった。昌幸は「沼田は祖先墳墓の地」であると主張して譲らなかったが、秀吉はその「墳墓の地」の名胡桃城のある沼田領の三分の一を真田領とし、残りの沼田城を中心とする三分の二を北条領とする裁定を下した。そして秀吉は北条氏直が上洛した後に沼田領を引き渡すとした。
北条氏直は、天正17年の12月に上洛すると伝えた。
氏直の約束を受けて、秀吉は先行して沼田領を北条氏に引き渡した。昌幸には代替地として信州箕輪を与えることになった。
しかし北条氏は、真田氏が名胡桃城代鈴木重則の家臣中山九郎兵衛を寝返らせ、「上田からの呼び出し」と偽の書状を重則に渡させた。そして重則が上田城に向かっている間に名胡桃城を乗っ取ってしまった。
こうして秀吉と北条氏は手切れとなり、天正18年3月に小田原征伐が開始されることとなった。
そして政宗にも、浅野長政を通じて、小田原に参陣するように催促がきたのである。そして惣無事令に違反して会津を奪ったことも指摘され、会津から撤退しない場合は奥州に兵を出すとも、秀吉は言ってきた。
「ーー他の大名にも参陣するように伝えてきてると?」
政宗は言った。大崎、葛西、田村、岩城、白河と、政宗の傘下の大名達にも、秀吉は小田原に参陣するように通知していた。
「御意にござりまする」小十郎が答えた。
「関白殿は旧領を奪うことはないな?」
「は、おそらくは」
「しかし新領は認めぬか、この会津もか?」
「さあ、それはーー」
小十郎も言葉を濁すしかない。
(家督を継いで7年、苦心惨憺して得た領土だがーー)
政宗は宙を見た。断腸の思いであった。
「ーーいずれにせよ、小田原へは行かねばなるまいな」
長い沈黙の後、政宗は言った。
(ーーこうなると風向きが変わってくる。家中の動きを見ねばな)

天正18年の春、豊臣秀吉は駿河国の黄瀬川に大軍を集結させた。
3月27日には秀吉が三枚橋城に到着、29日には小田原に向け進発し、山中城、韮山城を攻撃した。小田原征伐が始まったのである。
前田、上杉といった北方勢は碓氷峠を越え上州に進攻した。
豊臣軍の総勢210000。
4月1日に秀吉は箱根に本陣を置き、4月4日、小田原城の包囲を開始した。

4月になっても、政宗は会津を動かなかった。
小田原に参陣し、秀吉に臣従する。そのことは決まっている。
これまでの秀吉の天下統一事業の過程から、政宗の家督相続時の領土は安堵されるだろうとは確定的ではないながらもそう思っていた。
一方新たに手に入れた新領だが、この新領が安堵される保証はなかった。
それでも、小田原にいかなければならない。
(だが、それで終わりではない)
と政宗は思っていた。
小田原が落ちれば、次は奥州だが、秀吉は奥州にも多くの大名に参陣を呼びかけている。大名達が小田原に参陣すれば、小田原が落ちた時点で天下統一となる公算が高い。
天下が統一されれば、いくさがなくなる。
当然である。日本中の全ての大名が秀吉の忠実な家臣になるのだから。
しかし政宗は、その泰平の中に乱を求めていく。
乱を求めて、秀吉と渡り合う。それが万海上人の生まれ変わりとしての政宗の宿命である。
(その時、儂についてくる者が必要だ)
伊達家中は表面は静かだが、微かに波立っているのが政宗にも聞こえてくる。
「会津を征伐したのはやり過ぎではないか」
というのである。そのために秀吉の怒りを買い、伊達家は取り潰されるのではないかと。
そのように言う者達が、政宗の弟の小次郎を擁立しようと画策していると。そしてその中心には母の義姫がいると。
(やはりな。こうなれば非常の手段を取らざるを得まいか)
政宗は小次郎を呼んだ。
小次郎がやってきた。
この伊達小次郎、実は歳がわからない。
13歳とも、17歳とも、21歳ともいう。諱は政道というが、江戸時代の資料にあるのみで、この時代の資料は小次郎としか伝えていない。
子孫はいたそうだから、13歳はないだろう。それにしても対蘆名外交で何度も名前が出ていながら、合戦に出た記録もない。単に初陣が遅れているだけとすれば、17歳が妥当だろう。
「いい天気よのう」
政宗は天気の話をした。しかし会話が弾まない。
「ーー儂はそなたのために会津を得ようと思っておった。会津は坂東への足がかりとして、儂が城を置くことにしたが、そなたにはゆくゆくは先祖伝来の米沢を与えようと考えておった」
「ありがたき幸せに存じまする」
政宗の言葉に、小次郎は礼を述べた。
「儂が小田原に行くことは存じておろう」
「存じております」
「その隙に家督を儂から奪って、そなたを当主にしようという者達がおる。そして母上はその者達に担がれておる。しかし儂には母を討つことはできぬ」
小次郎は冷や汗で汗だくになっていた。
一方、政宗も動けない。
政宗は小次郎を斬るつもりで呼んだのである。しかし、斬れない。
(早く斬らねば、決心が鈍る)
政宗は話を続けた。
「そなたがおるから皆も母上も惑うのじゃ、言ってみればそれがそなたの罪じゃ。済まぬが死んでくれ!」
政宗は太刀を抜き、小次郎を袈裟に斬った。
(父を見殺しにして、今度は弟かーー」
別室に移り、政宗はしばらく動かなかった。

会津を出立する前、政宗は亘理元宗など上方に行ったことのある者達に、
「関白殿は派手好みらしいの、上方の様子はどうじゃ」
と聞いた。
政宗は大坂城や聚楽第の様子を聞いて、金銀をふんだんに使った華麗なものだとわかったが、うまくイメージできない。
政宗はこの後秀吉に会い、秀吉に触発されて、秀吉と渡り合いながらも秀吉と共に桃山文化を演出していくようになる。しかしこの時点では、政宗の感覚はまだ室町文化の範囲に留まっていて、秀吉好みの演出というのはできなかった。
(まあ良い、まずは関白に会ってからじゃ)
5月9日、政宗は小田原に向かうために会津を出立した。
人数は100人ほど。
国元にいれば、政宗は万の軍勢を動かすことができる。
その政宗が、小田原に参陣していくさをしないつもりなのである。
「関白殿には儂から申し上げておく故、そなたらは国元で待機するように」
と言って、政宗は傘下の大名達を国元に残した。
会津からそのまま南下すれば良いが、100人程度の軍勢では北条方の勢力から襲撃を受ける恐れがある。
政宗は豊臣家の勢力圏を通って小田原に向かうことにした。
会津から米沢、米沢から越後、信州、甲州、駿河と向かい、6月4日に御殿場に着いた。
政宗は底倉に宿所を与えられた。
翌日、浅野長政、施薬院全宗など五人の者が政宗の宿舎を訪れた。
政宗が惣無事令に違反して、会津蘆名領に進攻したことについて詰問するためである。
政宗は蘆名は輝宗の頃から、政宗の弟の小次郎が養子に入ることになっていたが、蘆名国王丸の死後、佐竹の妨害により小次郎は蘆名に養子入りできず、佐竹義広が蘆名の養子となったため、蘆名と戦わざるを得なかったことについて述べた。
長政達は政宗の宿舎を辞去し、秀吉の元に伺候し仔細を報告した。
「弟のためといっても、その弟を殺しておるではないか。なんともすさまじき男よの」
と秀吉は言った。
そう言いながらも、秀吉は概ね予想通りに事が運んでいると思っている。
政宗は奥州きっての荒大名となった。もっともそうなるように仕向けたのは秀吉自身である。
九代政宗の諱をもらい、万海上人の生まれ変わりで、曾祖父伊達稙宗の再来を期待されている人物。
そのような者は、平和な世には謀反でも起こすしかない。
秀吉の目論見は、そのような政宗を懐かせ、それによって自らの天下人としての威厳を高めることにあった。
(ともあれ)
政宗は秀吉の望む役割を果たした。戦国最後の荒大名としての役割を。
そのことを示すための演出も、秀吉は既に考えていた。

6月9日、政宗は秀吉に拝謁した。
場所は早雲寺、北条早雲の遺言により建立された、北条氏の菩提寺である。
寺の前に幕を張り、秀吉の本陣として、諸侯列席の中での拝謁となった。
政宗は白装束である。
政宗も秀吉を見た。
小柄で痩せており、関白として公家の頂点にも立つ秀吉は、顔に白粉を塗り、お歯黒をつけていた。金襴の陣羽織を羽織り、3尺はある朱鞘の大太刀を履いている。
(なんと、関白とはこのような者であったのか)
「左京大夫(政宗のこと)、その装束はいかがしたのか?」
秀吉は政宗に尋ねた。
「はっ、関白殿下をお怒りを買ったとなれば、これは腹を斬らねばならぬと思い、このように死に装束にて罷り越しましてござりまする」
と、政宗は滔々と述べた。
「わっはははは!」
秀吉は豪快に笑った。「良い心がけじゃ、しかし左京大夫、参陣したにしては人数が少ないようじゃの。なぜもっと軍勢を連れてこなかったのじゃ?」
「はっ、此度は天下の大いくさにござります故、それがしのような田舎者の軍勢を率いてはかえって御陣の邪魔になり申すと思い、わずか100騎のみを率い参上つかまつり申した次第にござりまする」
(言うわ)
要は反抗する気がないことを示すために軍勢を連れてこなかったのである。寛大さを身上とする秀吉が、飛び込んできた窮鳥のような政宗を殺す訳にはいかない。
(こやつはなかなか駆け引きがうまいようじゃ)
秀吉は思った。

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