一領具足⑭

引田城から仙石権兵衛がいなくなって、元親は十河城の攻略に取りかかった。

元親は寒川氏や由佐氏を調略し、そして十河城の支城を落とした。

しかし、十河城自体は落ちなかった。


天正11年、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討った。

次に、秀吉は織田信雄に目をつけた。

信雄の家老を調略し、そのことを知った信雄は家老を上意討ちにした。信雄は徳川家康を頼った。

秀吉は相変わらず、四国を本格的に攻める段階にない。

秀吉は仙石権兵衛の粘りの無さが内心歯がゆかっただろうが、権兵衛に機会を与え続けた。

権兵衛に粘りがないのは、四国に所領を持っていないからと、秀吉は見た。

しかし、秀吉も四国に所領がない以上、権兵衛に四国の領地を与えることができない。そのため、せめて淡路島へ領地を与えることにした。

権兵衛を淡路洲本5万石の大名にしたのである。

そして秀吉は信雄、家康との戦いに備える一方、大坂城の建設に取りかかった。

述べ10万人以上の人夫を動員し、昼も夜もなく、突貫工事で作業を続けて大坂城を完成させた。

大坂城が建設されたのは旧石山本願寺の跡地であり、日本の中央部のやや西寄りにある。都に近く、瀬戸内海に面し、海上運送の面でも大坂ほど、首都としての適地はない。

しかし、大坂城の建設をこの時期に行ったのはそれだけが理由ではない。

元親が四国を平定しそうな勢いを見せたことで、元親が大坂湾を超えて畿内に攻め寄せる可能性を、本気で考慮しなければならなくなった。そのための備えとして、大坂城を築いたのであった。


十河城は容易に落ちなかった。

十河存保は元は三好家の出身だが、存保の叔父の十河一存から二代、三好家の養子に入っている。

阿波の名族である三好家の財力により、十河城には相当の蓄えがあったのかもしれない。

どうも、天正11年の元親の動きは分明でない。元親は十河城の攻略にかかりきりだったのだろうか?

讃岐の次の、伊予の攻略が進んでいる様子がないのである。せいぜい東予の新居城主金子元宅との同盟の話があるだけである。

阿波は新占領地で、天正10年の洪水で一揆を起こす気力がなかったとしても、阿波の動向から目を離すことができなかったはずである。

つまり元親は阿波に兵力を割ける余力を常に持っておらねばならず、十河城を包囲しながら、伊予は久武親直に任せておいて、時に調略の手を伸ばしたり、時に金子元宅と連携したり、短期に分隊を派遣したりしていたのだと思われる。香川親和が金子元宅との同盟強化に関わったというから、親和を分隊の大将として、養父の香川信景が補佐したのかもしれない。

こうして、天正11年は暮れた。


天正12年(1584年)、

(次は伊予じゃ)

去年いっぱいで、阿波は立ち直り、反乱を兆しもなかった。

元親は、最大限の兵力を讃岐と伊予の平定に向ける環境を整えた。

得意満面、とは、元親は言えなかった。

(儂は所詮、四国の太守で終るのか)

つくづく、淡路島を信長に取られたことが悔やまれてならなかった。

(このままでいけるのか)

という不安が、元親にある。

柴田勝家が生きていた時は、元親は勝家と手を結んだ。しかし勝家は、秀吉に滅ぼされた。

元親は今度は、信雄と手を結んだ。しかし信雄も、信雄の同盟者の家康もまた、秀吉に滅ぼされるのではないか?

いずれ、秀吉の大軍が四国に押し寄せてくるだろう。その時元親はやはり、四国の軍勢のみで、秀吉と渡り合わねばならないのだろうか。

(悔やんでも始まらぬ)

目下の課題は、伊予である。

元親は十河城に抑えの兵を置いて、伊予に進軍した。

元親は南予黒瀬城主の西園寺公広を攻め、降伏させた。

しかし伊予の最大の敵は、河野氏である。そして河野氏の背後には、毛利氏がついていた。

毛利輝元は宍戸元孝を河野氏救援に派遣した。

元親は宍戸元孝と、3月に惠良、4月に高山、5月と6月に、惠良と菊間の間で戦った。

そうしている間に、6月11日、ついに十河城が陥落した。

十河存保は屋島から備前に逃亡し、そこから堺に渡り、秀吉の元で亡命者となった。


その間、秀吉は小牧・長久手で、信雄、家康連合軍と戦っていた。

秀吉は、局地戦においては家康に負けた。

長年の信長の同盟者であった、家康は強かった。光秀、勝家を打ち倒した秀吉には家康も勝てぬかと思っていた元親は狂喜した。

6月に秀吉は陣を引き払い、大坂城に戻った。


しかしここからが、秀吉の本領発揮だった。

秀吉はいくさにも強いが、それ以上に外交と政治の才能があった。

秀吉はこれまで、敵を一人一人、確実に潰す方々を取っていた。

そのやり方は、基本的には信長と同じやり方で、自らの権力を強化するための手段だった。しかし秀吉は、自分には信長ほど時間がないことを当然知っていた。

そして秀吉が、敵を一人一人潰すことができなくなった場合の案も持っていた。それもこれ以上ないほどの計画だった。

11月、秀吉は、信雄をまるめ込んで和解してしまった。

家康は、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の太守である。

その家康でさえ、独力で秀吉の勢力圏に侵攻する力はなかった。

こうして、秀吉と家康は睨み合いに入った。


9月、元親は土佐において、初めて2公1民の年貢を課した。

年貢としてはこれ以上取れないほどの高い年貢だった。

そして土佐から、一領具足をかき集められるだけかき集めた。

(早ければ来年には、秀吉がやってくるやもしれぬ)

元親は、宍戸元孝率いる毛利勢相手に、有利にいくさを展開していった。

そして天正13年春、元親は河野氏を降伏させた。

さらに西予を平定して、元親は四国を統一した。


秀吉と対立していたのは他に、柴田勝家の余力だった越中の佐々成政がいた。

しかし成政は、上杉景勝と対峙しており、秀吉は景勝を味方に引き込んだ。

その際、秀吉はわずかな伴を連れて、景勝の元に行ったという。

秀吉は「人たらし」とまで言われたように、その人心掌握術は怪物じみている。「赤心を腹中に置く」その精神といい、そのためどんな危険な環境にも飛び込むその胆力といい、飛び抜けている。中国大返しなどは危機管理が欠けているのではないかと思えるほどだが、実際は危機的状況も加味して、充分に備えながら敵と対立し、また和解や譲歩を引き出したりするのである。

それでも、秀吉はひとつの原則を持っている。それは「人は序列化されることを求めている」である。

秀吉は、時に相手に自分の命を預けていながらも、立場としては必ず、自分が優位な状況を作り上げている。

人は序列の中に入り、安定化することを求める。そのことを、秀吉は最もよく知っていた。


毛利輝元は、その序列化されることを求める人間の中で、最も勢力のある人物だった。

毛利の外交僧安国寺恵瓊が「藤吉郎さりとてはの者に候」と述べたように、秀吉は毛利側にも評価された。

評価すると、互いに自立をかけて争っているはずなのに、そこに序列が生じてくる。

織田は大国であり、毛利は戦国随一の大国だが、それでも織田に比べれば小さい。そこに序列が生じ、交渉を有利に運ぶことができる。だから信長は秀吉を対毛利の司令官にしたのだった。

本能寺の変で信長が死ぬと、毛利輝元は秀吉を押し立てて、その序列の中で生きようとする方向と、自立性を確保しようという、ふたつの方向で揺れた。

秀吉は、その機微を確実に捉えていた。

輝元は、秀吉と対立する柴田勝家の誘いにも応じなかった。

そんな輝元に、秀吉は美作、備中、伯耆の3か国の割譲を要求した。

輝元が言葉を濁していると、秀吉はさらに、出雲と備後の割譲を要求した。信長時代の高松城攻めの時の講和条件と同じである。

それが小牧・長久手の戦いを経て、秀吉と信雄が講和をすると、輝元は秀吉の中国侵攻を恐れるようになった。

そこで秀吉は、美作、備中の東部と伯耆の東部の割譲という大幅な譲歩で輝元と合意し、豊臣政権での毛利家120万石が確定した。

このように、秀吉は敵対した大名に寛容に接するようになった。しかしただ寛容になったのではない。

天正12年11月に従三位権大納言になったのを始めとして、官位を昇進させていく。

天正13年3月、秀吉は内大臣に就任した。また同月、紀州に侵攻し平定した。

こうして、近畿、中部で秀吉の敵は佐々成政と徳川家康のみとなった。

そして5月、秀吉は黒田官兵衛に、四国攻めの先鋒として淡路に出るように命じた。

6月には自身が出陣しようとしたが、そこで病を患い、弟の羽柴秀長を四国攻めの総大将とした。

羽柴家の四国平定軍は、淡路から阿波、備前から讃岐、安芸から伊予へと三方から攻めるという壮大なものだった。

淡路からは羽柴秀長率いる大和、和泉、紀伊の3ヶ国30000の軍勢が阿波に入った。

備前からは宇喜多秀家の備前、美作の兵に加え、蜂須賀小六正勝、黒田官兵衛、仙石権兵衛の率いる軍勢23000が讃岐屋島に上陸。

安芸からは毛利輝元率いる、山陰山陽8ヶ国の30000の軍勢が伊予に侵攻した。

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