檀林皇后⑨

清和天皇は伴善男の取り調べを命じた。善男は当然、無罪を主張した。

この頃、陰陽寮が応天門の火災は山陵が穢されたことによると具申した。

貞観8年(866年)8月14に山陵を点検してみると、山陵の木を伐採した跡が見つかった。そこで18日、朝廷は陵守を処分する方針を決定した。

何者かの手引か、または迷信深い当時のことだから偶然だったのかもしれないが、善男にとって助け船になったの゙は確かであった。火災は放火ではなく、したがって善男の仕業ではないということになりそうだった。


藤原良房は嘉祥4年(851年)正二位に登り、斉衡元年(854年)には一上(左大臣)に就任している。そして斉衡4年(857年)には太政大臣に叙任された。

太政大臣には良房以前、皇族以外では藤原仲麻呂、弓削道鏡が就任しているが、仲麻呂は太政大臣が太傅と改称された時期であり、道鏡は正確には太政大臣禅師に就任している。つまり太政大臣という名称で皇族以外で就任したのは良房が最初である。

しかし太政大臣は、位人臣を極めても、実際には職掌のない名誉職であった。つまり応天門の変の当時、良房は何事かを決定する権限を持たなかったことになる。

左大臣源信は善男に告発されても無罪とされていたが、精神的なショックからか自宅に引き籠もっており、右大臣の藤原良相は病気と称して出仕していなかった。

つまり大納言の伴善男を裁ける人物が、当時の太政官にいなかった。善男はこの点、安心していただろう。

ところが8月19日、良房が人臣初の摂政に任じられるのである。

太政大臣は原則として皇族が就くが、そこに摂政ほどの厳密さはなかった。しかし摂政とは皇族が就くものであり、だからこそ摂政は「殿下」と呼称する。良房は皇族待遇になったのであり、人臣としてあっていいことではなかった。ともかくこれで、良房は応天門の変について裁可する権限を得たのであった。

8月29日には伴中庸が左衛門府に拘禁される。そして生江恒山が応天門の放火について自供を始めた。

中庸はまだ自供していなかったが、「中庸が自供した」と偽って善男に自白を求めると、善男は観念して容疑を認めた。まるで律令が善男を非とするなら、善男も非を認めねばならぬと思っているかのようだった。


善男は出世のためなら人を陥れることも平気な男である。

しかし善男の欠点は、律令を信じ過ぎていたことだろう。

善愷訴訟事件ですらも、寺社が貴族に対し独立した権利を持つ、不輸不入の権ヘと発展する過渡期の事件だった。その流れを善男は、律令の知識をフルに使って全力で止めた。

応天門の変の前の承和の変は、藤原氏による他氏排斥の事変ではなかった。藤原氏の中にも処罰された者も大勢おり、また嵯峨源氏が台頭する契機ともなった。

承和の変の効果は、藤原氏の中心が良房の系統(良房には男子がいないので、良房と養子の基経の系統)に一本化されたことである。そしてそれまで、藤原氏の中にも律令制の強化を志向する政治家が少なからずいたのが、承和の変から皆無になったことである。

こうして伴善男は、自らの一族の象徴である門に放火してまで出世を図る稀代の悪人として名を残すことになった。

しかし大宅鷹取という、善男の従者に娘を殺された者が、偶然善男の放火の現場を目撃したというの゙は不自然である。

善男が源信を告発した時、藤原良相は兵を動かして源信の邸を包囲した。ならば良相と善男がが共謀して源信の追い落としを計っていたとすれば筋は通る。

善男は源氏排斥の陰謀と思えど、自らが標的にされているとは思わなかっただろう。

藤原氏を押し上げていたの゙は、日本という国家をバラバラにしてでも、様々な権門が利益を追求していくという、強い欲望のエネルギーである。その流れが善男には見えていなかった。

そして応天門の変は源氏排斥が目的ではなく、良房が摂関政治を開始するという、誰もが予想しないところにあったのである。


善男は断罪されて死罪とされたが、善男はかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っているという忠節に免じて罪一等を許され、伊豆国に流罪となった。

仁明天皇のために法要をしていたというの゙は、善男の唯一の愛嬌だろう。

貞観10年(868年)に、伴善男は死んだ。


小野篁は応天門の変の前に死んでおり、応天門の変に関わりがない。

善愷訴訟事件で、篁は善男に全面的に賛同したが、後に「あの時の判断は誤りであった」と言って悔いたという。

何が誤りだったのだろう?篁は「元々弁官に権限のない裁判を行った以上、公罪でなく私罪」と言ったのだが、弁官に権限はないのではなく手続上の不備が問題だったのだから、誤りといえば誤りかもしれない。

小野篁はその反骨精神から「野狂」と言われた。

篁が昼間は官吏の仕事を、夜は閻魔大王の元で裁判の補佐をしていたという物語が、『江談抄』や『今昔物語集』にある。

篁は、六道珍皇寺にある井戸を通って現世と冥界を行き来したという。

『今昔物語集』によれば、藤原良相は、昔篁が罪を犯した時に篁を弁護したことがあった。後に良相は一旦死去して冥界に行ったが、篁の執り成しで冥界から戻って蘇生したという。

また藤原高藤は良房の甥だが、長い間出世できなかった。しかし娘婿が源定省(みなもとのさだみ)で、父の光孝天皇が崩御すると、源氏から皇族に復帰して宇多天皇となり、高藤は順調に出世して最終的には内大臣にまでなった。『江談抄』には、高藤が急死した時に、篁によって冥土からの生還を果たしたと記されている。


そろそろ、時間を嘉智子が生きている時期に戻そう。

承和14年(847年)、嘉智子は兄の橘氏公と共に、橘氏の師弟のために大学別曹学館院を設立した。

このことは、承和の変以後の藤原良房の台頭を、嘉智子が警戒してのことかもしれない。遅まきながら、藤原氏に対抗できる人材を、橘氏の中から育てたいと思ったのかもしれなかった。

そう思うのは、嘉智子は晩年に檀林寺を建立するが、建立に至る経緯と、そこに至る禅への関心を持った時期を考えると、嘉智子は承和の変以前に、禅に関心を持っていたと考えるのが自然であるからである。

つまり、嘉智子が空海の極彩色の世界を夢描いて承和の変を起こしたのではなく、禅に興味を持つくらいに世の中を達観した上で、あえて承和の変を起こしたと考えるべきである。嘉智子は自らの行為が皇室の力を弱めることも、良房を台頭させて、律令制が破壊されていくことも読めていた。

道康親王も恒貞親王も、外孫と内孫の違いはあっても同じ孫であり、恒貞親王を廃太子にすれば、恒貞親王やその母で嘉智子の娘の正子内親王に恨まれることもわかっていた。それが自分や家族の幸せにならないこともわかっていた。嘉智子は嵯峨天皇の考えを理解していた。それでも承和の変を起こしたのは、結局は嘉智子は不純物を受け入れることができないという一点に尽きるだろう。

この点嘉智子は嘉智子であり、嵯峨天皇のように清も濁も合わせ呑んでいくということができなかった。しかしそういう、自他を峻別する性格の方が、禅に興味を持つ上では適性があるといえそうである。

さて、檀林寺である。

嘉智子は禅に興味を持ったが、当時の日本には、禅は最澄が唐から持ち込んだ経典など、僅かな書物にしかない。しかも書物の禅であり、実践の禅は皆無であった。

嘉智子は、実践の禅を日本に根付かせるため、唐から禅僧を呼ぼうと思い立った。

嘉智子は恵萼という僧を唐に派遣した。恵萼は杭州海昌院に赴いて、斉安という僧に会い、斉安を日本に招聘しようとするが、斉安は弟子の義空という僧を推挙した。

恵萼は承和9年に日本に戻るが、その時は恵萼は、義空を同行しなかった。

恵萼は再び唐に渡った。

当時唐では、会昌の廃仏が進行していた。

国際色豊かな唐の文化も、王朝が衰えると閉鎖的、排他的になるらしい。

当時の皇帝武宗が道教に傾倒して仏教を嫌い、廃止された寺院が4600ヶ所余り、還俗させられた僧尼の数が260500人、寺の奴婢を民に編入した数が150000に及んだという。

後に慈覚大師と呼ばれる円仁も会昌の廃仏に遭遇しており、外出制限を受けたりしている。

この会昌の廃仏により、義空は唐にいるべきではないと思ったのだろう、承和14年(847年)、義空。恵萼に同道して来日した。

義空は東寺西院に住したが、檀林寺が創建されるとその開基となった。

檀林寺は禅寺であり、思いきったことに尼寺である。女性の嘉智子らしいはからいだろう。

檀林寺は塔頭12坊もある壮大な寺院だったという。

しかしこの平安初期においては、世間は空海の密教のような明るい世界を好んでも、禅宗の枯れた世界を好まなかった。

禅宗が普及するようになるには、末法思想が広く認知され、それに伴い浄土教が流行しきった後、武士が発生して自力本願に目覚める必要があった。

嘉智子が死ぬと、檀林寺は衰えた。義空も日本での禅の不振に失望し、唐で会昌の廃仏が終息したこともあって、斉衡年間(854年〜857年)に唐に戻った。

後に恵萼が唐に渡り、義空に会った。

義空は自分が禅宗を広めに日本に渡った事績を、「日本国首伝禅宗記」という文を碑に刻んで恵萼に渡した。恵萼はそれを持って帰って、羅城門の脇に建てたという。


檀林寺は、恒貞親王が開山となった大覚寺や、淳和院と合わせて、淳和院別当が置かれた。淳和院別当は奨学院別当と共に、源氏長者が兼任することとなった。平安中期まで、源氏長者は嵯峨源氏から出ていたので、嘉智子が排斥した嵯峨源氏と恒貞親王の大覚寺とその父の淳和天皇の後院の淳和院、そして嘉智子の檀林寺がひとつにまとめられて管理されたことになる。平安時代らしい配慮というべきだろう。

この淳和院別当が、奨学院別当、源氏長者と共に、足利義満以降武家源氏の装飾となる。

しかし檀林寺はその後の衰微が著しく、平安中期の一条天皇の頃には廃絶してしまう。

檀林寺が廃絶した後、檀林寺の鐘の音が土中から聞こえてくるという噂が立った。

平安時代の女流歌人赤染衛門は、寺の荒廃を哀れんで歌を詠んだ。

「ありしにも あらずなり行く 鐘の音

  つきはてん世ぞ哀れなるべし」

世の無情を赤染衛門は哀れんだのだが、そもそも世の無情を悟るのが禅の教えである以上、禅宗に帰依した嘉智子にはふさわしい軌跡といえるだろう。

檀林寺の跡地には、南北朝時代になって、夢窓疎石が後醍醐天皇の霊を弔って天龍寺を建立した。今は野宮神社の南側道路脇に、檀林寺の跡地であることを示す石碑が立つ。


無情といえば、嘉智子にふさわしい伝説がある。

嘉智子が稀に見る美貌の持ち主であったため、嘉智子を思慕する者が後を絶たず、修行中の若い僧侶でさえ心を動かされ、修行に身が入らぬほどであった。

嘉智子はこうした状況を長く憂いており、「諸行無常」、つまりこの世のものは全て移り変わり、永遠なものはひとつもないという真理を自らの身を持って人々に示し、人々の心に菩提心を呼び起こそうと考えた。

そこで嘉智子は、死に臨んで自らの遺体を埋葬せず、どこかの辻に打ち捨てよと遺言した。

遺言は守られ、嘉智子の遺体は辻に遺棄された。

嘉智子の遺体は日に日に腐り、その屍肉をカラスや犬が啄みやがて嘉智子の遺体は白骨となった。

それを見た人々が世の無情を感じ、僧達は妄念を捨てて修行に打ち込んだという。その嘉智子の遺体が置かれた辻は、後に帷子辻(かたびらがつじ)と呼ばれるようになった。

九相図という、屋外に打ち捨てられた遺体が朽ちていく様子を9つの絵に描いた仏教絵画がある。主役は嘉智子か小野小町で、この二人が並べられると、平安時代らしい、美人の遺体が朽ちていく様を見て世を儚む物語の一群の中のひとつだと思うが、小野小町より嘉智子の方が主役にふさわしいだろう。

禅宗に帰依した嘉智子らしいエピソードで、このエピソードを書きたいために私はこの小説を書いたのだが、このエピソードは事実ではない。

なぜなら、嘉智子は御陵に葬られている。

嘉智子の御陵は嵯峨陵という名で、京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町にある。人臣から出て、皇后に登り詰めた嘉智子は、皇室の一員としてちゃんと葬られている。

嘉智子の遺言も薄葬にせよというもので、帷子辻は片方がヒラ(崖または斜面を示す古語、この場合は北方)であったことからかたひらと呼ばれ、帷子の字を当てたとするところから、葬送の時に棺に被せた帷子が風に飛ばされ、この地に帷子が舞い降りたことから、帷子辻と呼ばれるようになったといい、それが嘉智子の遺体を打ち捨てる話に発展したと見るべきだろう。


嘉智子は嘉祥3年(850年)3月2日に落飾した。後の世になると、人は老いるとすぐ出家するようになるが、嘉智子の生きた時代は強い動機がなければ出家しなかった。

3月21日、仁明天皇崩御。

この月は事が多い。3月25日、新たに即位した文徳天皇と良房の娘の藤原明子の間に、惟仁親王(清和天皇)が誕生した。

5月6日、橘嘉智子崩御。

時代は既に、末法の風が吹いていた。

               (完)

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