伊達政宗⑳

噂は、政宗の耳にも届いた。
恐怖のあまり、政宗は口の中がカラカラに乾いた。
政宗は慌てて小十郎を呼んだ。
「小十郎、そなた江戸大納言(徳川家康)のところに行って、太閤殿下に此度のことの取りなしをお願い致せ」
「承知つかまつりました」
小十郎は徳川家康の伏見屋敷に出かけた。
家康はすぐに小十郎と面会した。
「ーーそれで、大崎侍従殿はこの儂にいかなる御用かな?」家康が言うと、
「は、ぜひとも大納言様には、我らの殿をお叱り頂きたく罷り越しました」と小十郎は言った。
「ほう、それはどういうことじゃ?」
「我らの殿は生来反抗心の強い御方にござりまするが、太閤殿下を相手にしているうちにすっかり弱気になってしまったようでござる。大納言様もお聞き及びと存じまするが、此度伊予への転封の噂が流れると、女々しくも大納言様におすがりして、太閤殿下に取りなして頂くようにお願いしてこいと言うだけで、自らどうしようとは少しもお考えになりませぬ。ぜひ大納言様には、我が殿をお叱り頂いて、我が殿の不明を晴らして頂きとうござりまする」
このように小十郎が滔々と述べると、
「大崎侍従殿は良い家臣をお持ちじゃ」
家康は笑って言った。「それではこう伝えよ、大崎侍従は日頃から見どころのある武将じゃと思うておったが、とんだ見込み違いであった。あのような腰抜けは二人とおるまい。そのような腰抜けはさっさと伊予に流されて、5000石程度の冷や飯でも食っておるのが関の山よと」
小十郎は帰って、政宗に家康の言葉を伝えた。
翌日、
伏見の伊達屋敷では、朝から篝火が炊かれ、甲冑を着けた武者が屋敷中を走り回り、弓、鉄砲、槍を手にした兵達がひしめいた。
(伊達は屋敷に込もって抗戦する気か)
報告を聞いた秀吉は、浅野長政を遣わして政宗に申し開きをさせることにした。
長政は屋敷に入ろうとしたが、兵達は入れてくれない。
「上使である、上使であるぞ」
と長政は言って、やっと中に入れてもらえた。
長政は一室で待たされたが、周囲の兵は殺気立っており、長政も気が気でない。
もっとも長政も、戦国の世の習いとしてこのような場面には慣れているのだが、世も平和になり、しかも秀吉の膝元の伏見でこのような騒動が起こっていることに面食らっているのである。
しばらく待たされて、ようやく政宗が出てきた。
政宗は髪もくしけずらず、憔悴しきった顔で、はらはらと涙を流した。
「それがし日頃より太閤殿下の御恩を厚く思っておりましたところ、はからずも殿下の御勘気を蒙り、伊予への転封もやむ無しと思っておりましたところ、家臣どもがこのように屋敷に立て籠っていくさ支度を始め、それがしが止めても聞き入れませぬ。こうして心ならずも殿下に弓を引くことになるのかと思うと涙が止まらず、さりとて打つ手もなく、このように途方に暮れている次第でござりまする」
と政宗は、嗚咽を交えながら切々と訴えた。
政宗の食えないところである。
政宗が直々に下知をしているとなれば、さすがの秀吉も政宗を処罰しない訳にはいかない。家臣が止めても聞かないという体にして、政宗一人は恭順の姿勢を示したことで可愛気を見せたのである。
(ちっ、よくもいけしゃあしゃあとーー)
と長政は思ったが、今回の秀次切腹の件はやり過ぎであると長政も思っている。ただこのように脅されたのが不快ではあった。
「あいわかった、貴殿のお言葉、殿下にお伝えしよう」
と言って、長政は帰っていった。
秀吉は長政の報告を聞き、さらに家康が、政宗への取りなしのために秀吉に拝謁を申し出てきた。
(あやつめ、まだ牙は抜けておらなんだか)
秀吉は思った。
秀吉の天下を支えているのは、秀吉の圧倒的な人気である。
この秀吉の人気は、秀吉が人を殺すこと少なく、短期間で天下を統一したことにより生じている。
その秀吉にとって、遠国ならともかく、機内、それも足元の伏見で騒動が起こるようでは困るのである。世を覆う秀吉の人望に傷がついてしまう。
(ちと薬が効き過ぎたようじゃな)
「大崎侍従は良い家臣を持っておるな」
と秀吉は、家康と同じことを家康に対して言った。「ならば大崎侍従の家臣達に誓紙を出させよ。政宗に叛意の疑いあれば、ただちに政宗を隠居させ、家督を兵五郎に継がせるとな」
秀吉の意向は、ただちに政宗に伝えられた。
(儂が家臣に借りを作ることになるのか)
政宗は愉快ではなかった。ただでさえ、政宗はと重臣達の間には微かながらひびがある。この上重臣達に借りを作りたくはなかった。
(が、やむを得まい)
重臣19名が、秀吉に誓紙を差し出すことで、伊予転封の話は沙汰止みになった。
(これで良い、ちと薬が強すぎるが、これで殿も家臣達との強調に努めるであろう)
と、小十郎は思った。

小十郎の読み通り、秀次切腹事件以降、秀吉は横暴なことはしなくなった。
卑賎の身から天下を取った秀吉は、圧倒的な人気を必要としていた。
その人気は秀吉の寛容さにあり、秀次切腹事件で秀吉の生涯で数少ない残虐行為に手を染めても、それを持続させる訳にはいかなかった。
ただでさえ、秀吉は再度朝鮮に出兵しなければならなくなり、政宗のことに構ってはいられなくなった。
しかしそれでいて、秀吉の権力は益々強くなったようであった。
豊臣政権は実力主義で、実力が伴わない者は、大大名であっても容赦なく改易させられた。
慶長3年(1598年)、秀吉の親族の小早川秀秋が筑前国主から越前に減転封させられ、また蒲生氏郷が死に、わずか13歳の子の秀行が家督を相続すると、秀行を宇都宮18万石と、改易に等しい減転封を行った。

一方、政宗も派手な散財はできなくなり、重臣の意見に耳を傾けざるを得なくなった。
政宗にとって、面白くない日が続いた。
蒲生家が去った会津には上杉景勝が入部した。
景勝は越後からは引き離されたが、庄内領を合わせて120万石となり、南からの圧力はさらに強くなった。
(会津を獲る。太閤が亡くなれば会津を取り返す)
と政宗は日に何度も思い、頭の中で計略を巡らせる。
そしてそのたびに、計略は崩れた。
(計略が立たない)
何年も同じことを考えているうちに、政宗も認めざるを得なくなった。会津は取り返せない。
秀吉が死んで天下が乱れれば、家康が天下を取るだろう。
その時に、上杉景勝が家康に敵対すれば、政宗にチャンスが回ってくる。
景勝が負ければ、上杉家は改易になるかもしれない。しかしそうなっても、政宗の手に会津は入らない。改易により空いた領地を、誰かが貰うだけである。
会津は、秀吉死後の戦乱で、政宗が自力で会津を奪った時にしか手に入らない。
(いや、景勝が会津の守りを疎かにして庄内の守りを固めれば)
と思うが、そう思った途端に、その考えは吹き飛んでしまう。
(そのことは、あの城が証明している)
あの城とは、会津若松城である。
日本中の大名が城に天守閣を持つようになるのは江戸時代からのことで、秀吉の時代に、天守閣のある城はわずかしかない。
しかし、そのわずかな例を見れば、秀吉が何を思っていたかがわかる。
毛利輝元の広島城、宇喜多秀家の岡山城、石川数正の松本城、そして蒲生氏郷、上杉景勝の会津若松城。
この中の一人を除いて皆大封の主であり、一人を除いて皆関ケ原の時の西軍の将である。
ここに、秀吉の目の確かさがある。というより並の眼力ではないと言っていい。
秀吉が大名に天守閣の建造を禁じたという資料はないので、大多数の大名が秀吉の時代に天守閣を作らなかったのは、大名達の秀吉の意向をおもんばかって自粛したと見るべきだろう。
そして天守閣のある城を立てた大名達は、秀吉の許可があって立てたのだろうが、天守閣の建造を許可する資料もまたないので、秀吉が口頭で許可を与えたのだろう。
こう見ると、一人だけ秀吉が読みを外したようだが、その一人、松本城の石川数正は元徳川家康の家臣で、家康も信を置いていた重臣だったが、家康が秀吉に臣従する前に秀吉の元へ走った武将で、閉鎖的な徳川家臣団からは相当に顰蹙を買った人物である。
その数正が松本城に天守閣の建造を許可されたということは、中山道の守りを託されたということである。あの優雅な松本城の天守閣は、反徳川の象徴なのである。
石川家は数正の子の康長の代に、関ケ原で東軍についたのであって、数正の本意ではない。秀吉の親族の加藤清正や福島正則が、この時期天守閣のある城を持っていない点を見ると、秀吉の見る目は並のものではない。
話を上杉景勝に戻せば、景勝なら間違いなく、危急の時には景勝は庄内を捨てて、会津の守りを固めるだろう。
(やはり会津は、伊達家が奥州最大の大名だったから獲れたのじゃ。伊達家の2倍もある上杉を相手にして、会津が獲れるはずもない)
考えてみれば当たり前のことで、政宗としては脱力する他なくなる。
(いや、儂は今までそんなことも考える必要がなかったのじゃ。自分より強い相手が奥州にはなかったのだから)
それにしても、会津に拠点を置く勢力がさらに大きくなったのは、それだけ自由を束縛されたようで、政宗としてはやりきれない。
政宗の鬱屈した感情は、出口を求めていた。
岩出山城にいる時、政宗は時々鷹狩りに出かける。
岩出山から西に行くと、山が段々低くなり、丘陵地帯を経て広汎な平野に出る。
古来より宮城野と呼ばれ、歌枕にもなっている。
(この地に大坂城や聚楽第、伏見城のような城を建て、城下町を作ってみたい。この地なら、町もきっと栄えるだろうーー)

この記事が参加している募集

歴史小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?