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はじまりの日(4)

 週末、愛由美(あゆみ)は静岡ナンバーの青い軽自動車で息子とともに、姉とその友人が共同生活を送るこの古い平屋にやってきた。
「はじめまして。愛由美です。姉がいつもお世話になっています」
「こちらこそ。瀬戸菜月(せとなつき)です。いらっしゃい」
玄関先に現れた愛由美は小柄な紗都美(さとみ)よりさらに一回り小さく、ショートボブに切り揃えた柔らかい茶髪が話したり笑ったりするたびに音もなくさらりと揺れた。
写真で見るよりも愛くるしい顔に見えるのは仕草のせいかもしれないと思ったが、媚びるというよりは全体的におっとりとしている印象で、出逢ったころの紗都美とよく似た雰囲気だと思った。
寮の〈703〉号室で出逢った日が遠のくに連れ、紗都美はおっとりとした少女から、知的な女性へと変わっていった。
まるで、読書好きの彼女が本を読んだ数だけ、その知性が紗都美という母体に吸収されて、元来のおっとりした部分をシームレスに塗り替えていったようで、毎日一緒にいると気づくことが難しかった。
しかし、愛由美と対面して、その変化が裏付けされた気分だった。とはいうものの、紗都美だって先日の夜のように張り詰めていない時はよく笑う人で、その点は姉妹に共通しているようだった。
玄関の扉枠の外に見えるブロック塀、その向こうに伸びる隣家の枇杷の木には袋がけがされていた。
愛由美はギンガムチェックの半袖のシャツに白い細身のパンツ、足元は黒いスニーカーを履いていて露出した踝が涼しげだった。
その細い足の陰からキャップを被ってリュックを背負った半袖短パンの男の子が、辺りの様子を伺うように母親によく似た黒目がちな瞳を上目遣いにして菜月を見上げていた。
「ほら、匠もご挨拶して」
「こんにちわ…」
母に促されて渋々挨拶の言葉を口にした色の白い丸顔の男の子が、匠だった。
「こんにちは。匠くん。私、菜月っていうの。なっちゃんって呼んでね」
匠は屈んで目線を合わせた菜月に向かってなにか言いたげにじーっと見つめていたが、ぷいっと母親の足の裏に顔を隠してしまった。
まるで、「お前の顔なんか見たくない!」と言われているようで、お互いの第一印象はあまりいいものではなかったように思う。
「こら!匠!お返事は?」
 愛由美は眉根を寄せて、小さな頭にポンっと手をやった。
「さ、愛由美ちゃん上がって。そうめんと天ぷらがあるからサクッと食べて、お母さんのところ行かなきゃ、ね」
「すみません、お邪魔します」
 菜月は愛由美と匠親子を家の中へ促した。紗都美はすでに台所とダイニングテーブルを行ったり来たりして食事の準備を整えていた。
「テーブル用の椅子が二脚しかないから、匠と愛由美はソファの方で食べてね」
そうめんを手に長女の振る舞いを見せる紗都美の姿に菜月は面食らった。
愛由美という血の繋がった家族にだけ見せてきたであろう、紗都美の「プライベート」な一面を垣間見たような気がしたのだ。
お互いに呼び合っている呼び名のせいか、菜月といる時の紗都美は、どこか妹を思わせる雰囲気があるのに、その日その時は、愛由美という存在によって、本来の「紗都美らしさ」を見せつけられているようにも感じた。
女子寮の生活から数えるともう、十二年近くの付き合いになるが、紗都美の全てを知っていたわけではないということが、菜月の中に微量の寂しさを募らせた。それを振り払うように菜月は
「じゃあさ、みんなでソファの方のテーブルで食べようよ。せっかくだし、ね。ちょっと狭いけど」                             と提案した。                               「いいの?なっちゃん、テーブルじゃなくて」
「いいよいいよ、なに、その質問」
 菜月は笑いながら、ダイニングテーブルの上に並べられた食器類をソファの方のローテーブルに並べ直した。
「食事はテーブルまたはお膳でするもの」という紗都美のポリシーに反しているとは理解しつつも、四人でおよそ食事に不向きなデザイン性の高いローテーブルに落ち着くと、「いただきます」と声を揃えた。
「おいしい?匠くん」
「うん」
「いっぱい食べなよ」
「うん」
匠は話しかけないで欲しいというような雰囲気を出して、白く細い麺を次々に口に運んでいった。
「匠、お行儀よく少しずつ食べなさい」
「愛由美はもっと食べなさい」
天ぷらにほとんど手をつけていない妹に向けて、紗都美が母親のような口調でぴしゃりと言った。
「食べるわよ。お姉ちゃんって本当にうるさいなあ」
「うるさくないでしょ、この天ぷら、せっかくなっちゃんが揚げてくれたんだから」
「え、これ全部手作りだったんですか、すみません、こんなにたくさん」
 そう言って愛由美はナスの天ぷらに手を伸ばした。麺つゆに少し浸して口に運ぶと、
「おいひー」
と、感嘆の声をあげた。
その様子にわざとらしさはなく、目を丸くして箸で挟んだ食べかけのナスを見つめていた。
もしかすると、この数日間、色々なことが重なった愛由美は満足に食事が喉を通らなかったのではないかと菜月は思った。
そうでなければ、こんな普通のナスの天ぷらに感動することもないだろう。
「お姉ちゃんは料理があんまり得意じゃないから、菜月さんばっかりご飯つくってるんじゃないですか」
紗都美は妹を一瞥してわざとらしいため息をついた。
菜月は苦笑しつつ、
「そんなことないよ。紗都美も時々手伝ってくれるし、時々つくってくれる」
と、答えた。
「そんな時々、時々って言わないでよ、なっちゃん!」
「ごめん、ごめん。でも、時々だよね」
「もう!」
二人のやりとりを見ていた愛由美が箸をコトンと置き、
「いいですね」
と、呟いた。
箸を置いた音がやけに反響したように感じた。
「なにが?」
紗都美が訊いた。
「前に、うちの実家に菜月さんが遊びに来てくれた時のことを、母がよく話していたんです」
「私のことを?」
「ええ。紗都美には菜月さんがいるから安心だって。父はダムの建設中に事故に巻き込まれて、翌日、川に浮いているところを発見されたんです。それからお姉ちゃんは絶対に川に近づかなかったのに、菜月さんが来たあの夏、お姉ちゃんは多分、お父さんが居なくなってから初めて、川に行ったんです。それも、服のまま川に入ったんですよね。お母さん、菜月さんのお陰だって言ってました。紗都美が自分をさらけ出せる人を見つけられて良かったって。二人が向き合って笑ってる姿を見ると、幸せな気持ちになったって言ってたんです。それで、今、二人を見ていて、あぁ、こういうことかって、母の言っていたことがわかりました」
あの夏、二人で着衣のまま川に浮かんだ日のことを菜月は思い返した。
紗都美の父親の事故のことも、紗都美があの日まで川に近づかなかったことも、菜月は知らなかった。
菜月にとって単なる良き夏の思い出となったあの日が、紗都美にとってはいったい、どういう一日だったのだろうか。
川辺で手にした大きな石を、力一杯スイカの上に振り下ろした時、紗都美は何を感じ、考えていたのだろう。
帰りの電車で一筋伝った涙。あの時車窓に見えていたのは、そうだ、ダムだった。
無機質で忌々しい人工物を見ないように紗都美は目を瞑っていたのではないか。
推し測れない紗都美の胸の内を菜月は思ったが、先ほど、自分の内側に微量に積もった寂しさの嵩が増した気がして、その自分本位な感情に腹が立っただけだった。
「もう、ご存知だと思いますけど、私、離婚して、匠と二人で生きていくことにしたんです。私にはこんな窮地に立った時、菜月さんみたいに側にいてくれる友人はいません。人より早く結婚して、地方に引っ越して、子供を抱えてみると、なんだか、友達との付き合い方ってわからなくなっちゃって。旦那ってこんな風にいなくなるものだと思わなかったから、どんなことがあっても近くに居てくれる人っていいなって、素直に思ったんです。旦那になる人を見つけるより、そんな友達と出会う方が難しいですよ、きっと」
哀しげな影を落とす愛由美の話を菜月も紗都美も黙って聞いていた。
旦那が無責任に残していった子供の人生を背負うということが、どれほどの重圧なのか、菜月には想像もできず、愛由美にかけられる言葉は見つからなかったが、姉妹だけでは言葉にしずらい気持ちが、菜月の存在があることによって少しでも素直にその口をついて出てきてくれたらと願った。
自分たちのように自らの人生を優先的に考え、全ての時間を自由に好きなように使うことができる生活とは対極にある、最愛の存在によって制約された日々を思うと、とても自分に子育ては務まらないと落胆にも似た気持ちになった。
「愛由美ちゃん、この前ね、紗都美にも話したんだけど、この家で一緒に暮らさない?」
「え」
「あの、玄関上がってすぐ右手にある部屋。台所の向かい側なんだけど、今、物置みたいになってるから少し片付ければ愛由美ちゃんたちの部屋として使ってもらえると思うの」
「でも、匠もいますし」
「あと十年後には男手としてしっかり働いてもらうから大丈夫よ」
「でも…お姉ちゃんは、いいの?」
愛由美は心配そうに眉を下げ、否定されることを恐れるような声色で姉に尋ねた。
紗都美は妹を安心させるように口角を上げ、深く頷いた。
「なっちゃんがそう提案してくれて、私も悩んだけど、現実的にはそれが一番いいでしょ。お母さんの世話もあるし、家賃も三等分すればだいぶ安く済むし、匠の面倒も三人で見られる。瀬戸菜月様のお言葉に甘えさせていただこう」
紗都美がいたずらっぽく菜月を見た。
菜月はその視線に応えるように、芝居がかった風に「よかろう」と返事をした。
すると、愛由美はこらえていたものが堰を切ったように溢れ出し、子供のようにわんわんと声をあげて泣きはじめた。
匠はそうめんを絡めたフォークを握ったまま、母親のただならぬ様子にうろたえていた。
菜月の横に座っていた紗都美がすっと立つと愛由美の傍に寄り添いその肩をそっと抱いた。
「大丈夫だからね、アユ」
美しく咲いた花弁を指作でそっと撫でるような柔らかい声で紗都美が言った。
菜月はその姉妹の姿を居間に残し、何度も首をもたげる自分本位な寂しさを隠すように台所へ移った。

つづく

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