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はじまりの日(7)

匠を抱え、電話で告げられた警察署へ向かった。
誰にどうやって声をかけたら良いのかもわからずに、通りかかった婦警に電話で聞いた内容を伝えたが、口から出る言葉の数々はまるでうわ言のように現実味がなかった。
受付を通り過ぎた人気のない廊下の先にある、黒いソファで待つように言われ、菜月と匠は黙って言われた通りにした。
匠はただ黙って宙を見ていた。ぐずったり、泣いたりしなかった匠の態度をこの時はそれが当然だと思っていた菜月は、ずっと後になってから、どれだけその胸の内が不安で孤独でいっぱいだったかを想像するに至り、猛省した。 
「失礼ですが、あなたがお電話に出られた瀬戸菜月さんですか」
「はい」
蒼白な顔をした菜月の前に二人の警察官が現れた。
やや年配の坊主頭の方が山科、若い方が江蔵と名乗った。
菜月はただ、頷くように頭を下げた。
「君、ちょっとこの子を見ていてくれるかい?」
山科は先ほどの婦人警官に声をかけると、続いて匠の前に膝をつき、
「少しの間、あのお姉さんと遊んでいてくれるかい?」
と、優しく言った。
匠は右手を繋いだまま、どうしたら良いかを菜月に目で尋ねた。
菜月は笑みをつくって頷いた。
婦人警官にその手を引き継ぐと、
「よし、じゃあ向こうでジュース飲もうか」
と、二人はソファを離れて行った。
山科と江蔵は目を合わせて頷くと、江蔵が口火を切った。
「県道の交差点で信号無視をして交差点内に侵入してきた自転車を避けたトラックが、真野愛由美さん、紗都美さんが乗る軽自動車に突っ込んだんです。すぐに救急隊員が駆けつけたのですが、お二人とも頭を強く打っていて…」
「念のため、近くの救命救急センターへ運びましたが、すでに手遅れでした。お悔やみ、申し上げます」
二人の警察官は深く頭を下げた。
菜月は空気を吸い込むこともできずに目の前で上下する二つの頭を見ていた。
訳のわからないことを言う目の前の男たちを殴りつけたい気持ちだったが、手も足も、心も動かなかった。まるで、脳天から針金を突きさされ、標本にされた昆虫のように身体の自由が利かなかったのだ。
「失礼ですが、瀬戸さんはどういうご関係ですか」
江蔵が訊いた。
手には何も持っていないので、書き留めるようなことはしないらしい。
「紗都美と一緒に住んでいるルームメイトです。愛由美ちゃんは今日、静岡からこっちに来ていて、二人でお母さんのお見舞いに向かったところでした」
「先ほどのお子さんは?」
江蔵が婦人警官と匠が消えて行った通路の先を目で見やった。
「愛由美ちゃんの子供です。二人が出かけるときに寝ていたので、私が家で面倒を見ていました」
「そうですか。お子さんのお父さんは?」
「先日離婚したばかりで、今はどこにいるかもわからないそうです。私も詳しくは知りませんが、そのように聞いてます」
「愛由美さん、紗都美さんのお母様は今、どちらに」
「市立総合病院に入院してます。末期の癌、です…。おばさんに連絡は?」
菜月は今更ながら佳寿美はいつまでも顔を見せない、娘たちの身をベッドの上で案じているのではないかと思った。
「まだお知らせしていません。紗都美さんの住所登録に記載のあった番号にお電話したら瀬戸さんが出られたので」
「そうですか」
 そこで会話が途切れた。密度の濃い空気が漂い、息を吸っても肺がうまく機能していないように、ただただ息苦しかった。
「瀬戸さんが、ご遺体をご確認いただけますか」
菜月は「ご遺体」という言葉に身を固くした。
本当にもう、紗都美も愛由美もこの世にいないのだろうか。
数時間前に玄関で見送った二人の姿が頭の中に再生されている。
佳寿美や行方不明となっている愛由美の旦那をこの場に連れてきて「ご遺体」を確認させることはどう考えても物理的に不可能だった。
しかし、こんな縁もゆかりもない場所に二人を残して帰れるはずもなかった。
菜月は重い頭でなんとか決断して、
「わかりました」
と、静かに答えた。
「こちらへ」と案内された地下階へ向かう間も、何かの間違いであって欲しいと願いにもならない願いを繰り返しながら進んだ。
白い扉が開き、江蔵に促されて部屋に足を踏み入れると、二台のベッドが並んでいた。
部屋の中は生きた物の気配がなにも感じられなかった。
入り口に近い方のベッドに江蔵が近づいていく。
「こちらへ」
 菜月はその声に近づくように一歩一歩進んだ。
江蔵が、白い正方形の布を持ち上げてゆっくりと顎の方へ引いた。
そこには、ショートカットがはらりと枕元に広がった愛由美の顔があり、その顔には無数の擦り傷が刻まれていた。
今朝、言葉を交わした愛由美はふわりと笑い、小言を言う姉に反論し、天ぷらの味に驚き、姉の胸で涙を流していた。これからの未来に不安を抱えてやってきた愛由美が、涙の果てに安堵の顔を見せた時は菜月の心も安らいだ。
しかし、今はその全てが遠く儚い夢だったかのように、ただただ痛々しい傷跡だけ目につく。不思議なもので、髪の毛の一本一本でさえ、息をするのをやめ、ぐったりとしているように見えた。
「愛由美ちゃんです」
菜月は溢れてくる涙を袖口でぬぐいながら、「愛由美ちゃんです」と繰り返した。
江蔵は音も立てずに白い布を元に戻し、隣のベッドに移動した。
「お辛いと思いますが、あちらへ」
脚が震えて動けずにいる菜月に山科が声をかけた。
菜月は頷いて、江蔵の横に移動した。
江蔵が先ほどと同じように白い布を引くと、紗都美の顔が半分だけ確認できた。
左半分はガーゼと包帯に覆われていた。青いアザが目元に広がったその顔は血が通っていないことが明らかな色をしていた。
いつかの夏に川縁で、真夏に実った果実のように水を弾いたその顔を菜月は思った。
そして、つい数時間前に玄関の磨りガラスの引き戸に手をかけ微笑んだ紗都美の笑顔が浮かんだが、それが目の前のものと同じであるとは到底、思えなかった。
それでも、目も鼻も口も、口元にある黒子もよく見知ったその全部が紗都美本人であることを訴えていた。
菜月に「真野紗都美です」と認めさせるように、もの言えぬ代わりに、紗都美の全てが冷たく強く、助けを求めるように主張していた。
菜月はそれに屈するような気持ちで
「紗都美です。間違い、ありません」
と、はっきりと言葉にして二人の警察官に伝えた。
菜月はその場に膝から折れ、声をあげて泣いた。
今まで抱いたことのある「悲しい」と言う感情はかすり傷ほどでもなかったのだと知った。
ダムから水が放出されるように菜月の内側に収まっているものが全て体外に流れ出て、ペラペラになった身体を踏みつけられるような気持ちだった。それでもまだ足りない苦痛の中で声をあげて泣くことしかできなかった。
束の間の別れの約束は「おかえり」「ただいま」という言葉で果たされるはずだったはずなのに。
今までだって、そうやって別れと再会を繰り返して過ごしてきたのに。
今日は昨日と何が違ったのだろう。何がいけなかったのだろう。
どうして紗都美は死んでしまったんだろう。
あの夏の日、揺れる電車で触れた左腕の温もりが恋しくて、菜月はイカロスの翼のように自分を跡形もなく溶かしてくれる圧倒的な光を探した。
それは今までずっと隣にあったはずで、触れれば熱を帯びたその肌が、今は氷よりも冷たくなっている。
生涯で一番、心を奪われた星を見つけることはもうできない。
見つけるにはあまりにも遠くへ行ってしまった。
自分が身を焼かれることを恐れて触れられずにいたその星は、永遠に手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
それから、山科と江蔵とともに佳寿美の元を訪れ悲報を告げた。
佳寿美は娘たちが事故に会ったのは自分がこんなところにいつまでも入院しているせいだと責め、「死にたい」とボロボロになった声をあげた。
匠は病室の外の看護師に預けていたが、あの小さな体が一人で震えてはいないかと、菜月は心配でたまらなかった。

つづく

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