見出し画像

はじまりの日(最終話)

 翌朝は六時半に目を覚ますと、朝食の準備をした。
 ちょうど食卓に全ての皿が並んだ頃、ギンガムチェックのシャツに黒いスキニージーンズをはいた匠が部屋から出てきた。片手には黒いジャケットを携えている。
「おはよう、なっちゃん」
「おはよう、タク」
「おっ、アジじゃん、うまそー」
「沖縄でもちゃんと朝ごはん食べるんだよ。三食しっかりとね」
「米送って」
「生憎、農家じゃないんでね」
 軽口を叩きながら食事を終えると、匠が家を出る時刻が迫った。
「愛由美ちゃんと紗都美に挨拶した?」
「うん、いってきますって言ったよ」
「じゃあ、ちゃんと、ただいまって言いに来なきゃダメだよ。いってきますの言いっぱなしはダメだからね」
「わかってる」
「さ、行く時間」
 匠は框に腰掛けて靴を履いた。
 履き終えると、少し寂しそうな顔をして玄関を見回した。
 昔、紗都美が車窓に流れていく故郷の景色を眺めていた時のような顔だった。
 菜月も京急線の改札までついていくことにした。
 ブロック塀沿いの小道を抜け、住宅街を過ぎ、通りに差し掛かると、角の家の庭から突き出た桜の木に薄ピンクの桜の花がいくつもいくつも咲いていた。
 暖かい春風に花が優しく揺れ、菜月はふと、姉妹の笑顔を見た気がした。
 駅につくと、ホームに空港行きの電車が停まっていて、改札の手前で立ち止まると、匠が菜月を見下ろした。
「じゃあ、いってくるよ」
「うん、気をつけて」
「なっちゃん、好きな奴ができたら、絶対幸せになれよ」
「生意気言うな」
「ほんと心配なんだよ。一人で大丈夫かよ」
 そう言われて、菜月は今まで一人で暮らしたことがないという事実に内心驚いていた。
 顔に出さなかったのは、四十九にもなって、匠に見栄を張りたい気持ちがあったからだ。
「タク、私ね、好きな人いるから大丈夫、心配しないで」
「え、なんでそれ、今言うの。気になるんですけど」
「誰?誰?」と匠がしつこく訊くが、菜月は笑うだけで答えなかった。
「ほら、もう行きな」
 菜月は電車の出発時刻が気にかかり、匠を急かした。
「これ」
 匠は慌ててポケットからワイヤレスイヤホンを出すと乱暴に菜月の耳に捩じ込んだ。
そして、反対のポケットからスマートフォンを取り出し、操作すると、それをまたしまい、菜月が呆気にとられている間に「じゃあね」と改札を足早に抜け、振り返らずに電車の中へと消えた。
「どうして、この曲…」
耳にねじ込まれたイヤホンからは、もう擦り切れるほど繰り返し聴いた低い声でメロウに歌う女性シンガーの曲が流れている。

〈はじまりはいつだって さよならが言えなくて 蘇る微笑み 薄れゆくほどに 君が残した日々は 穏やかなままで ありふれた午後に 変わらないままの君は 僕の中〉

 ブルブルと菜月のスマートフォンがポケットの中で揺れた。
 取り出して画面を見ると、匠からのメッセージだった。
——いつもなっちゃんの部屋から洩れ聞こえてた曲だよ。
——紗都美ちゃんとの思い出の曲だろ。
——これからはこの曲聴いたら、俺との日々も思い出してくれよな。
——俺はちゃんと「ただいま」って戻ってくるから。
——それ、ブルートゥースだから、電車が出発したら聞こえなくなると思うけど、
——聞こえなくなるまで、そこにいて。
——俺が見えなくなるまで。
 やがて匠を乗せた空港行きの電車はホームをゆっくりと離れて行った。
気づけばイヤホンの音は止んでいて、菜月は大きく息を吸い込むと、家に向かった。
——早く好きな奴と幸せになれよ!

 誰の気配もない家に上がると、そのまま、かつて紗都美が使っていた部屋に向かった。まずは、愛由美と佳寿美の写真に向かって、匠が無事にこの家を旅立ったことを報告した。
 そして、こちらによく似た笑顔を見せる母娘の写真を伏せると、仏壇の引き出しを開け、マッチ箱を取り出した。
 中には指輪が二つ入っていた。
「やっとつけられるよ、紗都美」
 菜月は磨かれたなんの飾り気もないシルバーリングを愛しげに見つめた。
 リングの内側には「Room mate is」と彫られている。
それを自分の左手の薬指にはめると、顔の前にかざした。窓から優しく射し込んだ春の明かりが反射して、キラリと光った。
 もうひとつもマッチ箱から取り出す。
 こちらのリングの内側には「Soul mate」と刻まれている。
 この家の四度目の賃貸更新をした日、二人は隣町の工房まで行き、このペアリングを購入した。
 刻印をお願いすると、店員に苦笑されたが、菜月も紗都美も気にしない風を装った。
 お互いに気持ちを正確な言葉にして伝えたことはなかったが、きっと、この先も二人で一緒に生きていくのだろうと思っていた。だから二人はこの恥ずかしい冗談のような刻印の入ったシンプルなリングをそれぞれの左手の薬指にはめて過ごしていた。
 愛由美が青い軽自動車でやってきた日の朝、二人は指輪を外しこのマッチ箱に隠した。
 後ろめたい気持ちはなかったが、菜月と紗都美にとっては二人だけの秘密で十分だった。
 翌日、愛由美が一度静岡へ戻った後に、二つのリングはこの箱から再びそれぞれの細い指へ戻るはずだった。
 しかし、その日はやって来なかった。
 その代わりに匠がこの家にやって来ることになり、十九年の月日が過ぎた。
「紗都美、大好きだよ」
 紗都美がどのような気持ちでこのリングをはめていたのか、菜月は何度か想像してみたが、結局のところ、答えは必要なかった。
 あの夏の日、川原で弾けるように笑った紗都美の笑顔を愛おしいと思った、自分の気持ちがその答えなのだ。
 紗都美と過ごした穏やかな春、鮮やかな夏、色づく秋、暮れ行く冬、一緒に見た夢の続きを語り歩いてきた、その全ての日々を菜月は愛していた。
 菜月が生涯独身を貫く可能性を大げさに心配している匠にもいつか、打ち明けられる日が来ればいいが、やはり、この春霞のような秘密はこの先も胸にしまっていくのだろうと思う。心配しないで、とだけ匠には伝えよう。
 菜月はスマートフォンを取り出すと、匠が最後に残していった曲を再生した。
 地球に沈みゆく月、或いは、太陽が描かれたCDジャケットの絵とともにディスプレイに表示された曲名を菜月は指でなぞった。
その間も歌は流れていく。
——この曲って、もう逢えない人との日々を歌った唄なのかな?
——そうも聞こえるし、新しく一歩踏み出す背中を押すようにも聞こえる。
——亡くなったお父さんに逢いたいなって思うことある?
——時々ね。でも、悲しい気持ちにはならないの。お父さんがくれた思い出とか、お父さんが注いでくれた愛情がしっかりと記憶に残ってるから、逢いたいけど、悲しくない。例えばお父さんが今も生きていて、もっと長く一緒にいられたとしても、いなくなった後に残るものは、今ここにあるものと一緒だったと思う。もう、充分、お父さんは私に思い出を残してくれたってこと。思い返せるほどの思い出があれば充分だよ。
——そっか。
——今はね、この曲をひとりで聴いてると、なっちゃんの顔が浮かぶよ。
——私?どうして?
——だって、私たちが離れ離れになるときは、きっと、「さよなら」って言えないもん。
——じゃあ、なんのて言うの?「バイバイ」?
——もう、なっちゃんふざけないでよ。「ありがとう」だよ。一生、「さよなら」なんて言わないからね。
 こんな話をしたのは、もう、随分と前のことで、夢かと見紛うほどに眩しい春のことだった。
 それから数えきれないほど繰り返し聴いてきた「はじまりの日」と題されたその曲に、菜月は遠い日の思い出と匠の残した日々を重ね合わせ、膝を抱えて目を閉じた。
 部屋の中が暖かいのは、春の陽のせいだとわかっていても、菜月は紗都美が自分の隣にいる幻想を描いた。
「匠、愛由美ちゃん、紗都美、今日までずっと、そばに居てくれて、ありがとう」
 その頬をキラリと光る星が流れていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?