見出し画像

はじまりの日(2)

 菜月が匠を引き取ったのは、自分が三十歳、匠が三歳の時だった。
 当時、菜月はこの平屋に紗都美(さとみ)というルームメイトと一緒に住んでいた。
 紗都美とは大学時代の友人で、学生時代から女子寮のルームメイトだった。
 卒業と同時に寮を出るのを機にこの家を見つけ、二人での暮らしを新たに始めたのだ。
 電車通勤の菜月は駅から近い立地を望み、バイク通勤の紗都美は静かな一軒家ならどこでもいいという条件にこの古びた平屋がぴったりと当てはまった。


 二人は海からも近いこの家をとても気に入って、賃貸契約の四度目の更新を行ったばっかりだった。
「今週末、妹が子供連れて遊びに来たいっていうんだけど、いいかな」
 夕飯を終えて、二人で後片付けをしているときに紗都美が言った。
 紗都美の二つ違いの妹、愛由美(あゆみ)は四年前に結婚し、今は静岡県に住んでいると聞いていた。
 写真では何度も見たことがあったが、実際に会うのは初めてのことだった。
「もちろんいいけど、静岡から来るんだよね?泊っていく?」
「うん。なっちゃんが良ければ一泊させようかと思ってる」
「いいじゃん、ゆっくりしていきなよ。私、いない方が良ければ実家に帰るようにするけど」
「いい、いい、そんな。愛由美が到着したら、そのままお母さんのところに行こうと思ってる」
「そっか。愛由美ちゃんと息子くんに会うの楽しみだなぁ。きっとおばさんも楽しみにしてるはずだよ」
「うん。ありがとう」
 紗都美の母親、佳寿美(かすみ)は随分前から紗都美と菜月が暮らす県内の市立総合病院に入院していた。
 二人が大学を卒業する頃から緩やかに癌がその身体のあらゆる場所を侵蝕し、数年前に一人で住んでいた家を親戚に任せ、紗都美が通えるこちらの病院に移ってきた。
 しかし、最近では愛由美と終末期をケアするホスピスに移すかどうするかの相談を繰り返すほど、容態が芳しくなかった。
 学生時代の夏休みに紗都美の実家に遊びに行かせてもらったことがある菜月は、佳寿美とも面識があった。

 山間の町に建つ紗都美の実家の近くには、高地にある溪谷から続く豊かな川が流れていた。
 都会育ちの菜月には立っているだけで背の高い木々、時に激しい水流、響く蝉の声に呑まれてしまいそうな、自然の畏怖を感じる俗世とは程遠い場所が紗都美の育った町だった。
 まっすぐ伸びた杉の木でさえ、そのてっぺんが見えないほどなのに、青く澄んだ空はさらにその彼方に見えた。
 炎天下の中を紗都美の実家から大小の丸石が転がる川原まで歩いてくると、二人は汗で体に張り付いた服を着たまま水に沈んだ。
「冷たぁい!」
 菜月は川から顔を上げると、頭を振って一つに束ねた髪の先から水を飛び散らかして奇声を上げた。
「足つく?」
「うん」
 同じように水に濡れたティシャツと短パンで大きな岩の上に座っていた紗都美が、右足を蹴り出すと、力強い水飛沫が菜月の顔をめがけて飛んできた。
「なにすんの!」
「いつもありがとうっていう気持ちを伝えたくて」
「じゃあ、私も」
 そう言うと、水底をひと蹴りし、紗都美の座る岩まで蹴伸びをして岩に放り出された白く細い足を掴むと、一気に水中へ引きずり下ろした。
「ちょっと!」
 バシャンと水が跳ねる音が木々に反響している、束の間、景色から紗都美の姿が消えた。
「ぷはっ。もう、ひどいよ、なっちゃん!」
「愛してるっていう気持ちを伝えたくて。伝わった?」
「じゅーぶん伝わった」
 そうして二人は髪も化粧も服も、すべてがめちゃくちゃになるほど、時間を忘れて澄んだ川の辺りで夏の一日を過ごした。
 川の水で冷やした小玉のスイカを石で乱暴に割って分け合ったあの夏の日、紗都美の頬は水を弾き、太陽の光を集めた水滴もまた、白い肌の上で弾けるほどに笑っていた。
 足元を行く透明な流水のように曇りのない瑞々しい笑顔を、菜月はいつまでも眺めていたいと思った。
 寮の狭い部屋で小難しい顔をして読書をする紗都美の横顔も知的で魅力的だと思っていたが、学業やアルバイトという生活の一切から解き放たれ、雄大な自然を背に佇むその姿は、菜月の目に、裸のまま摘み取られた果実のように眩しく映った。
 そして、不意に、無防備なその姿を自分がこの手で守り抜きたいという願望が首をもたげた。
 菜月は、噎せ返るような真夏の樹々の香りの中で、隕石が流れるように胸を横切った感情と欲求に軽い眩暈を覚えたが、瞬間的に過ぎていった「それ」を深く追求することはなかった。
 やがて、山の向こうへ陽が落ちていく時刻になると、ヒグラシの蝉時雨の降る中を二人は濡れて重くなった服を纏い、サンダルの裏で並ぶ足跡を道路に残しながら、紗都美の家までだらだらと帰宅した。
「ただいま」
「あら、ビショビショじゃない」
「川、気持ちよかったよ」
「紗都美、あんた、川に入ったの?」
 佳寿美は一瞬、目を丸くしたが、すぐに呆れた顔になって、
「もう二人ともいい歳なんだから、川に入るなら水着でも着て入りなさいよ。誰が見てるかわからないのよ」
「私は水着に着替えようって言ったのに、なっちゃんが、『ビキニも下着もおんなじだからこのままでいい』って野蛮なこと言ったんだよ」
「また私のせいにする!」
 玄関で言い争いを始めた娘たちを見下ろして、佳寿美は「まったく」というように腰に手を当て、大きなため息をつくと、
「風邪引くから、なっちゃん先にシャワーしちゃいなさい、紗都美は後でいいから」
と言いながら、洗面所から取ってきたバスタオルを玄関に立つ二人の頭に被せ、喧しい諍いを終わらせた。
 菜月と紗都美は頭を覆うバスタオルの隙間から目を合わせると、声を出さず、いたずらに微笑み合った。
 紗都美といると誰かの小言でさえ、愉快な説法に聴こえたし、どんな出来事も紗都美と自分との間にだけ重ねられていく記憶なのだと思うと、雨も雪も霰でさえも、菜月にとってそれは苦難ではなく、一緒に見ている夢のようだった。
「なっちゃんは山菜が好きだって、紗都美から聞いてたから今日は山菜うどんよ。あんまり派手なご飯じゃなくてごめんなさいね」
「とんでもないです!このおうどん、すっごく美味しい!」
「よかったわ。いつも紗都美が寮で迷惑かけているでしょう」
 佳寿美はサラダを取り分けながら言った。
「そんなことないです。紗都美のおかげで大学生活が楽しいです。ルームメイトになったのは偶然でしたけど、本当に紗都美でよかったなって。私の人生の運を使い果たしたような気分です」
「またまた」
 佳寿美は母親としての喜びを言葉の裏に隠そうとしていたが、伏せたその目尻に浮かんだ柔らかな皺がそれを阻んだ。嘘がつけないところと儚げな微笑で照れ隠しをするところは紗都美と同じだと菜月は思った。
「ルームメイトってどんな感んじなのかしら?私は高校を出て役場に就職して、お父さんと結婚しちゃったから二人がどんな生活を送っているのか想像もつかないわ」
 佳寿美は取り分ける用の箸を持ったまま、少し羨むような眼差しを二人に向けた。瞳が素直な感情を語るところも、母娘でよく似ていた。
「ルームメイトっていうより、ソウルメイトだよ」
 紗都美が呟いた。
「なっちゃんは家族みたいな存在。なんでも相談するし、私がだらしない生活してると怒ってくれる」
「だらしない生活って、あんた、どんな生活してるの」
 佳寿美は一瞬、厳しい母親の顔になったが、紗都美はとぼけるように言った。
「お風呂はいらないで寝る、とか」
「やめてよ、みっともない」
「でも、なっちゃんだって夕方から昼寝はじめて、そのまま朝まで起きない時とかあるよ!洗濯物も溜めるし、干したらなかなか畳まないし」
 紗都美は突然、菜月の怠惰な生活態度を母親に告げ口するように並べ立てた。菜月は思わずうどんを喉に詰まらせそうになり、軽く咳をして、どんぶりと箸を置いた。
 たしかに、紗都美と比べると菜月の方がマイペースに身の回りのことを片付ける性分で、気が向いたところから手をつけていく。
紗都美のように効率を考え、順序立てて取り掛かることは少ないが、だからといって、部屋を汚くしているわけではない。
「ちょっと、紗都美!」
「まだあるよ!いつも部屋を片付けるのは私だもん」
「もうやめて!」
 慌てて紗都美に飛びかかる菜月と、悪びれない紗都美とのやりとりを佳寿美は楽しそうに目を細め眺めていた。
 紗都美の父親は、紗都美と愛由美が中学生の時に他界し、二人の娘もそれぞれ自宅から遠く離れた大学へ進学した後、この山深い土地に静かに建つ一軒家には佳寿美が一人で暮らしていた。
 そんな母親を心配して、姉妹はそれぞれが友人を伴って定期的に帰省しているようだった。
 娘が友達を連れて帰省すると家が賑やかになるから嬉しいと、佳寿美は来客を厭わなかった。
 当時、佳寿美は車で三十分ほど離れた温泉宿で仲居として働いていて、その職業柄か、菜月の前でもくるくると良く家の中を動き回り、来客に慣れた捌きで縁側のある六畳間に寝床の準備もしてくれた。
 一方で、帰省し母親の前に座る紗都美はいつも纏っている生真面目な雰囲気を緩めて、開放的に寛いでいるように見えた。
 母娘で並ぶと、やはり面差しがよく似ていて、紗都美の黒目がちな瞳や薄い唇は佳寿美から譲り受けたものなのだと菜月は内心で母娘の類似点を探してはやや羨望の眼差しで眺めていた。
 菜月自身は母親とはあまり似ておらず、鹿児島県出身で、その郷里の血を濃く引く父親のパッチリとした二重の目元と、やや堀の深い顔立ちとを受け継いでいるため、「お母さんに似ているね」という友人からの一言に大層な憧れがあったのだ。


「何にもないところでしょ」
 夜、蚊取り線香を焚いた縁側に腰掛けて団扇で扇ぎながら紗都美が言った。
シャワーを浴びてから髪を団子にしたままで、団扇の風が往来するたびに弱々しく揺れるそのおくれ毛を菜月はぼんやりと眺めていた。そして、おくれ毛の先が触れるせいでこそばゆそうに見えるキャミソールの肩口から伸びる腕は白くて細く、間違えて真夏に現れた雪女のようだった。
 菜月はその「雪女」の隣に座り、足を縁側の先に伸ばしブラブラと遊ばせながら星を見上げ、答えた。
「何にもないが、ある」
「なにそれ。バカにしてるの?」
「違うよ、褒めてるんだよ。都会はモノも人も多すぎる」
「なっちゃんはバリバリの都会育ちのくせに」
 紗都美は団扇で口元を覆いながらクスクスと笑った。
 その姿は昭和の映画に出てくる古風な女優のようで、菜月にはそんな浮世離れした仕草は似合わないと思いつつ、いつか真似てみたいとも思った。
「紗都美と私は全然似てないよね」
「そうかな。私は似てると思うよ」
「どこが?」
「嘘がつけないところと、真面目なところ、だらしないところ」
「紗都美はだらしなくないじゃん。真面目で繊細な女の子だもん」
「なっちゃんの方が繊細だよ!隠れ繊細女子」
「隠れてるつもりないけど」
 紗都美が笑って、おくれ毛が揺れる。そして、少し真面目になって、
「なっちゃんと私はきっと似てる。どんなに頑張っても自分を一番に考えられないところ。いつもなにか、誰かを優先して自分の気持ちを見失うの。でもそのことに気づいてない」
と言った。
「私、そんな自分に出逢ったことないよ」
 菜月は紗都美に困惑した表情を向けた。
「私は何度もそんななっちゃんに出逢ってるよ。本当は疲れて眠いのに、私が頼めば必ず小論文の添削してくれるでしょ。朝起きたら机の上に戻してあって、ミミズみたいな字で赤字が入ってたの、読めなくて笑っちゃったけど。雨が降れば、駅まで傘と上着を持って迎えに来てくれたりもする。『傘持って行かなかったでしょ、濡れたら風邪引くよ』って、自分だって寒いはずなのに、なんでもないみたいに言うの。漫画に出てくるイケメン男子みたいに」
 菜月は自分の行いをそんな風に愛おしそうに言葉にされると、たまらなく恥ずかしくなった。
「どうしてなっちゃんはいつも、そんな風に飾らないで人を愛せるんだろうって不思議」
「なんだそれ」
「私のこと好きなのかなって勘違いしちゃうくらいの優しさが憎い。時々ね」
 紗都美はいたずらな瞳を団扇の淵から覗かせて笑った。
 菜月は、自分の行いが、“愛ある行い”だなどと考えたこともなかったから、紗都美の突飛な発言に少々面食らった。紗都美の頼みならなんでも叶えたいと思っていたし、それが自分の使命のように思っていた。紗都美が雨に濡れないように傘を持って迎えに行くことも、改札を抜けてきた彼女の笑顔を見た瞬間に、やはり当然の行動であったと感じていた。この気持ちは一般的な友情であると菜月は信じていたのだ。
「でもいつか、なっちゃんとのこんな生活も終わる日が来るのかなって思うと、寂しくなる」
「大学を卒業したらってこと?」
「うん。あの寮を出る日が来たら、なっちゃんとの日々も終わってしまうんだって。だから、たくさんなっちゃんと思い出をつくっておきたい」
 紗都美は夜空に瞬く星を見つめて言った。
 その視線の先で輝く星は美しく燃えていたが、それもやがて、朝になれば姿を消す。
次の夜が巡ってきたとき、前の夜に一番心を奪われたものと同一の星を見つけることは難しい。
 同一の星と肉眼で見極めるにはあまりにも距離が遠すぎるのだ。
 だからといって、近くにあるからと一番輝く星へ容易に手を伸ばせば、その圧倒的な輝きと熱量でこの体は溶けてしまうだろう。イカロスの蝋で固めた羽が太陽に近づくほどにダラダラと溶けていったように。
 菜月はその夜、猛烈に火照った身体が溶けていく夢を見ながら朝を迎えた。

「派手なおもてなしができなくて、ごめんなさいね。また遊びに来てね。これからも紗都美をよろしくね」
「こちらこそです。お世話になりました」
 翌朝、菜月と紗都美は、出勤する佳寿美の車で駅まで送ってもらい、学生寮へ向けての帰路についた。
 定刻通りにゆったりとホームに入ってきた二両編成の在来線の窓際のボックス席に向き合って座り、車窓の外に濃い緑の木々が流れていくのを見送った。
 短い地方滞在ではあったが、その夏一番の思い出に菜月は満足していた。
 電車は次の駅に停車したが、屋根も人影もないプラットホームを確認すると、すぐに出発した。
 鬱蒼とした木々の間に入っていき、やがて現れた巨大なダムの淵に沿うようにさらに山の中へ進んでいった。
 進行方向に背を向けて座っていたのは紗都美で、背後から目線の先へ遠ざかっていく景色を見送る瞳には少しの寂しさと故郷と母の温もりから離れがたい気持ちが見て取れた。
「紗都美、これ」
「なに?」
 菜月は座席を立って、紗都美の横に座ると、ウォークマンから延びるイヤホンの(L)と書かれた方を紗都美に差し出した。
「耳に入れて、左ね、左」
 紗都美は黙って菜月の言った通りにした。
 菜月は紗都美がイヤホンをセットするのを待って、ウォークマンの再生ボタンを押すと、低い声でメロウに歌い上げる女性シンガーのゆったりとした曲が流れ始めた。
 菜月が朝、寮のベッドの上で目を覚ますと、うっすらとした世界の中にこの曲が漂うように流れている。
 そして、やっとの思いでベッドに上体を起こすと、
「なっちゃん、おはよう」
と、向かいのベッドで紗都美が微笑むのだ。
 贅沢な目覚ましをまどろみの中で聴く朝は、学校も休校になって、世界に紗都美と二人残されたようで幸福だった。
 女性シンガーが歌うその歌は、悲しいような、眩しいような曲で、もっと寝たい気持ちを増長させる朝もあるが、今はただ、紗都美の中に自分の存在を流し込みたい一心だった。
 柔らかく深みのある声は耳から同時に二人の体内に広がり、まるで、同じ血液を共有するように歌が流れていく。
 夏の朝日がもう高くまで登り、イヤホンをしていない片方の耳には電車の走行音が心地よく響いている。
 現実世界と、幻想の世界、その間で、触れる片腕から紗都美の体温を感じていると、菜月は自分の身体がドロドロと溶けていくような錯覚を覚えた。
 走行音に頬を弾かれ、ふと隣に目をやると、いつの間にか紗都美は壁に頭を預けるように目を閉じていた。
 その丸みを帯びた輪郭をなぞるように一筋だけ涙が伝い、それは、窓から差し込む真夏の力強い陽射しを受けて、キラリと光った。
 やはり水を弾く瑞々しい果実のようで無防備であり、大切に守りぬかなければと、菜月は思った。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?