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はじまりの日(12)

 あの夜と同じような月が空に浮かんでいる。
 そして、今初めて、菜月は、幼い匠と過ごした時間がずいぶんと前のことのように感じた。
「最近やけに昔のことばっかり思い出すんだ。俺となっちゃんが一緒に暮らし始めた頃のこと。なっちゃんはいつも俺が満足するまで付き合ってくれた」
「『ママのおむかえ』のこと?」
「そう。もうお終いにしようとか、ママは一生帰ってこないとか、そういうことを言わずに、俺の気持ちが満足するまで一緒に玄関で過ごしてくれた。仕事で疲れて帰ってきて、家事もやらなきゃいけないのに。月が見える夜は、海に連れて来てくれて、『あの月にママと紗都美は旅行中で、帰ってくるのにすっごい時間がかかってるみたい』ってつまらない嘘もついてくれた」
「つまらない嘘って言わないでよ。子育てなんて絶対に無理だと思ってた私の想像力の限界だったんだから」
菜月は自分の未熟さを掘り返されたようで恥ずかしかった。
「どうして海に行ったあの夜からは『ママのおむかえ』しなくなったの?」
「なっちゃんも泣いてくれたからだよ」
「え?」
「悲しいのは俺だけじゃないんだって、わかったから。なっちゃんが泣いてるの見て、俺が強くなんなきゃって思ったの。五歳の俺が」
「ごめん、よく分からない」
「なんでだよ。なっちゃん、俺があの家に来てから一度も泣かなかっただろ。毎日忙しくてそれどころじゃなかったんだうけど、俺、なっちゃんは別に悲しくないんだって思ってたんだよ。なっちゃんは俺がいるからちっとも寂しくないって言ったけど、俺はなっちゃんが居ても母さんが居なくて寂しかった。それが悪いことなのかなって思ってて、だからなっちゃんも同じ気持ちなのか知りたかったんだ。俺は紗都美ちゃんのことよく知らないし、なっちゃんは母さんのことよく知らなかっただろう。さらに俺たちはお互いのことをもっとよく知らなくて、あぁ、やっぱり分かり合えないんだって、なっちゃんがなんていうか、遠かったんだよ。あの夜までは。他人みたいに」
「今も他人よ。あの頃は、引き取ったはいいけど、タクにママのこともパパのことも満足に教えてあげられなくて、少し負い目を感じてた頃だったかな」
「でもなっちゃんは、母さんの友達に電話したり、手紙書いたりして情報を集めてくれてただろ」
「どうして知ってるの?」
 菜月は驚いて海上にたゆたう不安定な月光の一本道から匠の顔へ視線を向けた。
「夜中に目が覚めて居間に行くと、なっちゃんが窓に向かって電話してる姿を何回も見たんだよ。『愛由美ちゃん』って言葉を何回も出してた」
 菜月は真夜中のそんな姿を見られていたとは夢にも思わず、苦笑したまま海面へ視線を戻した。
 木々の枝の広がる様を観察するような目で、匠は菜月のことを見つめ、菜月のことを知ろうとしていたのだと今更、わかった。
 腰をかがめて目を合わせていた匠が、いつの間にか自分の身長をはるかに越して、逆に腰を屈められる側になったことを思うと、菜月の心はこそばゆかった。
 息子でもない彼は、自分のいったい何なのだろう。
 菜月と匠は名付けることのできない関係性のまま、今日まで十九年をともにしてきたのだ。
 感傷的に記憶を遡っていると、ふと、隣に匠の姿がないことに気づいた。
 まるで、三歳の匠を探すように菜月は慌てて近辺を見回した。
 その姿は、少し後方に通り過ぎたコンクリートの、夜の海に突き出た低いブロックの上にあった。
 もう、と心でつぶやき、ハッとしてまた口元を手で覆ったのと同時に、ぽっかりと浮かぶ正円の月に向かって匠が声をあげた。
「かみさまぁー!なっちゃんは優しい人です!母さんの代わりに他人の俺を育ててくれた恩人です!俺たちは家族じゃないけど、波に飲まれて沈んでいかないように、お互いを支えてきたバディみたいなもんです!だから、神様!なっちゃんに素敵な人をめぐり合わせてください!この世で一番…、一番素敵な人をなっちゃんに、俺の…大事な、なっちゃんに…俺を…俺を、今日まで育ててくれた恩人の…なっちゃんに…」
 匠があの夜のように泣いている。
「匠…」
 菜月は砂の上を駆けた。匠に向かって。あの夜のように名前を叫びながら。
 不安定な砂に足がもつれながらも、匠を目指して走った。
 葬儀場の駐車場の片隅でうずくまって小石を集めていた三歳の匠。
 冷える玄関で母親を待ち続けた四歳の匠。
 小学生になってランドセルを背負った匠。
 中学の部活で怪我をして病院に運ばれ「大したことないから顔色戻せよ」とおどけた匠。
 彼女が出来たと突然家に女の子を連れてきた後に振られたと塞ぎ込んで目の下に隈をつくっていた高校生の匠。
 国立大学に合格したことを嬉しそうに電話で知らせてきた匠。
 菜月は手厚く世話をしたつもりはない。ただ自分のできる範囲で、最低限のことを、もしかすると自分のためにやってきたのかもしれない。ただ、匠と過ごしたどの瞬間も鮮明に覚えている。
 自分の目を通して、愛由美と紗都美にその成長を見せてあげられるように、全ての瞬間を具に見つめてきたから。
 そして、匠の面影の中に愛由美と紗都美の名残を探し続け、匠の後ろに二人の柔らかな笑顔を求めてきたのだ。
 匠を引き取ったのは、遠いところへ行ってしまった紗都美と愛由美が自分を見つけてくれるように、その目印として匠が必要だったからだ。
 匠の幸せなど考えず、紗都美につながる何かを自分の手元に置いておききたい、そうすれば、紗都美が大事にしていた「家族」の一員に自分もなれるかもしれないという、自分自身で呆れるほど自分本位な感情がそうさせたにすぎなかった。
 だから、葬儀の日、親戚の誰かが匠を引き取ると言うのなら、菜月は誰にも気付かれずその男の子を連れ去るつもりだった。
 あの白煙が空に昇っていった日、菜月はその幼い男の子に助けを求めたのだ。
 どんなに目を凝らしても心奪われる美しい光を見つけることのできない悲しみを、匠で埋めようとしただけだった。
 匠が人生の選択できる年頃になった時、自分から離れていくことも覚悟していたが、匠はずっとここに居てくれた。
 砂の上にドミノを立てていくような不安定な毎日を一緒に歩んでくれたのだ。
——なっちゃん、この漫画面白いよ。
——なっちゃん、一緒に金曜ロードショー観ようよ。
——なっちゃん、今日の弁当うまかったよ。
 匠は菜月に、「菜月の人生」を与えてくれた。
 匠がいなければ、紗都美の影を追うだけの日々だった。
 十分な時間をかけて、ドミノを立てて来たはずなのに、完成が近づいてくると、もっと時間をかけ、永遠に並べていたいと思ってしまう。
 しかし、最後のひとつを立てるときが来たのだと、菜月も匠もわかっていた。
 菜月は低いコンクリートの堤防にたどり着くと、匠を後ろからぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、匠。今日までそばに居てくれて、ありがとうね」
「なっちゃぁん」
 匠の情けない声が夜の海風に散っていく。
「なっちゃんが今日も泣かないから、また、寂しいのは俺だけかと思ったじゃんか…他人かよ」
「ルームメイトはソウルメイト」
「え?」
「私と匠は『ソウルメイト』だよ」
 そうだ、私たちは家族ではない他人も他人だが、同じ家に住んでいたルームメイトで、永遠に紗都美と愛由美の影を追い続けるソウルメイトなのだ。
 季節に関係なく、この浜辺で水平線に沈んでいく夕日をいつまでも二人で眺め、月が昇れば、夜空に浮かぶ金色の島の中に愛由美と紗都美の姿を探した。
 菜月は海面に浮かぶ不安定な月光の一本道を見つめた。
 あの道の先に紗都美と愛由美がいるのだろうか。
 最後のドミノを立て終わり、はじめのひとつを弾き飛ばして壮大な完成図が目の前に広がっていくような、誇らしい気持ちが菜月の胸を満たし、十九年をともにしたルームメイトとして明日は、匠の旅立ちをしっかりと見送ろうと心に誓った。

つづく

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