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はじまりの日(10)

春の夜風が菜月の切りそろえた前髪を揺らした。
「なっちゃん、覚えてる?」
「なにを?」
隣を歩く匠はパーカーのフードを被り、スウェットのポケットに両手を突っ込んで歩いている。
「俺が子供頃、あの家のどこが一番好きだったか」
「覚えてるよ、玄関」
匠は声を出さずに口元だけで照れくさそうに笑った。

 仕事の帰り道に匠を保育園へ迎えに行き、家に駆け込むと、匠を着替えさせ、自分も同時に着替え、風呂を沸かし、台所で夕飯の支度をする。
 それまで会社で百パーセント出していた力をバレないように五十%まで落とし、帰宅して残りの五十%を使い切る毎日が続いた。
 しかし、そんなおかしな勤務態度が通用するほど、出版社の編集部の仕事は甘くはなかった。
 直されないままの寝癖やメイクの完成度の低下かからはじまり、夜は九時、十時までバリバリ働いていた菜月が、五時には確認中の原稿をデスクに残したまま帰るようになると、間も無くして上司から個室に呼ばれた。
 事情を知った上司は人事部にも菜月の状況を説明し、角が立たないように事務方へ異動させてくれた。
 その時ばかりは自分の上司が子持ちの女性であることに幸運と感謝を感じ、「子育てが落ち着いたら戻ってらっしゃい」という言葉に三十代の働き盛りだった菜月は涙した。
 工夫を凝らし時間を捻出してみても、一日は瞬きの間に過ぎていき、紗都美の使っていた部屋を片付ける暇もなく、物置になっている部屋を片付ける暇もなかった。
 寿夫が静岡から引き上げてきた愛由美の荷物の中から、匠に必要だと判断したものを送ってくれていたが、それらは解いたままで整理整頓もされずに紗都美の使っていた部屋の隅にまとめて置かれていた。 
 匠に自分の部屋を与えてあげることもできず、菜月の部屋に布団を敷いて一緒に寝起きする毎日を送っていて、気力体力、公私ともに限界を迎える寸前だった。
 事務方に異動したところで全てが一気に良くなったわけではなかったが、匠と湯船で歌を何曲か歌うくらいの時間と心の余裕は生まれた。

「タクー、ご飯できたよ〜」
ある夜のこと、菜月が台所から声をかけても返事がなかった。
菜月が匠の名前を呼びながら台所を出ると、玄関の上がり框にポツンと座り込んだ匠の姿があった。
「なにしてるの?こんなところで」
「ママのおむかえ」
菜月はエプロンを外して、匠の横に座り込んだ。
木目の床板はひんやりしていて、どこを触っても冷たかった。
「ここで待つの?」
コクリと匠が頷く。
「ごはん食べないの?お腹空いてないの?」
「うん」
「えー、なっちゃんはお腹空いたよ」
匠は口を真一文字に結び黙り込んだ。
「もう」と菜月はため息をつくと、
「じゃあ、ここでごはん食べよっか」
と、提案した。
匠は、「うん」と頷いた。やはりお腹は空いていたようだ。
菜月はカレーうどんを自分の大きなどんぶりと、匠の小さなお椀に入れ、お盆に乗せて玄関へ運んだ。
「いただきます」
二人は框に腰掛けてうどんをすすった。
「おいしい?辛くない?」
「うん、おいしい」
甘口のカレールーを使っているから辛いはずがなかったが、念のため、確認した。
菜月はカレーの味にかかわらず、折に触れて匠に色々なことを確認してきた。
「暑くない?」「寒くない?」「痛くない?」「好き?」「嫌いじゃない?」と。
 匠の両親について菜月は何も知らないに等しく、どんなDNAがその小さな身体を構成しているのかを知る術がそれしかなかったのだ。
 そして、匠も訊けば言葉少なに答えたが、彼が菜月に何かを問いかけてくることはあまりなかった。
 その代わりにいつも首を傾げて、愛由美に似た柔らかい茶色をした瞳で、じっと菜月をみつめていた。まるで、名も知らぬ木を下から見上げ枝がどのように四方に伸びているのかを眼でなぞるようにじーっと観察されていた。
 カレーうどんを食べ終わっても匠のママが帰ってくることはなかった。
 お腹を満たした匠は菜月にもたれたまま眠ってしまい、菜月はその身体を抱え上げて布団へ運んだ。
 やれやれと息をつくと、台所に戻り、夕飯の片付けをし、就寝の支度を済ませた。
 それからというもの、ソファで本を読んでいたはずの匠が姿を消すと、決まって玄関に座っていた。
 雨の降る土曜日もそうだった。
 出かける予定を中止にして、昼食をつくっていると、ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。
 滅多に来客のない家だから、匠が扉を開けたのだとすぐにわかった。
 さすがに一人で外に出られては困るとガスを止め、慌てて台所を飛び出すと、靴をつっかけた匠が玄関の三和土に立ち、引き戸の外に見える雨に濡れた隣家のブロック塀をぼうっと眺めていた。
 その後ろ姿は雨に濡れていないのに、ずぶ濡れになって凍えているように見えた。
「タク、こっちおいで」
 菜月は床に膝をつくと、匠を呼び寄せ、後ろからその小さい肩を抱き、框に座らせた。
「ママ帰ってくるかな」
 菜月が訊くと、匠は自信がなさそうに、「うん」とだけ答えた。
「寂しい?」
「なっちゃんは?」
「私はタクがいるから、ちっとも寂しくないよ」
 匠は外に目をやったまま、なにも応えなかった。
 それから二人はドアを開けたまま、その場に座り何時間も何時間も雨が濡らしてくブロック塀を眺めて過ごした。ブロック塀はやがて全体が濃い灰色に変わっていった。
 匠が五歳になるくらいまで、玄関での「ママのおむかえ」は続いた。
 晴れの日も、雨の日も、雪の日も。引き戸を開けている日もあったし、閉めている日もあった。
 紗都美がいたら、「玄関でご飯食べるなんて絶対ダメ!」と怒られるだろうな、と思いながら、何度も玄関で食事をした。
「タクお尻冷たくない?」
「おもらししてないよ」
「そうじゃなくて、床、冷たいでしょ」
「平気」
「そう」
 匠は辛抱強い子だった。まるで、そうしていれば、母親が早く自分の元へ帰ってきてくれると信じているように、弱音を吐くことをしない健気な子供だった。
 ある時、玄関で食事をしているとタイミング悪く、回覧板を持った隣家のおばさんが訪ねてきて驚かれたこともあった。
「子供にこんなところでご飯食べさせちゃダメでしょう」
「すみません」
 紗都美が隣家のおばさんに乗り移って訪ねてきたのではないかと思うと、菜月は少し愉快だった。
 おばさんが立ち去るまでは吹き出したりしないように堪え、それを誤魔化すために匠に話しかけた。
「怒られちゃったね」
「なんでなっちゃんさっきから笑ってるの?怒られたのに」
「笑ってないよ、反省してるもん」
「笑ってるよ、反省してないよ」
 匠はだんだんと口数が増えるに従って、菜月と同じような喋り方をするようになってきた。
 時々見せる少し生意気なその態度が自分を見ているようで可笑しくて、菜月は「うりゃ」と匠の上質なもち米でつくられた餅のようなほっぺたをつねった。
「いたいよぉ」
「ごめんごめん」
 天気のいい日は引き戸を開けて、菜月は匠を傍に抱えながら本を読むときもあった。
 匠は何にもせずにずっと、引き戸の枠が切り取った面白みのないブロック塀をじっとみつめ、母親の帰りを待っていた。
 そして、いつも、匠が待ちくたびれて眠りにつくと、その身体を抱え、菜月は玄関を離れた。
 匠があの家に来て、ちょうど二年が経とうというとき、居間の窓から星を眺めていた匠が、
「なっちゃん、ママがちかくにいるかも」
と、言った。

つづく


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