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非適法的◯◯のエロティックな誘惑

この世の中には様々な相反する価値があるが、一方は「日常」的な属性を帯びており、他方は「非日常」の属性を帯びているとすると、非日常的な空間や場所に行けば、また非日常的な行為を行う/目の当たりにするなど、日常と非日常の落差にエロティックな魅力があることに人々は気づくわけです。

ただ、注意しなければならないことが、私たちにとって非日常の世界が、ある人にとっては日常であるということは自覚しておくことは道徳的に必要になるでしょう。
僕は非日常を生み出すために日常的なものに制限をかけて日常の中に新たな落差を生み出し、非日常を意図的に生み出す。という考えを持っていたら、教員に当事者意識が欠けているとお叱りを受けましたので...

しかし、なぜ新たに非日常を生み出す発想になったのか。ここで日常を善、非日常を悪と認識することは可能だと思うので、そう置き換えて書いていくと、僕は最近、落差のエロティックさが肯定されて(資本に取り込まれ)悪が善へと変化しているように感じている。そこで、悪は悪でなければならないという考えと、取り込まれるのであれば新たに悪を生み出せないかという考えの2つのもと、どのように悪を維持し続けられるかを考えるようになった。

悪が善に取り込まれてはいけないのです。逆説的に言えば、善がなければ、悪もありません。そういった意味では、善の基準、規範などは必要と言えるでしょう。悪は排除され続けないといけない。そこの線引きは難しいですが、悪という誰もが魅了されるエロティックな存在は、悪であり続けないと、さらに、排除され続けないといけない。

これは熱力学のエントロピーの話で例えると、熱々のコーヒーと常温のコーヒーカップがあるとして、熱々のコーヒーを常温のコーヒーカップに入れると、コーヒーカップは熱くなり、コーヒーの温度は冷めていく。ここでコーヒーを悪とすれば、コーヒーカップは温度を下げる(もともと持っていたエネルギーを奪う)つまり、悪を排除しようとする存在だ。また、排除に限らず、悪を許容することもエネルギーを奪うことだと認識していただきたい。
コーヒーをコーヒーカップに入れても常に同じ温度を保ち続ける、また、コーヒーカップも同様に熱くなってはいけない。つまり、負のエントロピーの増大を目指すことが重要なのではないか。

もう一つ、コマで例えてみよう。コマはコマ自体がものすごい速度で自転しているが、遠目で見ると地面と垂直に立っているように見えるだろう。これは、中はカオスやノモスの対立で荒ぶっているけども、全体(コスモス) としてはそれで成り立っている。ということである。
要するに、コマの自転がなければ、コマは垂直ではなく、傾いてしまう。これはどちらか一方の世界(ノモス/カオス)のみでは、自立できないというメタファーであるのだ。

コマの話は無理やりな感じはあるが、なんとなく伝わるだろう。だから僕はクリストファーノーランの「インセプション」のコマはそういったメタファーがあるのではないかと勝手に妄想してはいるが、賛同者はまずいない。

とにかく僕が言いたいのは、差をなくそうとする社会で差を生み出すことが重要なのである。

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