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04 丹波篠山市からカナダへ高校留学した話

「0⇒1の元・引きこもり主婦 ~見知らぬ土地で友人0、親戚0の引きこもり育児から友達1800人作って3人の子を産み、起業する一人の30代主婦の話」
第4話です。


私がカナダへ留学したのは、17歳のときでした。
本当は中学校3年生の頃に「海外の高校に行きたいな」と思ったりしたのですが、親には言えずに高校生活を日本で送っていました。

高校3年生で部活も終わった夏ごろ「行くなら今しかない!」となぜか強く思い、カナダのマニトバ州ウィニペグという都市に留学をしました。

よくある語学学校への留学、ではなく、
現地の学校へ留学しました。
もちろん、日本からの留学生はゼロ。

ですが私がどうしても留学をしたかった理由というのは、
「英語を学びたいから」とか、
「外国の文化に触れたいから」とかではなく、

ただただ

「鳥かごのようなこの田舎から飛び出したい」

「このままここにいたら、私はダメになる気がする」

という、なんともめちゃくちゃな思春期思考が理由でした。笑


幼少から通っていた英語塾の先生のツテがちょうどウィニペグにあったので、「情報がそろっていた」事もあり、そんなに悩むこともなく勢いに乗るように就学ビザを取得し、親に特段相談もせずに航空券の予約までしてしまいました。それが高3の夏前でした。



ウィニペグはマニトバ州の州都であり州で一番大きな都市(人口70万人)なのですが、現地の方には「北からの風が吹き抜ける極寒の町」と思われている部分もあるそうで・・・
「ウィニペグに留学してたんだ」というと、
「え!?あのなんもないただただ寒いとこへ!?何しに!?」

とか言われてしまうのですが笑、
実際はフランス語圏のエリアなどもあったり
歴史的な建物が並んでいるとても素敵な町でした。


高校が2つしかなかった人口4万人の田舎から、17歳で海外留学する、というのは当時はまだ前例のあまりない事だったので、どこか心の中で「両親は絶対反対するだろうな」と感じていて、思春期だったこともあり直接「留学したい」と面と向かって両親に話すことが結局できませんでした。


特に、
1番怖くて関係が当時最悪だった父には話すことができず、ちゃんと話せたのは出発2週間前。(反対されても航空券も買っちゃってる状態なので親も認めざるを得ない状況。笑)

17歳のころ


当時は17歳なので、留学の費用は全て親が支払ってくれました。

当時、リーマンショックがあり1ドル80円とかのレベルの円高だったので、それは今思うとめちゃくちゃ良い時期だったのだと思います。

とは言え、
父はかなり金策に走ってくれたようで、(多分1年で300万円くらいかかったと思います)株を売ったり、リーマンショックの影響も少なからず父の会社にもあり、公庫からお金を借りたりしてくれたそうです。

20代になって自分で働くようになり、稼ぐことの大変さが分かった時にそれはジワジワと私の心にやってくる感情でした。

総じて両親には、心労含め、かなりの迷惑をかけてしまった高校時代でした。


ハロウィンくらいから春まで川が凍るウィニペグ


英検準2級レベルで現地の中高一貫校に飛び込んだ

私が通っていたKelvin High Schoolは、
セカンダリースクールといって日本でいう中高一貫校みたいな感じでした。

9年生~12年生があって、特に日本のように「1年1組」みたいなグループ分けはなく、教室もありません。

与えられるのは、よく海外のティーンスクールドラマに出てくる、長細~いロッカー1こだけ。

そこに学校の道具とかを全部入れて、あとはそれぞれの先生の教室にうろうろ移動する、といったような感じです。日本の大学に近い感じかもしれません。

授業の科目も幅広くて、
英語、数学、スペイン語、フランス語、化学、工学、芸術、美術、社会科学、商学、被服、哲学 など、
今思えばすごく充実している授業がたくさんありました。

留学生はおそらく私一人でしたが、難民や移住など母国語が英語ではない子達も沢山いたので、初期英語のコミュニケーションクラスみたいなクラスもあって、私の時は10人くらいの生徒が受講していました。


ここに写っている仲間だけでも年齢も国籍もバラバラで、覚えているだけでもスーダン・シリア・エジプト・エストニア、アメリカ、などなど・・・まさに「サラダボウル」状態を身に染みて感じました。

放課後にアフリカンドラム(ジャンベ)のサークルを体験したりしていました



残りは長くなりそうなので、今日はここまでにします。

みなさま年始の疲れも出ているでしょうから、ゆっくり身体を休めてくださいね。


おやすみなさい!

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