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複雑な心境

1931年9月18日に関東軍の謀略によって満州事変が発生、関東軍は独断で満州(現在の中国東北部)に侵攻して各都市を占領。翌9月19日に日本政府は外務大臣の幣原喜重郎が関東軍の謀略疑惑を表明するが、9月21日に朝鮮軍が独断で国境を越えて満州に進撃(昭和天皇の開戦の詔勅もないまま外国に進撃する重大な統帥権干犯であった)、翌1932年2月関東軍と朝鮮軍は満州全土をほぼ制圧。日本政府の承認を得ないまま関東軍が独断で傀儡国家としての満州国建国を進めた。

1932年に東北行政委員会によって建国が宣言され、34年にはそれまで執政職にあった旧・清朝皇帝の愛新覚羅溥儀が皇帝に即位(康徳帝)し、帝政に移行した。日本人、満州人、朝鮮人、漢人、蒙古人による五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとするアジアで初の他民族共生の国家を謳ったが、実態は皇帝の溥儀には何の権力もなく統治機構の中央官庁は日本人が掌握し、行政においては総務庁と外交部、民政部、財政部、司法部、軍政部、実業部、交通部の行政7部には名目上は満州人や中国人が長に就いたが次長に日本人が顧問として就いたため、実際には何の権限もなかったのが実情である。また、国防は関東軍の委託で国防費は満州国の負担となり、その他に港湾、鉄道、空港、交通機関といったインフラは全て日本に管理を委託するといった取り決めが行われ、独立国と謳われながら実態は日本の管理下に置かれたうえでの独立に過ぎなかった。

愛新覚羅溥儀は、1908年3歳にして中国三大悪女の西太后から指名され清朝12代皇帝に即位した。3歳ですよ!何も分かるはずない。即位式は寒い日だったらしく逃げ出したくなったと、彼はのちに述べている。

しかし、その後の1912年の辛亥革命で退位することになった。僅か4年という短い皇帝の座だったわけ。その後、紫禁城に住むことを許されるものの、1924年北京政変紫禁城を追われてしまう。追われた道中で遠くに霞む紫禁城を見ながらこう語っていたそうです。

「皇帝としてこの紫禁城に絶対に戻ってくる!」

彼は並々ならぬ復辟への執念があったそうです。絶対に皇帝として戻ると誓いひっそりと過ごしていた。そんな時に、関東軍から声が掛かったわけ。「満州国の皇帝としてあなたを迎え入れたい」と・・

やっと巡ってきたチャンスだった。彼は関東軍司令官に、「その国は共和制か君主制国家か?」と確認したそうですよ。非常に強い皇帝への復辟の拘りがあった。しかし、前述の記事の通り皇帝としては何の権力もなく、関東軍の言いなりだったわけです。即位式の時、下の写真の竜袍(ロンパオ)という清朝の皇帝が着る衣装を纏い参加すると彼は決めていましたが、関東軍から指示された大元帥服(だいげんすいふく)を着ろと命令されて、渋々承諾したそうです。

関東軍に祭り上げられ、彼が即位することで、中国国民の日本軍に対する矛先を変えようとする意図があったんです。彼ももちろんすぐに気づいて、この機会を利用としようと目論んでいたけど・・

1945年8月に突然のソ連侵攻により満州国は制圧され、皇帝として失脚し、日本に亡命途中でソ連軍に拘束された。彼はその後に軍事裁判などで罪に問われ、ハルピンの政治犯収容所に収監された。彼は、ひとりで布団を畳んだり、水を汲んだりすることがなかったので、生活は相当大変だったと思う。

釈放後は、いち市民として周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなったそうですが、ここでも働くということをしていなかった彼は、植物に水を多くやりすぎたりと散々な働きぶりだったそうです。

悲劇の人生だった彼ですが、いち市民に戻った生活は幸せだったと・・本心だったのかわかりませんがそう述べています。

日本の侵攻により多くの人が犠牲になり、そして彼のような数奇な人生を歩むことになった人もいる。そんな地に今私はいて、サッカーというスポーツを通じて交流を深めている。未だに抗日に対する気持ちが強い中国ですが、みな表向きは親近感のある対応をしてくれています。

私は、正直複雑です。

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