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多事争論 苦難に喘ぐ三災の世相を斬る

「三災七難」という言葉があります。そのうちの三災を取り上げます。クリエイターフェス終盤にあたり、世相を想い、世相を斬る多事争論を書き上げることにしました。後半の三本柱のうちの一つです。


(1)三災について


「三災」はもともと大方等大集経にでてくる仏教用語です。一般的な辞書で調べると以下のようになります。

「刀兵・疾疫・飢饉」の3つが該当すると示されます。

「刀兵」・・・戦争や革命により社会が混乱すること
「疾疫」・・・伝染病など病気で生命が脅かされるすること
飢饉」・・・食糧難により生活が脅かされること

ウクライナや中東を始めとする紛争、コロナに代表される伝染病、インフレに代表される生活難。現代社会では三災がすべて当てはまる構造になっています。

(2)三災が発生する所以

古代インドの世界観において、時代の大きな区切りの末期に起こるものとされています。仏教用語であるがゆえに発生する所以を突き詰めると極めて宗教的になります。まず宗教色を取り除いた回答をAIに求めると・・・

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人々の心身が健全でないがゆえにこれらの災難が起こると示されています。

健全な思考では罪悪の素となる戦闘行為はできないでしょう。健全な身心でなければ病を克服できないでしょう。健全な判断ができなければ経済を正しく導くことができず生活苦により確実に人心を蝕むでしょう。心身や思考が健全でないがゆえにこれらの災難に苦しむのはいい得ていると考えます。

(3)世に流れる報道を見るにつけ

日々報道されるニュースは世間の現状を映し出しています。

世界各地で日々発生する紛争は世間の醜さを映し出しています。自分の愛読書に金子俊男著の「樺太一九四五年夏」という本があり、その中に「戦争は罪悪であるやってはならない。」と著者は書き記しています。始めてしまった以上、負けるわけにはいかず悲惨な光景を目にする事態となっています。

コロナ禍により世界が悲惨な状況に陥ったのはもはや説明するまでもないでしょう。伝染病のために多数の命を失うこととなった結果は不幸としか言いようがありません。

経済に目を向けると国内では諸物価が高くなり生活苦を訴える事態が続出しています。これまで日本人の多くはデフレを容認していたのですから、経済成長がとまり「失われた30年」という結果を招いたの必然です。
「身を削って消費者に奉公するのは美徳だ。」「金がなくても幸せだと思うことが大事である。」との考え方をもてはやしたものの、諸外国に対して経済力に差をつけられる結果となり、苦境にあえぐ世の中を作ったのは誰でもなく、日本国民の多数が望んだ結果です。

世界に目を向けても高いインフレに悩まされ、貧富の差が拡大し、多くの方が生活に困窮する国があれば、国全体の経済が停滞してしまった国もあります。生活苦が続出する様は安穏とは程遠いでしょう。

(4)三災を止めるには

苦しみを止めるためにはどうしたらいいでしょう。

「いい政治をすればいいんだ。」という考え方があります。政治家がいい政治をすれば庶民は苦しまない。一見、これはまとを得ているように見えます。しかし善政とはなにか。 ある施策をしても自身が恩恵を受けない事柄については無駄と切り捨てて、「今だけ、金だけ、自分だけ」という餓鬼の姿勢に世間が固執するならばどんな施策をしても不満を抱くことでしょう。

仮に万民に良い政治施策があるとしても、立正安国論(日蓮著作)の中に「万民百姓を哀れみて国主国宰の徳政を行なふ。然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼り、乞客目に溢れ死人眼に満てり。」と書いてある通り福運に恵まれなければ時至らずして効力を発揮せずに終わります。

人の考えは移ろいやすく、時代を超えた人のあり方を確立するには非常に脆いものです。それを仏法では凡夫と呼びます。 仏法上では末法の世にあっては邪な考えに染まり物事を正しく判断ができず乱れる世の中を指し示しています。世間が混迷することで、国が誤った方向に動いてしまいます。

このような世の中において、広く世間を救うには力強い考えが必要とされます。それは強権的なものではなく、世間を包含する考え方だと思います。

弱者に優しくという考え方があります。しかし弱者とはわかりやすい子ども女性だけでなく、土建屋もゴミ収集のような危険で避けられる職場もあり、また介護も保育も厳しい労働条件を強いられているのが現状です。高給とされる大手企業、銀行だって精神を病む人たちはたくさんいます。

世の中みんな弱者の要素を持っています。施策で以って一部の者だけしか救済されないのでは分断を生じ、そこに安穏はありません。衆生救済とは一部を救済するのでなく、広く遍く万民を救済するものでなければなりません。

万民を広く遍く救う。それは政治や施策という小手先の手法でなく、人の在り方に関わる哲学や法の守備範囲になると考えます。

(5)考え方の基礎部分

人の生き方や物事の在り方の土台はなんでもいいというわけではありません。どれにするかで集団や国家の進む先は大きく変わるでしょう。この度の中東での紛争において片方を善とし、もう一方を悪と決めつける西洋の考え方は善悪を分けたがるように認識します。

善悪論と言えばフリードリヒ・ニーチェが『善悪の彼岸』を提唱し、キリスト教における善神勝利一元論に即した善悪の二元論を批判したと様々なサイトで解説されていますが、西洋においては善悪の考えが土台となっているでしょう。

方や東洋の仏法には「十界互具」という考え方があり、十界(仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の一つ一つが、互いに他の九界を備えているというものです。

地獄の衆生も仏となりうるし、仏も迷える衆生なりうるという考え方を持っています。善悪でいうと善の中にも悪があり、悪の中にも善があるということでしょうか。

どの哲学も宗教も幸せを願うことは同じと世間ではよく言われますが、このようにどの考え方を根本とするかで人の考え方、何を善とし何が幸せなのか大きく変わってしまうのが道理であり現実です。

(6)個人的に思うこと

個人としては寺院の檀家ですから仏法の考えを根本にするべしと結論付けたいところですが、特定の思想や法は脇に置いて論を進めたいと思います。

ある掲示板に面白い書き込みがありました。「科学的な発展により、武器や兵力は性能が向上したかもしれないが、人類は全く進歩を遂げていない。むしろ愚かさは増している。」各地の紛争を語る中で発見しました。まさにその通りです。哲学や法に対する素養は科学的進歩とは裏腹に衰退してしまっているのではないでしょうか。

ここ最近、日本では不始末を起こす団体もあり、哲学や宗教について考えることはタブー視され耳を塞いでしまっているのが現状です。しかしその割には「日本は八百津の神が守る国」とかパワースポットとかなにかスピリチュアル的なものをありがたがったりしています。とても不思議な感じがします。

繰り返しになりますが、哲学や法の選択により、善とする人のあり方は大きく変わります。いまこそしっかり世間体を作り上げるために、この世の根本とするべき考え方は何か?それを真剣に問う時期が来ているのではないか。

小手先の施策や法規則ではなく、道徳のような表面上のものではなく、生きていくにあたって必要な正しい思想とは何か?人間の在り方を問う哲学や法について今こそ議論を進めるべきと考えます。


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