見出し画像

30年の節目に思うこと(現象とビジョン)

大凡30年前。高校卒業したてのほやほやだった18歳の私。
3/27に先代が亡くなり。左官職人としての門が開き、
気が付けば30年が経とうとしています。
紆余曲折。良いことも悪いことも。
楽しかったことも苦労したこともありました。
そんな経験を経て、今思うことを10年単位で区切って
記そうと思います。


急転直下のスタート。勢いで突き進んだ10年。(18歳~28歳)

18歳で父の葬儀の時に左官やる宣言をしていきなりスタートラインに。

30年も前になると、なんかどうでもよくなってきたしw それ以上に
51歳で亡くなった父親の年に近づいてきたことで、不安もあったり、
あの時の父親の心境が手に取るようにわかるようになったり。
悲喜こもごもです。
自分の人生の進路を勢いのみで決断した18歳。
私の息子には、もうちょっと慎重に判断したほうが良いとアドバイスしたいw
それは選択を楽しむ事も、人生の醍醐味かもしれないからだ。
ただ、選択肢も多いと迷っちゃうよな。。。とも思う。
私の人間性から言ったら、選択肢がなく、運命的に決められた人生でよかったと思うし、むしろそうだったから腹も括れたし、そんな思考回路ができあがったのだと思う。
現在娘16歳。長男13歳。あと数年であの時の俺の決断を迫られるのだと思うと、よくまあ(自分は)決断したなと思うし、親としてはそうならない環境を整えたいとも思う。
10代だったからな。理想しかなかったし、自分の技量と現実とのギャップにいつもイライラしていたような気がする。
そして、いつも新鮮でキラキラした毎日だった気がする。
知らない事しかなかったから何でも挑戦したし、なにも怖くなかった。
そして、周りの環境のおかげで大きなトラブルに見舞われることなく、
ガンガン攻めまくっておりました。

具体的には、地元三浦三崎だけのマーケットでは限界があると感じ、もっともっと左官という生業を深堀すべく、インターネットを通じて恩師たちに出会ったことが、この10年の象徴だったのかもしれませんね。
心に陰りもなく、純真無垢だった。
20代後半に出会えた、故榎本新吉氏との出会いはまさしく人生を大きく変えるご縁でした。

当時は技術さえあれば、世界を制覇できると息巻いていてw
技術の修練や情報収集をメインに活動していましたね。
血気盛んもとい、血気左官な10年でした。


メーカーから表彰された外壁
漆喰を現代風にアレンジしたくて
恩師に褒められ嬉しかった砂岩調仕上げ
漆喰でいろいろ挑戦

恩師に「31歳まで結婚するな!」と言われ(28歳~38歳)

人生指南もしていただいた恩師、榎本氏に「いいか!お前は31歳まで結婚するな!それまで貯金しろ!」と言われ、
31という中途半端な数字に信ぴょう性を感じてしまい、31歳と2日にて入籍。
左官を10年切り盛りして、大きな現場もまとめられるようになり、自信もついたので、結婚しようと思ったのですが、その直前で大きなトラブルに。。。。
外壁工事で欠陥が判明して大トラブル。方々に迷惑をかけ、
自分の存在価値が地の底まて失墜したと。。。。
それまで割と順調に事が進んでいたので初めての挫折というか、
失敗に心まで病んでしまい。
仕事が出来なくなってしまいました。
そんな中で、結婚。よくまあ、妻も覚悟を決めたものです。
子どもも生まれ、前向きに生きて行こうと徐々に歩を進めていくわけです。
そんな中、やはり左官という仕事(この辺から仕事なのか分からなくなってくるのですが)に引っ張られて、私の人生も進んでいきます。
相変わらず、技術の修練に憧れを抱き。知らないことを知る楽しみも覚え、より活動が広範囲に、より、洗練されていきます。

土蔵の修理をさせて頂いたり
社寺建築にもご縁が出来
土壁をとりいれてデザイン施工したり
古民家移築の現場で漆喰を
左官の仲間と共に創った竈
大津磨きという伝統技法に仲間とチャレンジしたり

そうですね、このころには右腕の弟の成長著しく、もはや現場作業の主軸が弟になり始めました。
心の整え方が秀逸で、生前父親が弟に継がせたがっていた気持ちがわかり始めます。
そんな親不孝な私はw海外にも目を向けて。

イタリアに旅行
サンマルコ広場
フランスの土の建築展
ワークショップの魅力に気が付きます
仲間に北京に拉致られ
世界を知ります。

環境が違うところで仕事をすることが面白いと感じたし、
やはり「知らない」と言うことに気が付いて「知りたい」という
エネルギーが湧くことが、人生を楽しくするコツのような気がします。
恩師に言われた「本質を知る」という意味を今も求め続けているのかも知れません。

欠乏感と戦う中年の話(38歳~45歳)

そんなこんな、世界を観たり、いろいろ実現することが増えても増えても
どうにも、心が休まらず。
もっと勉強、もっと苦労して学んで。もっと稼いで。と
充実感が年を取るとともに、薄れていく。
「足るを知る」の真逆の中年期でしたw
やってもやっても喉が渇く。
そんな感覚。
いろいろ変化を求めると現場も変化するものですね。
こうやって振り返ってみると環境の変化を感じられ
非常に面白い。
このあたりから、アート的要素とちょうど茶道や仏教にも興味をもち、
伝統の新たな切り口も見出したような気がします。

横須賀市初のタワマンで磨き壁
地元老舗旅館で洗い出しの蛇腹
コンセプトショップでのデザイン壁(クラフトビール店で大麦の壁)
スタンドカフェで、伝統的な土壁と黒い漆喰
土壁
お茶室の炉壇

左官職人として欠乏感を感じながら毎日を過ごし、
その欠乏感を埋めるために、新たな余白を作る。
そんな自己本位な生き方をして息が詰まりそうなときに、
結婚10周年の家族旅行で、体験したことのない出来事が。

石垣島には神がいるよw

石垣島に旅行に行き、自転車で竹富島を周遊。二男を乗せた自転車に
カメラを設置して撮影。帰宅後にその映像を見ると。
父親にそっくりな私が映し出される。
あ。こんな感覚だったんだ。。。。俺、凄い愛されていたんだ。。。。と
欠乏感のコップに一気に水があふれだす。
涙もあふれだす。
「知らなかったよ。。。俺幸せなんだ」
父親の他界からスタートした、このハンデキャップを埋めるための人生がゴールを迎えた瞬間でした。
いきなり安心(父親)が無くなった生活に安心を得るために、毎日毎日頑張り続けて、気が付けばこんな感じになっておりましたw20数年かかりました。
ですが、ようやくその勘違いの旅も終了を迎えたようです。
めでたしめでたし。


そして今。48歳にして思う、人生で初めての選択の瞬間

そう、めでたくそんな気づきを得た私でしたが、
人生はまだまだ続く。
そんなめでたい気付きを得た後、母親も他界。
一気に奈落の底に落とされ、
家族の絆をより強固にする。

念願だったモデルケースにもなる新居も構え、
すくすくと子も育ち。


がしかし、人間関係で自己の崩壊を迎えw
さらに再構築。
そこに、謎の新スタッフ「ナヲ」が登場するわけです。
ナヲは、私の30年のキャリアの中の最初の10年の
私自身でもあったりする。

そして、今日(2024/2/25)を迎えたわけです。



やっぱり書き出してみるって非常に大切で、自己を客観視できて
新たな思考を産み出すものですね。
こうやって振り返ると私、環境の出来事に振り回されすぎでw
笑えてきます。自分でも「出来事」に振り回されているなと
自己嫌悪に陥ります。
出来事=現象。
これは、私の内面が作り出しているもので
自分で作りだしたものに、自分で一喜一憂している。
なんとも心せわしい、落ち着きのない御仁だな。
とそんな思いが芽生えます。
冒頭、子どもには選択する人生を楽しんでもらいたいと
言い放ったのですが、今まさに私に対しての言葉なのかも知れない。

良いことも悪いことも。両方あるわけで。
現象を元になにかを「ジャッジ」したところで、
それは自分が生み出したものに対するジャッジなわけで。
「何を生み出すか?」「何を生み出したいか?」が
恩師の言う「本質」なのかもしれない。
左官と言う職能を通じて、人生の基準を持ったことは本当に幸運だった気がします。
職人という生き方は、この基準を作ることが出来るかどうか?
それによりけり。
私は運よく、「職人」に出会うことが出来た。
それは、「作業員」とは違う。
職人とは、「一つ自分の中に基軸を作り自己を完成させる作業」の事だと思う。
30年。ようやく恩師たちが言わんとしていたことの入り口が見えたようなきがします。
そして、初めて、私は人生の選択に挑んでいる。そんな状況下のようです。

私は何を生み出すのか?
私が生み出すのではなく、私の取り巻き(現象)が生み出す。
それを追求していくことが、恩師の教えでもあり
先代が見ることが出来なかったここから先の人生でもあり。
次世代に一つのモデルケースをして共有することだと。
そこに、私が「ある」

心を開放して、あり続けたい。

社会はツール。
左官はツール。

そんなところになるのだろうか。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?