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”出会い直す”旅

「幸せになってね」


挨拶のように使われると思っていたその言葉を、

こんなにも身近に、
こんなにも実態を伴って、

温かく受け取る日が来るとは思わなかった。



美しい気づきと、
涙が出るほどの尊い感情をくれた友人に、

感謝を込めて。

1回目の出会い


私には高校の頃から親しくしている7人組がいる。
(私を含めると8人である。若気の至りで恥ずかしくもあるのだが、以下、私たちのグループ名"ばちかんのあいどる。"より、「ばちかん」と呼称させていただく)

ばちかん全員が同じクラスだったのは高校一年生の一年間だけであったが、
高校、大学、そして社会人になった今でも時間を見つけては集まっている。


放課後にスイーツ食べ放題に行ったり、
大学時代に制服ディズニーをしたり、
エアビーを使って卒業旅行へ行ったり、
メンバーの結婚を祝ったりと、


私たちの関係は世間一般でいう"仲良しグループ"とそう違ない。


が、
驚くべきなのは、
たまたま入学初日に話したか、その次の日に話したメンバーだったかで、
そのままメンバーの脱退や解散なく今に至ることだ。(アイドル?)


長い付き合いであるからこそ阿吽の呼吸だが、
当時”たまたま”出会ったにしては、

人としてあるべき根っこの部分、価値観、大切なことなど、

よくもまぁ一致していたなと思う。
(時間をかけて友達を選定しない限り、この辺りは後から食い違ってくることが一般的に多いと思う)


逆に、表面的な性格や外見、職業でいえば8人8色、
趣味も違えば恋愛のタイプも違うなど、傍から見れば不揃いも不揃いである。


高校時代も仲が良いから同じ部活に入る、という選択はなく、
私はたった一人でジャズバンド部に入っていたし、
他のメンバーも各々好きなことをやっていた。

そのあたりが個人主義で自由なのも、ばちかんの心地良さである。


今回、そんなばちかんのうち4人と私とで、
ひょんなことから京都・大阪旅に行くことになった。


そこで私は、
友人の存在の有難さ・存在の大きさ・多大なる感謝と出会うことになる。

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メンバーのうちの一人に、私と同じコミュニティに所属している人がいる。
(私にそのコミュニティを紹介してくれた張本人でもある)


そのメンバーは、週末に様々な施設を間借りしてスパイスカレーを提供しており、

今回は大阪で開催することになったから一緒に来ないか、という誘いがあった。


最初は私のみスタッフとして参加する予定だったのだが、
ばちかんのうち他2人(実はスパイスカレーのメンバー含むばちかん中3人がルームシェアをしており、その残りの2人である)も同行し京都旅をしようという話になり、

さらには静岡に引っ越していたメンバーの一人も店員としてイベントに参加することになった。


つまり、期せずして計5人の関西旅が決まったわけだ。

出会い直した3日間

コロナ禍で活動が制限されていたこともあり、
互いの実家やシェアハウスにお邪魔したことはあったものの、
ばちかんでの泊りがけの旅、というものは意外にも大学の卒業旅行ぶりだった。(滋賀県でのドライブ旅だったのだが、異様なまでに楽しかった記憶がある)


計画段階から10年来のチームワークは抜群であり、
報連相も遅滞なく、
予約、段取りなどは各自指示を待つことなく動くその様は、
このメンバーで会社経営できるのでは?と思うほどだった。


構成員(もはやそう呼びたい)が皆ペイフォワード、ギバーの精神があり、そして誰かが休んでいるときは誰かが働く。

それぞれの得意分野が不揃いだからこそ、
勝手に役割分担が成立していた。(例えば、私は全く運転ができないためレンタカーの予約方面にはめっぽう弱いが、代わりに食べ物が好きなので飲食店の予約などは好んでやる、そして宿に詳しいメンバーは宿泊先情報を提供してくれる、等)


思うのが、
これはすべて、「思いやり」の上でできている、ということである。



それは当たり前のように見えて非常に稀有で再現しがたく、
そしてとても優しい世界である。



「荷物持とうか?」
「私取ってくるよ。」
「やっておいたよ!」
「これ使う?」
「ありがとう。」

道中も、そんな素敵な言葉で満ちていた。



有能なメンバーが集まってくれたことによる遅滞ない旅の実現はもちろんだが、
それ以上に、相手への尊重とも取れる優しい気持ちが旅を豊かにしていたと思う。


誰が何をやったから代わりにやれ、だとか、
自分の方が多くやっている、
といったような損得勘定が存在しない。


そういう風に、思いやりに溢れた関係だったんだな、という発見と、

なぜこの歳になるまでその類稀なる関係性をちゃんとありがためなかったんだろう、見つめられなかったんだろう、と、


”心地よいな”程度で過ごしてきた日々を悔やむとともに、

これからはこの感謝の目をもってこの人たちと向き合っていこう、と改まることができた。




”大切”が深まって、
”愛しい”が深まって、
”ありがとう”の深まる旅だった。

ずっと見守ってくれていた

今回の旅で、
私が一番後悔し、

同時に、
嬉しさとも感動ともいえるこの上ない感情に泣きそうにもなった瞬間がある。


夜、宿で布団に入りながら、
私が今回の旅で、大切な友人にこそ伝えたかったことを話した時のことだ。(また別のnoteになってしまいそうだからプライベートな部分は割愛する)


否定するようなメンバーではないから、
ネガティヴなコメントこそ返って来る気はしていなかったものの、

「良いと思う」
だとか、
「びっくり!」
だとか、

そういう反応が待っていると思っていた。


ところが、
想像すらしていなかった

「よかった。」

という反応が返ってきた。

「-------よかった。」


私はそれを受けて、

この言葉は、

私が伝えた"内容そのもの"への感想やコメントではない、と思った。


これまでの私の人生を知っているから、
これまでの不安定で長いトンネルを知っているからこそ、


その出口に私がたどり着けたこと、そもそも出口があったことを自分のことのように安堵してくれたのだと思った。


例えるならば、
世界一美しい花をやっと見つけ出して、
「きれいだね!」と感想を言われるかと思ったら、

「ずっと頑張って探していたもんね、たどり着けて良かった」

そう言われたような気持ちである。



”やっとだね。心配してたんだよ。幸せそうで、良かった。”


そう言ってくれているかのようだった。



私の人生を見守ってくれていた”ということが言葉以上に伝わってきて、

そんな存在が私にはいたのか、と、


例えようのない感情が込み上げた。



ばちかんの仲は良かったし、
話も気も合うし、
長い付き合いで互いのこともよく知っている。


しかし、
これほど寄り添ってくれていたのだ
ということには気づいていなかった。

いや、どこかで友達とはそういうくらいのものだろう、と、
愛を受け取りきらずに線引きしていたのかもしれない。



私が過去に何気なく吐露していたことを、
自分事のように覚えていてくれて、案じてくれていたのだと、

私の想像をはるかに超えたその愛の深さに、

正直、

言葉を選ばないならば「見くびっていた」とすら思った。


仲が良い人や付き合いが長い人に対してでも、

私にはどこか自分の奥深く、全てを見せてしまうことへの怖さや恥ずかしさ、居た堪れなさがあって、

全ては語らないところがあった。


これほどの付き合いであるばちかんにさえ、

「生活が謎に包まれてる」
「潔癖・こだわりが強そうだから人と住むのは無理だと思ってた」

とつい最近まで思われていたほどだ。


そうやって私が自分のことについて多くを語ってこなかったから、

隠してきた自分の自業自得といえばその通りだし、

自分の一歩踏み込んだプライベートな話をしてみたときに返ってくる温かさに不慣れで、同時に感じたことのない喜びにも狼狽した。
 
 


新しい感覚にドギマギしながらも、
この夜、ばちかんに対して本当の自分で自分の話ができたような気がした。


そうやって解放してみたら、
向こうはもう受け止める準備万端で、
ずっと待っててくれていたんだ、なんだ、私次第だったんだ。

そんな素敵な肩透かしである。

ずっと前から知り合っていたのに、出会い直したような体験だった。

人の幸せを願う


おやすみ、と眠りにつく前に、

「さき、幸せになってね」

と、ばちかんの一人が言った。

「うん、本当に。幸せになってね」

と、もう一人も続く。


その言葉を聞いたとき、
自分の理解が追い付くより先に感情が前に出て、

理由もわからないまま泣きそうになった。


言葉を発したら泣いてしまって涙声になると思ったから、
短く、

「うん、ありがとう」

と精一杯に返事をする。


ぐわっと押し寄せるその感情の中で、
この息をのむほど美しい感情を忘れぬうちにと、

瞼を閉じながら必死に涙の理由を考えると、
 
それは、
 
私のための、祈りとも取れるほどの心からの願い、
幸せになってほしいという何の損得勘定もない純粋な願いを感じ取ったから、

そして、

この素敵な関係性のありがたさ
私が幸せになっていいのだという自分への許し
周りからの祈りや祝福という世界の美しさに泣いたのだと判った。


 

人の幸せを願う、ということの意味を身をもって理解した瞬間でもある。


友人に幸せになってほしいですか?と問われたら、
誰だって不幸になるよりは幸せになってほしいと思うし、

誰かが結婚するというならば、
ひとまず「お幸せに」と言うのが礼儀である。


だが、
そんなライトなことではなかったようだ。


ここ一年でたくさんの素敵な人たちと出会い、
自然と、その人たちが幸せであってほしい、と思うようになり、
人の幸せを自分のことのように願う、というその輪郭がわかってきた。

そして、それがこの旅で開花した。


その感情は、

「こんなに素敵な人には、幸せでいてもらわないとこちらが困る」

というような、のっぴきならないものである。


もっと掘り下げるとそれは、
こんなにも”大切”だから、そんな”大切なあなた”には幸せであってほしい
ということだ。


願う、というのは、それだけ「大切」に想っている、ということなのだ。

物理的にでも心理的にでも「幸せにしてあげたい」と思うならば行動で示せばよいが、

それではまかないきれないくらい、カバーしきれないくらいのレベルで相手を想っている。だから、それは自分ではどうしようもなく、
ただただ”願い”となり”祈り”となる。

あなたを幸せにするなんておこがましい、
そんな能力自分にはないけれど、
せめてずっと願わせてほしい。

私はばちかん全員に対して心からそう思っているし、
他の大切な人たちに対してもそう思っている。

そして、自分がそう思われている、ということも、

ちゃんと知って、
ちゃんとありがたもうと、
今日も、温かい世界に感謝している。



出会い直させてくれたばちかん、ありがとう。
これからもたくさん出会っていこうね。

さき

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