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福音が鳴る時


「あなたに絵を描く技術を与えましょう。

 美しいものをデザインする能力を与えましょう。

 そして、人の気持ちを汲み取る共感性を与えましょう。」


そう言って、神様は私に3つの力を与えた。


そばで聞いていた天使が、にっこりと教会の鐘を鳴らす。


私はこの音を、キリスト教のそれとはやや違うかもしれないが、


”福音”


と呼ぶことにした。

天職は考えても探せない


世の中の多くの人が、
非常に多くの人が、


「一体自分にぴったりの仕事ってなんなんだ?」と、

いわゆる”天職”を探し求めている。

私はというと、例に漏れずそのうちの一人だった。


絵を描くことが好きだから画家?イラストレーター?漫画家?
そこから派生してデザイナー?


誰からも学ばずに勝手にできたことだし、
人より難なくできるという点では、
きっと職にすれば「苦しさ」を感じづらく、
ワクワクしながら働ける気はした。



かつて私の脳内で”天職”という言葉の意味は、

「こんな仕事を本業にできたら天国だな〜〜」

くらいの、

いわば”楽して稼げる”程度の陳腐な理解に留まっていた。



”好き”が詰まっている絵やデザインを仕事にしたら没入できるし楽しく働ける、

つまり、私の理論でいくとそれが天職のはずだった。



それなのに、

「じゃあ、デザイナーかイラストレーターが私の天職なのかな?」


そう問いかけると、

心の中の自分はなぜか『Yes』と言わなかった。



今思うと多分、
”頭で冷静に考えてしまっている”ことが違ったのだ。


消去法の逆をなんと呼称するのか知らないが、


○○ができる。
●●もできる。

それじゃぁ、
ここから導き出される職業は××かな?


みたいなこの構図が、
腑に落ちていなかったのだ。

この方程式で素敵な職に巡り合う人もいるだろうが、

少なくとも私は違うようだった。


もっと奥底の、心の底から湧き上がる情動と共に感じられないと、
頑固な自分が首を縦に振らなかった。


前のめりにやるブーストがかからないというか、
迷いというか。

私はこれをやるんだ、と言うべき原動力が抜けている気がしていた。



そんなこんなで、
イラストもデザインも天職と違うならどうしよう。。。と思いつつ、

『とりあえず好きだし続けよう。』

と案件を引き受けていたのが少し前までの私。


そこに、神様からのお知らせが届く

私の使命

イラスト・デザインに本腰を入れ始めたのが10月。


これまで友人の依頼を少し受けたことはあったが、

より多種多様な要望・案件に対応するようになった。



その中で、
私の作品に対して何度も

「まさにこういうのが欲しかった」
「思ってたことのまんまだった」

というような言葉をかけていただいた。


そういったありがたい言葉を浴びるうちに自信がついてきた、

というのももちろんあるが、


もっと感覚的なところで、
”天職”を意識する瞬間があった。


それはもはやロジカルに説明できないのだが、

感覚レベルで依頼者と”バチっ”と音を立て、
イメージが通じ合う瞬間があるのだ。


これが、どの依頼者とも必ず生じた。


たった一人となら偶然かもしれないし、
思い過ごしかもしれない。


だが、この不思議な体験が何度も起こるうちに、

自分のコントロールできる能力ではない何か
「与えられた力」、のようなものを感じた。

(逆に言えば、その”バチっ”が来ないと私には描けないし作れない)


おそらく私のその名伏し難い能力は、
自身のコンプレックスでもある”共感性”からくるものと思われる。

相手になりきってしまうくらい没入し感情を受け取ってしまうところがあって、それが、依頼者にも適用されている。


その極端とも言える共感性で受け取った気持ちを、

絵に表現する技能を持っていて、

それを使ってデザインを作ることができた。



本当に先ほどから偉そうで申し訳ないのだが、

それら3つの力がどのイラストレーターやデザイナーにもあまねく平等に与えられている気も、
簡単に後天的に身につけられる気もしていなくて(ある程度はテクニカルに身につけられると思うが)、

第六感的に、神様から”ギフト”として受け取ったような気がするのだ。
(デザインはできるが絵は描けない、絵は描けるがデザインはできない、どちらもできるが共感だけが難しい、など一側面だけ足りていない、という人はいるだろう)


だからこそ、
やりたい、のさらに奥に、
”私がやらなくては”という使命すら感じる。


それは、

「誰もできないんだったら仕方ないなぁ、私がやってあげなきゃだね」

というような、

こちらに「やる・やらない」の選択の余地があるものではなく、


初号機に乗れるのは僕しかいない、僕が乗ります(でないと人類が終わる)という碇シンジ状態である。(詳細はヱヴァンゲリヲンをどうぞ)


つまり、こちらに偉そうにしている余裕などなく、
むしろ後が無い、私がやらねばならない責務がある、という感覚に近い。




どこで読んだのか聞いたのか思い出せないが、


元ZOZOTOWN社長で知られる前澤友作氏が、

『見ず知らずの人になぜお金を配るのか』と問われた際に、

「僕みたいなお金に恵まれた人は、それを還元していかなきゃいけない。そういう責任がある

というようなことを答えたそうだ。


持つ者は、それを自分の中にだけ蓄えるのではなく、
義務感と共にそれを還元していく。

そういう考えらしい。


この話を聞いた当時は、
この考えはお金についてしか適用されないと思っていたが、

今は能力についても同様に言える気がしている。


この能力は希少なようだ。

そしてその能力を私は持って生まれてきた。

依頼者が言葉にできない想いや願いを、

誰が形にしてあげるんだ、


—————それは、私だ。


そうわかってしまった時に、
福音が鳴って
全身に鳥肌がたった。


天職と呼ぶには何か足らないと思っていたその「何か」は、
どうやら”使命”だった。



イラストを描いたり、デザインをしたりすることは好きだが、

「人の話を聞いて、それを可視化することは好きか?」

と聞かれたら別に好きではない。

やらなくていいなら、
依頼者の要望など聞かずに好きな絵をひたすら描いている方が気楽で自由だろう。



それなのに、

むしろ根気のいる難しいことをやろうやろうと前のめりになっている。


その原動力は、
考える前に本能に訴えかけてくる使命感に他ならない。


せっかく与えられた能力を使わないで終わるなんて、
許されるものか。

そんな、健全な負債感である。


私の考えをさらに確かにしてくれた本の一節を、
ここに記しておく。▼

”…「天職」とは、自分にとって効率的に稼ぐことのできる職業、職能ではありません。天職は英語では「calling」です。
誰かから呼ばれること。誰かの声を聴くこと。これが天職の原義です。

 …たまたま、自分には、その声に応じるだけの能力と機会があった
 それに気づいたとき、そこには責任が立ち現れます。
 「自分にできること」と「自分のやりたいこと」が一致しただけでは天職とは言えません。第三の「自分がやらなければならない、と気づくこと」という要素、つまり使命の直覚が発生しなければならない。
 天職の3分の1は、使命でできている。
 callingという言葉はそれを教えてくれます。”
『世界は贈与でできている——資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(近内悠太, 2020.03.13)

生きている感覚

天職を全うしていると確信するもう一つの側面は何か。

それは、”生きている”という感覚の存在である。


さまざまな”生きている”がそこにはあって、

ざっくり以下のような場面に感じられる。

  • 頭で考えるより、何かに突き動かされてアウトプットしている時間
    →周囲に決められたことではなく、本能や運命に従って生きていると思える。

  • 文字通り全心・全身・全力を使って案件に対峙している時間
    →全てを注ぐし、刹那的に身体を使うからこそ命を削っている感覚がある。それがとてつもなく「生」を感じさせる。

  • 成果物に対して正統な評価・対価を与えられたとき
    →本業で『何の役に立っているのか?』『この仕事はいくらの利益になるのか?』などわからないまま目の前の仕事をするのとは違い、一つ一つの一挙一投足全てに重みや意味を感じる。それが、毎秒毎秒を”生きている”と思わせてくれる。

  • 魂を込めて作ったものが依頼者の想いを具現化できていたとき
    →ここに至る(最終アウトプット)までの時間を最高に”生きた”という気持ちになるし、相手が幸せそうに喜ぶ姿を見て、天職に”生かされた”という気持ちにもなる。

さんちゃん曰く、この「生きている」に巡り合えることは本当に稀有なことで、多くの人が気づかないか、出逢えぬままに生涯を終えるらしい。


この福音は人生でそう何度も鳴るものではないようだから、忘れぬうちに筆をとっている。

『はい、すぐに書いて!!』と後押ししてくれたさんちゃんありがとう。


人生がつながりを持つ

顔の見えない電話越しにさんちゃんと話していて、
本当は少し涙ぐみながら、
それがバレないように必死だった瞬間がある。


それは、私の話を受けて、

「今まで聞いてきていたさきちゃんの人生がつながった。
 悲しいことも辛いことも、全部意味があったんだね。
 そして、今まで自分に向けてきた力を、周りの人に使おうとしているんだね」

と、さんちゃんが言ってくれたときだ。


その言葉で、
自分の人生が走馬灯のようにフラッシュバックした。

本当に、一気に駆け抜けた。



私にとって絵は言語であり、自己表現のツールであり、外界と繋がるための橋であり、私をどこまでも運んでくれる船だった。


そうやって何度も絵に助けられてきた人生だったから、

それを今度は人に使いたい、

それも、ただ使うのではなく、

”言葉にできないものを世に出してあげるお手伝いがしたい”になったのだ。


うまく人に伝えられない・言葉にできない性格も、
それに苦しんだ過去も、
それを絵で表現できた喜びも、
人の気持ちを汲み取り過ぎてしまう特性も、
美しいの基準を持っていることも、

全て全て、

人の言語化できないイメージを汲み取って、
”そう!言いたかったのはこれだよ!”
と言ってもらえるほど可視化すること。


その使命のためにあった。



自分の人生の意味づけ、後付けにすぎないという見方もあるかもしれないが、

私にはとてつもなくしっくりきたし、

もうスピリチュアルだとか言ってはいられない次元で納得してしまった。


私には絵しかない、と思っていたことが
むしろ進むべき道だったとわかった安堵や、
過去のさまざまな記憶・想いがとにかく込み上げて、
目の周りが滲んだ。


人生が一度清算されたような気がした。

今後の課題

感極まってもいられない。

この天職への気づき、

”福音”を聴いてしまった者は、安堵と同時に恐怖を手に入れる。


自分の果たさねばならぬことがわかってしまったのに、
それをやらないでいることが許されないからだ。


目の前の安定を手放す恐怖や、
どうやって使命を果たしていくかこれから模索していかなければならない、
未知への恐怖が襲ってくる。


気づく前には戻りたくないし、
自分の存在意義も格段に理解できる今の方が幸せとは思うが、

知らぬが仏という言葉もこういう時に真価を発揮するものだ。



安寧の中にいた時間は終わってしまった。


本業の傍ら人を救い続けるのか、
生きている時間の全てを使命に遣うのか。



正解は無い類の問いだと思うが、

逃げそうになる自分を正面に固定して、

この新しい問いに立ち向かうことにする。

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