見出し画像

抵抗のない私

[[[ 出身:台湾
   仕事:デザイナー・イラストレーター ]]]


私は先日、生まれて初めて、自己紹介で浸透圧ゼロを感じることができた。

違和感のない私。

理解するより言葉が先で、感覚が後からフィットする不思議な体験。
この言葉にしがたい現象が起きた背景をつづりたい。

ずっと苦手だった自己紹介

「どこ出身?」「仕事何してるの?」
初対面の人と関係を深めるうえで大抵避けられないこの質問。

特に出身地については、いわゆる『地元』を離れる人が多くなる大学生くらいの時期から、よく聞かれるようになった気がする。


その度に、私は「実家は千葉にある」という曖昧な言い方をして逃げてきた。


人によっては、「何その微妙な言い方!」と突っ込んできたので、


「生まれた場所ではないからあんまり思い入れとかなくて。幼馴染もいないし」とテンプレートフレーズを答えていたが、


「別に生まれた病院とか聞いてないよ〜、最初に住んだとこで良いのに」
と、大抵の人は私を偏屈な人間のように眺めてきた。


「じゃぁ大阪」


そう答えると、「全然関西弁じゃないね!」みたいな話になり、

私は心の中でいつも『だから聞いても意味ないんだって。大阪も3ヶ月しかいなかったもの』と卑屈になっていた。


その後の私の住居を転々とした人生はもう記載する必要がないが、
とにかく自分の”ここが地元”と言えるほど思い出のある土地が無かった。


いや、


正確には、とある一つの土地の記憶を、カウントしないふりをしていた。


それについてをちゃんと見つめた、それが今回訪れた変化の一つである。

幼少期のたった3年は出身地になりますか?


「台湾に行くことになったよ」

今でも鮮明に覚えている。
私が幼稚園児の時、父からそう告げられた。


二つ上の姉が小学校で楽しそうにしているのを見ていたから、
私もてっきり赤いランドセルを背負って日本の小学生をやるんだと思っていた。


ところが父が仕事で台湾赴任となり、
母と姉、そして私も共についていくことになったのだ。

両親は英語が堪能だったが、中国語の話せない母が2児を抱えて父についていくことを決めたのは、今になって大きな決断だったであろうと思う。

引っ越しの詳細や、自我のない私が台湾を嫌がったのかなどは全く記憶がないが、
気づけば日本よりずっと暑い異国の地に私はいた。


居住するマンションの窓に無数の虫が群がっていて到着初日に母が悲鳴を上げていたこと、初めての土足文化でフローリングではなくタイルの床が新鮮だったこと、お風呂に入ろうと思ったら下水が排水溝から吹き返してきて母と浴槽を封鎖したこと、ビンロウと呼ばれるタバコのような薬物のような食べ物をタクシー運転手が皆食べていることが異様だったこと、野良犬や野良猫の数に驚いたこと、そしてあの台湾独特のスパイシーな街の香り。
断片的に異文化体験との出会いは覚えているが、
さすがの幼少期、家族のだれよりも最初に異国生活に慣れたような気がする。


一足飛びで申し訳ないが、居住してかれこれ3年が過ぎたころ、今度は日本への帰国が告げられた。
正直、とても悲しかった。


夏休みや年末年始には日本に帰省していたが、その度に「いつ台湾に帰るの?」と言っていたし、私の中で日本は行く場所、台湾は帰る場所、になっていた。

いっそ、日本の方がよくわからない国だった。


帰国してから、私が日本の学校文化や人間関係に慣れるのに苦労した話は想像に易いと思うが、

それでも長く住めばそれなりに慣れるもので、なんやかんやと順応していき、進学も就職も迷わず日本で進め、気づけば御年28歳になった。
(その過程で、台湾の友達に会いに行ったり、家族で昔住んでいたマンションに行ってみたり、自分のルーツを知るために短期留学したりと台湾との関わりは持ち続けていた)



しかし、
日本での生活が長くなればなるほど、
台湾を故郷、ということが恥ずかしくなっていった。


”たった3年”
”幼少期にいただけ”
"難しい中国語はわからない"



これらに始まるいくつかの事実が、
「出身地を台湾というなんて大げさだ」
という自戒をかけていた。


高校生までアメリカにいました、
インターナショナルスクールに通っていました、というような生粋の帰国子女を目の前にすると、
私なんかが台湾を語るなんておこがましい、たった数年を鼻にかける奴みたいだ、と思ってしまったのだ。


そうこうして、
一番思い入れがあるのは台湾なのに、
心で測らずファクトで測って、
結果出身地迷子になり、
冒頭のような出身地トークでアイデンティティ不在のひねくれた人間になってしまっていた。


そんな私が変わることができたのは、
最近、大切な日本人の仲間達を台湾に招待したことがきっかけだった。

「これが美味しいんだよ」
「あそこが楽しいよ」
「台湾ではこういう風にみんなするの」

もっと知ってほしい、好きになってほしい、と、相手が欲するよりも多くの情報が自分の意識を飛び越え溢れんばかりに口をついた。

生まれて初めて、”自分の地元を紹介している”という感覚があった。
『まぁそんなに知らないけどね』
という心の声が、聞こえなかった。

こんなにたくさん、特定の土地の魅力を人に伝えられるんだ、と自分で自分に驚いた。


そして、
参加者の一人から言われて認識したのだが、
<台湾についてよく知っている>という知識面の話だけではなく、
私の中に「台湾人らしさ」みたいなものを見つけることができたのは、大きな発見だった。


私の内側にある空気感自体が、
台湾にルーツがある、と考えたら諸々腑に落ちた。

どこか日本で感じていたズレ・違和感のようなものが、
台湾にいる間は感じられなかった。


とても気分が落ち着いていて、食べ物・暮らし・コミュニケーションスタイル・常識・文化みたいなものがフィットしている感覚があった、違和感を感じなかった。


ここまで愛着を持っていて、心安らげる国だったのに、

自分の心を無視していたから、自己紹介に抵抗があったのは当たり前と言えば当たり前なのだ。


その捉え方の誤りを認識できたから、
最近、自己紹介の出身地欄に、
思い切って「台湾」と書いてみた。

そうしたらどうだろう。
驚くほどすんなりと書けて、
抵抗が無くて、
盛っているというような気恥ずかしさもなくて、
むしろ等身大のような、
あぁ、
これが書きたかったんだ。嘘偽りないんだ。
記した文字を見て、そういう感覚になった。

自信を持って、
これが私のプロフィールです!
と言えるようなものが書けた気がした。

後ろめたくない仕事

出身地だけでなく、
自分の仕事の捉え方にも変化があった。


「えっと…、副業でイラストとデザインやってるんだけど、実は本業は理系企業の会社員で、普通にデスクワークしてて、結構残業とかするハードワーク系かな」

自分の中で、こういう自己紹介がテンプレになっていた。

何も悪いことはしていないのに、
なぜかどこか後ろめたい気持ち。

自分のことを言っているはずなのに、誰か他人の話をしているような
胸を張って言えない自己紹介。


「具体的にどういう仕事なの?」
「なんでその仕事にしたの?」
「楽しい?」
そういう後に続く質問が来ないでほしい、と密かに願っていた。

早く終われ、早く終われ。
自分の仕事について話すとき、
そんな切迫する感覚があった。


それもそのはず。
私は自分の仕事にやりがいを一切感じていなくて、
前のめりになれるマインドがなくて、
会社で成し遂げたいことも目標も何もなかった。

これを頑張っている、と言えることもなかった。

だから、人に話したい話もないし、
話しながらわくわくもできない。


今年からイラストとデザインを副業として始め、
それはとても夢中になれるものだったが、
「本業じゃないし」と、
已然、職業の話をするときは本業を言うべき、
と固執して、
ゆえに後ろめたさを感じつづけていた。

だがどうだろう。
副業の依頼をいただけて、
色んな仕事をさせてもらっていく中で、
むしろこれを腰掛だととらえるのは失礼な気がしてきた。

依頼を受ける私が、
プロとして、
胸を張っていなかったらどうするのだ、と。

そんな人に依頼したい人などいない。

私が、私自身にちゃんも自信を持とう。
堂々と、心が一番動く仕事を自分の仕事として答えよう。

そう思って、
自己紹介の職業欄に、
思い切って「職業:デザイナー、イラストレーター」と書いてみた。

今までだったら、「理系企業の会社員」が必ず入っていたのに、
えいやっ!と抜いてみた。


そうしたら。

やりすぎかな?と感じるかと思ったのだが、
そんなことはなく、むしろ清々しかった。
すっきりした。
しっくり、という感覚に近かった。

やっと自分の話ができた。
やっと、人に仕事の話を聞いてほしい!と思えた。
私のプロフィールの職業欄に興味を持って欲しい、と思った。


言葉先行で書いてみて、自分の頭で考えて理解するより感覚的に・運命的に腑に落ちる感覚が、
出身地・職業ともに今回訪れたのだ。


しっくりくる自分がわかることは、
自分をもっと気に入ることができる、自分を好きになれることであるとも感じた。





頭ではまだ納得してない、
ちょっと言い過ぎかもしれない、
こんなのまだまだ…
とブレーキをかけていることがあったら、


思い切って人に言ってみちゃう、
書いて世に出しちゃう、
みたいな、
えいやっ!の世界が良い働きをすることもあるのだなと、
使える手法が一つ増えた、そんなような気持ちだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?