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ずぶねり

 今年の出来事であるが、スマホで大相撲夏場所の取組結果を行きつけのバーのカウンターでチェックしていた。
 私は数年前よりUという力士を推していて、毎場所その勝ち負けや相撲内容などを注目していた。
 Uはもともと小兵力士でいろんな技を繰り出してアクロバットのような相撲で土俵を沸かせ、多くの人から支持され人気を博していた。
 その日Uは同じ小兵で動きの鋭い同年代のライバル力士との対戦であった。仕事の都合でリアルタイムでは見れないのだが、今はネットで取組が観れるので、それを私は楽しみにしていた。
 そしてその日のUは激しい攻防の末、土俵際まで下がったところで相手の懐に潜り込み両腕で相手の腕を掴み、上半身で相手力士を投げ飛ばしたのだ。
 私は唖然とした。こんな技があるなんて、初めて目にした。決まり手はなんだと画面を切り替えると『ずぶねり』とあった。
 ずぶねり、聞いたことがある様な無い様な、非常に珍しい決まり手だ。漢字で書くと頭捻りと書くらしい。それにしてもあの状況でこんな技を繰り出すなんて流石というか、本当に凄い力士だ。これからもますますUの取組から目が離せなくなることは請け合いだ。
 しかし、なんだろう? 今の技について、今一度考えてみる。
 ずぶねり、この言葉自体は初めて耳にしたように思うのだが……。
 いや、待てよ。私の記憶の片隅に何かが引っ掛かる。もう一度取組み動画を再生してみる。
 こ、これは……、もう一度再生してみる。一時停止させて技の繰り出し方を見直して見る。
 そして、とうとう思い出した。
 そうか、これだ。これだったんだ。
 あの夏の夜に遭遇した小さな出来事……。




 その女のことについては、ずいぶん以前から知っていた。
 地元では誰もが大っぴらに口には出さないものの、こそこそと噂話はそれとなく夜の闇が忍び寄るみたいに、人々の口端に浮かんでは淀み、いつのまにか街のあらゆる物陰に染みついた"病みごと“のひとつとなっていた。
 それでいて女の素性を詳しく知る人はいない。ある者は実は元大富豪に囲われた気位の高い女傑だと言い、またある者は貧民の家庭で育ち、いつしか物乞いをするように成り下がった不幸な女と侮蔑的な物言いをした。
 名前についてもしかりで、ある時は『マリー』また別時には『メアリ』、もしくは『エレーン』などとも呼ばれた。
 所謂、街娼であると誰かが聞き慣れぬその言葉を口にするのを聞いた。
 とりあえずここでは呼び名をマリーに統一して話を進めることにしよう。

 私がそのマリーさんを初めて見たのは、忘れもしない中学生の頃、当時私は市内でも有名な学習塾に通っていた。その日は夜の部の授業を受けて、帰りは午後十時近くになっていた。どういう経緯だったのかは忘れたが、外は小雨が降っていて、普段なら少々の雨くらい気にせずチャリを漕いで帰るはずだが、友人のHから一緒にパスで帰ろうと持ちかけられた。ちょっとした逡巡の後、私は自転車を塾に置いたままHと共にバスに乗り込んだ。
 車内でのHとの会話は今となってはまるで記憶にないが、走るバスの車窓から小雨に濡れる街並みを眺めるのは、小難しい数学や英語の学習で疲れた頭をリフレッシュさせてくれた。
 バスは市内の大通りを直線的に進み、街の中心部にある大きな交差点に差し掛かった。普段は通らないコースだ。その大きな信号の四つ角には郵便局の古いビルが有り、人影まばらなその周辺を私は何気なく目にした。
 バスは郵便局のあるビルを回遊するようにゆっくりと右折した。そしてその人の立ち姿を目撃した。
 それは何やらふんわりした白っぽいコートだかワンピースやらで身体ををすっぽりと包み込み、悠然と立つ女性であった。髪は蓬髪と言っても良いほど赤茶色に燃え上がり、遠目にも化粧の濃い顔は真っ白で、黒く縁取りされた双眸は異様に大きく、真っ赤な唇は横に長く、まるで無表情に通りを見据えていた。左手はキャリーケースのような物に添えられていて、ただ只管に立ち尽くすのみであった。通行人は避けるように遠去かり、その女の周囲だけ人影は少なく、暗闇の中でそこだけ青白く自然発光したオーラでその姿を浮き立たせている、そんな気がした。
 そんな印象的な光景はしっかりと私の脳裏に記憶され、誰に訊かずともそれがマリーさんであることを確信した。どうやら巷間で交わされる噂は本物であったらしい。所謂、街娼というものの実在を初めて目撃した瞬間であった。その日その後の友人Hとの会話、どのように帰宅したのか、それらは私の海馬から脱落してしまった。

 それから数年の時を経て、私は疾うに成人し、人並みの社会人となっていた。仕事に忙殺される毎日を過ごし、いくつかの季節を見送り、日々に流され毎日をあくせく過ごしていた。
 それは社会人二年目頃の夏だった。少ないながらもお盆休みを利用して里帰りした。
 久しぶりだからとかつての学友達と集まり呑もうということになり、夜、地元の居酒屋等に繰り出した。
 それは楽しいひとときであり、私も久方に酔いしれ昔話に花を咲かせ、近況を報告しあい、ビールの泡に夏の暑さと仕事の疲労を吹き飛ばせていた。
 二、三軒はしごをして、時刻も真夜中に差し掛かり、そろそろお開きかと思われた時、仲間の一人が最後に深夜までやってる美味しい餃子の店があるから締めにどうだと提案し、数人が同意した。もちろん私も断る理由はなく、彼らと久々の街中をそぞろ歩くことにした。その頃には昼間の暑さも途絶え、生温いとは言え吹く風は、ほろ酔い気分の身に心地良さを与えた。気分は良かった。旧友達もその様な顔であった。いや、少々我々は浮かれ過ぎていたのかもしれない。
 その友人が案内する餃子の店は大通りの向こう側だという。私達はゾロゾロと市内で一番の大きな交差点へと差し掛かった。角に建つビルはかつてあった古い建物から新しいビルへとその姿を変えていたが、郵便局の文字は相変わらずそこにあった。
 信号は赤であった。
 その時、曲がり角の少し奥まったところに白っぽいロングの服を着て立つ人影が目に入った。
 私は刹那ゾッとするような悪寒を背筋に感じた。
 そこにいたのは紛れもなく、いつか見たマリーさんそのものの姿だった。
 前回よりも更に近くで目にしたからか、あるいは年月を経たことが原因か、記憶の中にあるその人に比べ幾分立ち姿は小さく、婦人というより老婆を連想させた。
 けれども見た目は前回と同じく、赤茶けた蓬髪、白塗りの顔面、黒く縁取られた両の目、横一文字の真っ赤な唇は健在であった。だがしかし、あの日バスの車内で見かけた時に感じられた発光する様なオーラは今、失われていた。さらに蓬髪の毛量はあきらかに目減りし、顔の皺は深く、白粉はひび割れて、もしも手で触れたりすれば今にもポロポロと溢れ落ちそうだ。そして首には無数の弛んだ皮膚が重なり、その上に真珠を模したネックレスがぶら下がる。左手には相変わらず燻んだ色のキャリーケースを持つと言うよりは凭れ掛かり、その手の甲はゴツゴツと血管が浮き出てしみが目立ち、薄汚れているかの様に見えた。
 まだここにいたのかと、私はその存在に圧倒され、その場に金縛りにされた。それにしても、その容姿と年齢に、果たして声掛ける者などいるのだろうか? 驚愕の事実を前に、頭の中には様々な疑問や憶測が瞬時にいくつも飛び交ったが、いずれも言葉にはならず、また同時に脳内は真白でもあった。
 そんな私の様子に気付いたのかどうかは知らないが、酔った勢いであろうか、仲間の一人が何やら悪態をつきながら半笑いでマリーさんの前へと寄って出た。他の奴らもまた遠巻きではあるが同じような物腰で野次を飛ばしている。
 マリーさんの前に寄って出た酔っ払いの友人がその時、彼女に向けて口にした言葉は筆舌に語り得ない部分であるので、ここは想像にお任せするが、たとえそれが真実であろうとしても聞いていて気持ちのいい事柄ではなかった。
 彼女はそんな酔っ払いの悪態を全く無視した素振りで無表情にどこか空間を凝視していた。
 それが更に酔っ払いの機嫌を損ねたのか、その友人は事もあろうにマリーさんの右袖の白い布地を片手で掴み、更なる暴言を吐いた。
 流石に、寄せよと口では止める仲間もいたのだが、誰も間に割って入る者は無く、成り行きを見守っていた。私も然りである。黙って事の成り行きを見守った。
 すると、突然、マリーさんは前に立ち塞がる酔っ払いの胸元辺りに頭を下げ、一歩体を寄せた。
 おいおいと酔っ払いが薄笑いを浮かべた次の瞬間、彼女は男の両上腕部を抱え込み、頭部をぐいと鳩尾辺りに押し込み、くの字に折り曲がった身体を一気に持ち上げ、ほんの少し左に捻りを加えた。
 あの細い老婆の身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、男の両足は大きく地面から離れ、カラダは宙に飛んだ。
 鋪道に投げ飛ばされた友人は一瞬何が起こったか、理解が出来ず、辺りをキョロキョロと見回した。囲って見ていた者達も唖然として、ただ息を呑むばかりだった。幸いにも友人は尻と背中を路面に打ち付けただけで、怪我は無かった。あまりにも鮮やかな一撃としか言いようが無い。
 ふと見るとマリーさんは何事も無かったかの如く、キャリーケースを引き摺り、夜道を去って行った。その背中は老いてはいたが、何か毅然としたものを感じさせた。
 倒れた酔っ払いは、バツが悪いのかまた何事か喚いた。だが、もうそれは相手に届く前に夜風に吹かれどこかへ消えてしまった。
 後に残る私達はすっかり酔いが覚めてしまい、ただその後は殆ど誰もが口数少なくなり、本来は美味なる味の餃子をただ黙々と口に詰め込み、やがてその日は散会した。





 そんな出来事があった数年後、即ち今年の夏場所十二日目の夜、私はスマホを片手にとあるバーのカウンターに腰掛けていた。
 そうだ、Uの繰り出した決まり手、頭捻り。
 これは、数年前に盆帰りした夏の夜、大通りの交差点四つ角の郵便局前で、マリーさんが酒に酔って絡む私の友人を撃退した、その時の決まり手であった。

 あれは、ずぶねりだったのか。

 私は都会の片隅で合点がいった様に独りごちた。
 あれ以来、里帰りをしていないが、あの郵便局前で深夜、マリーさんは今も立ち続けているのであろうか? そしてそれは、いつかは居なくなってしまうものであろう、と思う。或いはまた別の誰かが現れるのか、それは判らない。
 思えばマリーさんの人生について私は何も知らない。知りようがない。ただ思いを巡らすだけだ。
 あらゆる噂話を聞いたものの、どれも真実とは思えない。そして多くの悪い評判を耳にした。まるでそれは社会の汚点のように、街に染み付いたしみであるかの如くに。

 ただ私が知るのは、彼女が見事な『ずぶねり』の使い手だったということ。

 それだけだ。




 おわり




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作者によるあとがき

 このお話は主人公が中学生の時に学習塾からの帰りに友人の誘いでバスに乗ったことをきっかけとして始まります。
 もしもあの時、友人の誘いを断り、雨の中、自転車を走らせ帰っていたなら、この『ずぶねり』という作品は誕生せず、代わりに『ずぶぬれ』という小説を書いていたことでしょう。
 人生とはそんなものです。


令和五年 夏  紗(うすぎぬ)







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