見出し画像

最終電車

 遠くにポツンと灯りが見えた。
「来たよ」 何気なく彼は呟いた。ホームの端で黒っぽいコートにちらほら雪が舞っている。
「ああ、それからね……」
 老作家は背中を丸めながら、嗄れた声でこちらに顔を向け、笑ってみせた。皺だらけの顔にさらに深い溝が何本か刻まれる。ほつれた髪が額から目の端に曲線を描いてそれがまるで西洋絵画の人物を彷彿させた。
「君の作品……」
 それだけ言って暫く言葉を途切れさせる。
「はっ」沈黙に耐えられず、そう言葉を繋げてしまった。もしや次の言葉を催促してるみたいに思われないだろうかと危惧して狼狽する。
「出来れば今度、もう少し、続きを読ませてくれないだろうか?」
 一瞬、返答に詰まってしまった。ええ、もちろんですと伝えるべきだったが、言葉にならなかった。
 それでも老人は何かを察したようにうんうんと頷きながら、
「蒔野と別れた後、洋子はどんな思いで別の男性と結婚したのだろうかと……、少し、気になってね」
 複雑な想いに駆られて、長い沈黙をせざるを得なかった。
 おそらく、彼がその続きを読むことは二度とあるまい、それでも約束の意を込めて深く頭を下げた。
 やがてホームに電車が到着する。ドアが開き、彼は車中の人となる。窓越しに見えたその瞳は潤んでいた。そして小さく微笑み、軽く手を振る。
 スロー再生する映画のようにゆっくりと電車は走り出した。それが最終電車であることは誰もが知っている。
 漆黒の闇に包まれた遠き山並みの静寂の中に、老作家を乗せた電車は消えて行った。もう帰って来ない。



 雪の中、ホームにポツンと取り残された私に、カエル君が忍び寄って来て、こう問い掛けた。
 「どうだい? 未来の自分に逢った気分は」



(長編小説『カエル男との旅』より抜粋)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?