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【短編小説】天上への10日

以前、文学系投稿サイトで発表していた創作物を加筆修正して再掲しています。 以前投稿していたサイトからは削除してあり、現状この作品はnoteのみで発表しています。


餓鬼

 ダイニングキッチンに足を踏み入れた瞬間に私は自分がとうとう生きながらにして天上界に辿り着いた、すなわち私は生きながら死んだすなわち私は解脱した、と感じて無量の感動に包まれた。

 そこは雲の上であった。一寸先も見えない。ただ白く、白い無限。

 その無限の足下、雲がもうもうと漂う中からいきなり餓鬼が面を出して私は驚き、飛びすさった。餓鬼?この場所はもしかして天上界ではなくて地獄?

 それにしても粉っぽい雲である。ゲホゲホと私がむせると雲が散って、そこ、私の足下には真っ白な顔をした餓鬼が面を上に向けて正座している。白目を剥いて。

長女

 徐々に雲が払われて行くと、餓鬼の面前には朱色円形の卓袱台が設えてあって、その風景は間違いなくいつもの我が家のダイニングキッチンに相違ない。

 卓袱台の上には大きめのハナクソが5,6粒くっついているし、よくよく観察してみると餓鬼はどうも我が長女であるらしく、それはそれで問題はないのだけれど、ただ何故に長女がこのように白化した室内で白目を剥いて失心しているのかが理解できなくて私は、しばしその場に立ちつくし、黙考した。

 『はは〜ん』

 と、私の脳は納得したような声をまず上げてから、

 『さてはこの長女のヤツは、このダイニングキッチンのテレヴィでもって実にもならない腐れ番組でも鑑賞しながらだらしなくハナクソをほじくっていたところが迂闊にも指を奥にまでつっこみすぎて脳まで掘りぬいてしまい、そうなるとさすがに、脳はショックを受けてこいつを失心させたのであろう。この白い粉はその際にこいつのつむじあたりからでも噴出した混沌の残骸だと推測できる。やれやれ、どこかで聴いたような話だが・・・。』

と結論付けた。

 「バカボンのパパか、おまえは」

 私はそういい残して踵を返し、キッチンの引き戸をぴしゃりと閉めてその場から立ち去りつつ、

 「解脱への道はまだ遠いか?」

と、声に出して自問し、少しうなだれた。

粗相と決裂と9杯の水

 その晩は何故か激しく欲情、7年2ヶ月ぶりに妻とセックスをして中出しし、その後尿意をもよおしたのだがなんだか面倒臭くて朝まで我慢するつもりだったのが結局我慢しきれず、夜中の4時頃にそのまま放尿と言うか失禁粗相をしてしまい、寝小便をした後ろめたさと下半身の不愉快さと悪臭から逃避するために眠りについて気がつくと妻はいなかった。

 「あ」

 首を振り振り上半身を起こすと私の腹には口紅で描いたと思わしきピンク色の文字でただ、

 【死ねば戻る】

と、ひとことあった。

 私は頸の後ろをぽりぽりと掻きながら立ち上がり、失った水分を補給しようとダイニングキッチンへ向かった。

 昨日とほぼ同様の風景があった。

 ハナクソのこびりつく朱色円形の卓袱台前には白目を剥いて放心する長女が餓鬼のようにいて、周囲には相変わらず粉っぽいカオスが漂っている。

 ただ、昨日と比してハナクソがやや大きく肉厚になり、カオスの透明度が増しているように感じられた。

 私はふぅふぅと息を吹き出して周囲の混沌粉を払いつつ流しに辿り着き、混沌粉の積もった食器のなかから混沌粉で曇ったグラスを引き抜いて水を注ぎ、苦ぼったい水を立て続けに9杯飲み干した。

 水分が過剰になった私は息が切れ、全身から尿臭の汗を吹き出しながらヨロヨロと寝室に戻り、まだぐちゃぐちゃに湿って不愉快極まりない布団に横たわって眠った。

妻の名を呼んでも空腹

 その日、妻は戻らず、私は空腹に耐えかねて部屋の土壁を叩き割ってそれを喰った。

 「ぎょめ」

 私は思わず妻の名を呼び、

 「腹が減ったよ」

と、泣いた。

 妻の高笑いが聞こえたようで空しく、

 「壁は堅くて美味しくないんだ」

と嘆く自分の声はさらに空々しいようで不愉快のあまり血圧が上昇したのか、吐き気がして止めることもできずに嘔吐し、その夜はそのまま昏倒してしまった。

 翌日も同様の生活であった。

 翌日も同様であった。

 翌日も同様であった。

 翌日も同様であった。

 その間、卓袱台の上に張り付けられた長女のハナクソはふっくらと大きく成長し、私の身辺身成りの不潔さは加速していった。

 妻が失踪してから9日が経過した朝、寝室の壁をほぼ食い尽くしてしまった私は餌を求めて隣室に進入し、へそを出してぐぅぐぅ寝ている長男を発見してその顔色が妙に健康的なことと、風呂上がりのようないい匂いが部屋中に漂っていることに腹を立て、腹いせに幸福絶頂のようなその顔面に脱糞しながら思った。

「風呂に入ろう」

入浴で世界は変る

 生命が宿る。歓喜、喚起。まったく爽快。しあわせ。溌剌。絶頂。親和。慈しみ。愛。

 とにかく肯定的なコトバしか浮かんでこなくなった私は、あまりにはしゃぎすぎて狭い風呂場の中、壁に跳び蹴りを喰らわせて破壊し、全裸のまま浴室を飛び出すとスキップを踏みながら廊下の壁にも跳び蹴りを入れたのだが、なんといっても安普請の家である。壁はいとも簡単に崩壊して私の体は外界に放り出された。外界とは言っても自分の家の敷地内である。ちいさなちいさな土の庭をごろごろと全身をすりむきながら転がり、往来と我が敷地を隔てる塀に激突して止まった。

 私はそのまま仰向けになって笑った。

 快晴である。

 土に寝ころび、雲一つない青空を仰ぎ、快活に笑う。先ほどまで壁を喰い怨嗟にとらわれて長男の顔面に糞を垂れていたのが自分であるとは信じられない気分である。

 ひとしきりうれし涙に噎んでから身を起こし、先ほど突き破った壁の瓦礫を手で除け、足で払って家内に戻ると、なにやら甘い匂いがする。

 ネズミの糞のようなニオイの土壁だけを食べ続けていた身には辛いほど魅惑的な香りであった。

 私はくんくんと鼻を鳴らしながらニオイを追って行く。

 辿り着いたのはダイニングキッチンであった。

 せっかく快活な中年に戻って蘇ったというのに、またあの白い混沌を吸い込んだら元の汚物に逆戻りかもしれない。だが、この甘い匂いには逆らえそうにないと意を決した私はおずおずと引き戸を引いた。

 天上界でもこれほど華やかではなかろう。

狭小天界

 ダイニングキッチンの中央、朱色円形の卓袱台には純白レース編みのクロスが整えられていてまたそのど真ん中には大皿に盛られたクッキーの山、山、山であった。

 長女は真っ白に粉をかぶりつつもまだキッチンに立ち、さらにクッキーを焼き続けている。

 長男は無心に満面の笑みで、顔面に糞をつけたままそれに気付いていないかのように長女の焼いたクッキーをむさぼり食っている。

 私はおそるおそる山盛りの皿に手を伸ばし、大振りなクッキーを選んで口に運んだ。

 堅くなく、柔らかすぎず、甘すぎず、なめらかでだがしっかりとした味がついていて・・・・、私は泣いた。

 私と長男は競うように喰い続けた。

 長女の声が、

 「ママは?」

 と、私に問うているのはわかっていたが、無視した。

 長女の声が

 「今日はママの誕生日でしょ?」

 と、私に教えているのはわかっていたが、無視した。

 餓鬼は天上で生命の種を創作し、つむじから放たれた白い混沌とハナクソが結んだ実は狂気を封じ錯乱を癒し、生命を支えてくれる。

 探しても無駄、辿り着こうとしても無駄、それはいつでもそこにあり、どこにもいかない。

 涙と涎を垂れ流し、ただ一心不乱に喰えばいい。

 一心不乱にわき目もふらず喰い続ければいい。

 長女は焼き続けるだろう。
 きっと来年か、再来年か、妻の戻るこの日まで。

 私と長男は喰い続けるのだ。
 きっと来年か、再来年か、妻の戻るこの日まで。

 真実の幸せ。

 そのサイクルがどこにあるのか。

 わかる瞬間が必ず来る。

 どこにも行く必要はなく、探す必要もなく、ただこの場所にいることで。

 (了)

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