旅に出るときの心得

 数日前にふと思い立って、那須の方に出かけた。はっきりとした目的もなく、なんとなく温泉につかりたいなと思い、その日の夜の宿を確保して電車に乗った。

 行き先にもよるが、私は新幹線や特急電車よりは普通列車で旅行に行くのが好きだ(さすがに、各駅停車だけでとは思わないが)。電車に揺られながら本を読んだりうとうとしたり意外と楽しく過ごせる。乗り換えで、次の電車まで時間があるときには改札を出て駅周辺を探索するのもおもしろい。

 駅から今夜の宿までは、結構な距離があった。タクシーで行くしかないかなと思っていたところ、どうやらコミュニティバスで宿の近くまでいけるらしい。発車時刻までお土産を見ながら過ごし、バスに乗った。

 私と一緒に乗った、高齢の女性が運転手さんに話しかけている。どうやらお盆中ということもあり、病院の予約が変更になって大変だということらしい。大型スーパーの前のバス停からは、女子中学生が4人乗ってきた。部活の集まりなのか、彼女たちの着ている黒いTシャツには大きく「四天王」と書かれていた。その彼女たちと同じバス停で乗った男性が、後ろの席でおそらく孫であろう男の子に話しかけている。このバスの運転手さんがとても親切だという話だった。

 電車もそうだが、コミュニティバスにはその土地の日常が流れている。観光地であれば地元民だけではなく、観光客もコミュニティバスを利用することも珍しくない。しかし、やっぱりコミュニティバスは地元の人のものである。観光客は外から来た、異分子(というのは言い過ぎかもしれないけども)のようなものだ。

 そんなことを思っていたら、前に見たテレビ番組を思い出した。旅番組で、確か北陸のほうの特集だった。その地域は、昔ながらの日本家屋が多く残る地域で、しかも今もそのような家に多くの人が暮らしている。その地域を訪れた人たちは、日本家屋も含めた町の様相がものめずらしく、いたるところで写真を撮っていた。なかには、道路ではなくその家の庭だろうというところまで入って、写真を撮っていた人もいた。

 旅行にいく、観光をするということは異文化を覗き見するようなものであると思う。もしくは少しだけ、体験しにいくというようなものであると思う。自分の知らなかった生活や文化を目にすると、これまでの価値観や思考が刺激される。「なるほどな」と何か腑に落ちたり、「もしかして」と新しいひらめきがあったり内的な活動が活発になる気がする。しかし、一方で旅行や観光という行為には少なからず、その旅行先の人たちの生活や文化を侵すということも含んでいる。

 よく「観光地料金」というような言葉をきくが、これは旅行者が相手の生活や文化を侵襲する代金なのではないかと思う。少し高めのもろもろの料金を払うことで、住んでいる人の生活や文化に何らかの影響を与えてしまうことや、その土地の慣習や暗黙の了解に多少従わない、従えないことを許容してもらうのではないだろうか。だからといって、お金を払っているのだから何をしてもいいというわけではないが。

 一人旅に出かけると、宿の周辺をぶらぶらと散歩することがよくある。ガイドブックには載っていないおいしいお店がないか、珍しいスポットはないかと歩き回る。しかし、こちらには珍しい風景も住んでいる人からすれば大切な日常だ。おいしいお店だって、あまり知られてほしくない気持ちもあるだろう。これまでの自分の旅の楽しみ方は、大丈夫だったのだろうかと不安に思った。

 旅先では、自分はこの生活、文化にとって異分子であるのかもしれないという意識を持ちながら、楽しみたいと思った。「お邪魔します」と心の中でつぶやいた。

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