不確かなままでいる力

 この前、何気なくテレビをつけると、昔話題になったテレビドラマの再放送をしていた。これはどんな話だったのかなと気になって、見ているとだんだんと話を思い出してきた。ああ、ここまでは覚えてるなあ、と思ったときに、無意識で早送りをしようとしていた。思わず、はっとした。最近、インターネット上の動画に慣れすぎていて、すべての映像作品が早送りできると思ってしまっていた。

 こんなこともあった。少し前に、10年位前に完結した漫画を読んでいたとき、どうしても最終回の展開が気になってインターネットで結末を調べてしまった。本当は、そこに至るまでのストーリーが面白いのに。

 今は、インターネット上にたくさんの情報があるので、その真偽はともかくとして、大体のことは知識として収集できてしまう。それはとても便利なことで、きっと生活を豊かにしている。これまでは何かを調べることにかかっていた時間は、大幅に短縮され、短時間で膨大な量の情報を手に入れることができるのだ。

 本来、ドラマでも漫画でも小説でも、物語を見るときはその過程が面白いと個人的には思っている。登場人物の描写やちょっとした小ネタ、緊迫した状況で垣間見える日常のストーリーなど、おもしろさはいろいろだ。

 それを楽しむには、どんな結末になるんだろうという関心を維持し、今の結末がわからない状態にいなくてはならない。イギリスのジョン・キーツという詩人が、不確実なものがあるときにすぐに答えに飛びつかずそのままの状態でいられる力を負の能力と読んだ。物語を楽しむときにも、この力は必要なのかもしれない。

 わからない状態はつらい。答えを早く知ってしまう方がはっきり言って楽だ。それでも、わからない、不確かな状態で考えなければいけないこともたくさんある気がする。意図せず、誰かと険悪なムードになってしまったとき、相手にすべての非を帰することは簡単だ。もしくは、自分が悪かったと自己嫌悪になることも同じくらい簡単だ。けれども、その場(物理的な意味ではなく心理的な意味での場)にとどまりながら、どんなやり取りがあったのか、相手は自分はどう感じたのかを考えることの方が大切ではないか。

 飛びつくのでもなく、逃げるのでもない。放りなげるのではなく、手をつける。手をつけるのだけど、それをどうこう変えようとしない。よくわからないそのままの状態を、そのあまり気持ちのよくない状態のままでいる。

 8月も今日で終わる。仕事もまただんだんと忙しくなってきて、なんだかいろいろ感じる力が鈍ってきたような気がする。

 ちゃんと物事を感じ取れる人になりたい。自分と人、自分と自然、自分と社会、自分と自然-。自分と何かの間で起きていることをちゃんと感じ取れる人でありたい。

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