見出し画像

ありがとうが言えない症候群

おじいちゃんの97回目の誕生日。
実際の誕生日の数日前に、彼の元学生達が集まって誕生会を開いてくれた。

せっかく外出もできるようになったので、外でパーティーを
というのが当初の企画だったけれど、体力に自信がないという。
コロナで面会も外出もできない日々が続いたので、
おじいちゃんの外出意欲はかなり減退。
結局説得仕切れず、みなさんが施設に集まってくださっての
お祝いとなった。

施設と連携してのケーキの手配やパーティーの準備、
プレセントの手配など、仕事は山のよう。
それをこなして当日の集まりを実現してくださった幹事の皆様。
遠方から恩師のためにかけつける義理堅い方々も大勢。
かなりゴーイングマイウェイのおじいちゃんを
なぜ、こんなに多くの学生達が慕うのか、甚だ疑問だ、
などと冷たい私は思いながら見ているのだけれど、
人徳なのかなぁ。とにかく、彼は学生に恵まれている。

ところが、彼らがそうやってよくしてくれることに
慣れてしまっているからか、裏方の苦労が見えないからか、
今一つ感謝がないのだ、おじいちゃん。
集まって下さったみなさんに、サンキューレターを書いては、
といっても、「必要ない」の一点張り。
なんで、俺が礼を言わなきゃいかんのじゃ、くらいの勢いで
全く、みんなが集まってくれてうれしかったっていう感じがない。

昨日、検診に行った先で、老夫婦と一緒になった。
お二人で検診にいらしたようなのだけれど、だんなさんが先に検診がおわったら、
奥さんは、「あなた待っているのいやでしょう。先に帰る?」
と声をかけていた。
でも、そのためには彼女の検査を中断して、彼女がお連れ合いを道路までつれだし、タクシーを拾わなくてはならない。大人なんだし、
その当たりを察して
「いや、いいよ。君が終わるまで、待っているよ」
おつれあいはそういうかな、と思ったけれど、
ブスっと黙ってそっぽをむいているだけだった。
おじいちゃんみたいだ、と思ってしまった。
もう、治らないんだろうけれど、こういう人と毎日暮らすのは
大変だ。
挨拶代わりに一言、「ありがとう。だいじょうぶだよ」と
言うだけで、ずいぶん関係性は変わるのに。

別に、平身低頭してありがとうございました、御世話になりました
と言えといっているわけじゃない。
でも、相手が差し出してくれた善意に手を伸ばすとき、
一言ありがとうと言えるくらいはできてもいいよね、人間。
と、これはおじいちゃん見ながら、
日頃から感じていることだったりもする。

なんとしても幹事さん達の労をねぎらいたい。
一言でいいから「集まってくれてありがとう」と言ってほしい。
それで、アマゾンでThank Youカードを買っておじいちゃんに送った。
同時に、一言「ありがとう」って書いて送ってくれると、
幹事さん達は、先生が喜んでくれたんだなって改めて実感できると思うよ
とFAXを送ってみた。
念には念を入れて、施設に電話し、事情を説明した。
「もし、いやだっていったら、「でも、のりこさんには書くっていったんでしょう。だから、カードを送ってくれたのでは?」って言って書かせてください」とお願いした。
短期記憶が怪しくなっているのを逆手にとるなんて
本当だったらいけないことだけれど、まぁ仕方がない。
元学生達のヘルプあっての彼の今の生活なんだから。

施設の方では、カードが届くまで、FAXをとっておいて
カードと一緒におじいちゃんに渡して説得してくれたらしい。
クリスマスカードと違って、何十枚も書くわけでなく、1枚かけばいいと
わかったら、引き受けてくれた、とカードの文面と書いている
おじいちゃんの写真が送られてきた。
ありがたや。

自分も年をとると、なかなか「ありがとう」と言わなくなるんだろうか。
今から気軽に「ありがとう」という練習をしておかなくちゃ、
と思ったりする。
なんとなく、高齢化と共に悪化するように感じる
ありがとうが言えない症候群。
どうしたら、軽減できるのか。
どうしたら、自分はかからずにすむのやら。

得意技は家事の手抜きと手抜きのためのへりくつ。重曹や酢を使った掃除やエコな生活術のブログやコラムを書いたり、翻訳をしたりの日々です。近刊は長年愛用している椿油の本「椿油のすごい力」(PHP)、「家事のしすぎが日本を滅ぼす」(光文社新書)