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【鼎談#2】沼野恭子×工藤順×石井優貴「幻の作家プラトーノフ」

『チェヴェングール』の刊行を記念して開催したトークイベントの模様を3回に分けてお伝えしていきます。

*前回までの記事はコチラ→【鼎談#1】

■何かが欠けている人たち

沼野 では、この作品の魅力を解きほぐしていきたいと思います。まずは内容、それから文体的なことにも話が及ぶといいかなと思います。まずは「わからなさ」について。この感じは日本語で読んでもそうですが、最初は茫洋としていて「何が書かれているんだろう」と、霧に覆われているような中を手探りで進んでいく感じですよね。それに耐えて読み続けると、しばらくして「もしかしたらこういう小説なのかな」というように霧が晴れてくる。
 その上で、私自身は、主人公サーシャにはとても人間的な魅力があると感じられます。非常に真摯な人でひらかれた心で旅をする。このサーシャにどれだけ感情移入ができるかという部分もあるかなと思います。ネタバレにならないと思うので話しますが、序盤でサーシャの父親が湖に入っていく場面(12頁)があるんですが、最後にもそれに近いようなシーンがある(594頁)。湖から湖への放浪が描かれているわけです。そのような空間的な放浪、そして魂の放浪との両面がこの作品にはあるのではないでしょうか。サーシャは、「共産主義とは何だろう?」とずっと真摯に考え探求していく人で、「もしかしたらこれは共産主義かもしれないけれど、そうではないかもしれない」というような悩みの中でずっと生きていく。それって人間そのものではないですか? 今、世界各国を見ると、戦争がまさにそうですが、白か黒か、勝つか負けるかの二項対立でしか物事を見ていない。そうではない何か、白でも黒でもない迷っている人間というのが私たちの本来の姿だと思うんです。それが主人公サーシャに表われている。私にはそこが最大の魅力に思えます。
 それからもう一点、後で言葉の問題はあらためてお伺いするとして、ロシア語の「タスカー(toská)」という言葉についてです。非常に翻訳しにくい言葉の一つですよね。各方面で指摘される『チェヴェングール』の曖昧さは、この「タスカー」が醸し出す雰囲気にも依っているのではないでしょうか。ユートピアが生成する際の危うさ、それが「タスカー」が表わす霧というか靄というか、その中にある。それもとても大きな魅力としてこの作品全体の雰囲気を決定しているのではないかと思います。
 お二人にも、この作品の魅力について、お話をお聞きしたいと思います。

石井 一言でいうと、とてもせつない話です。ご紹介いただいた「タスカー」という単語は、ご指摘のとおり外国語には訳しづらいもので、ざっくりした意味を言うと、「自分には何か大切なものが欠けていて、悲しい」という状態を表わします。『チェヴェングール』の登場人物たちの共通点を一つ挙げるとすると、みんながこの「タスカー」を抱えていることです。みんな、それぞれ何かが足りない人たちなんです。そして、欠けたものを埋め合わせたいとみんなが思っている。例えば、主人公サーシャの場合、欠けているものは父親です。でも、父親は死んでしまっているので、もう会えない。サーシャの弟のプロコーフィは、何よりも家族を大事にする人ですが、その家族を失ってしまう。「その他の人びと」、つまり、誰からも他者としてしか扱われない人たちもたくさん登場しますが、彼らは、自分たちが何のために生きているのかよくわかっておらず、そもそも何が欠けているのかもわからないという状態で生きています。「欠けたものを手に入れたい、そうではないと生きていけない」、そういった人たちが、ああでもないこうでもないと言いながら、それでも何とか生きようとする物語が『チェヴェングール』です。当然、もがいても上手くはいかないわけですが。
 ですから、『チェヴェングール』を共産主義建設と絡めて読むと非常に政治的な小説のように見えますし、実際に政治的な読み方をしようと思えばできるわけですが、同時に、ひどく個人的な物語と言いますか、皆が切実に生きている様が描かれてもいます。私はそうした面がいいと思います。

工藤 私はわりと政治的な見方をするほうですね。『チェヴェングール』は1920年代の後半に書かれたと考えられていますが、その頃の時代状況がどんなものだったかというと、1917年にロシア革命が起こり、社会がフラットな状態になった。その中で、プラトーノフだけでなく多くの作家たちが「これからどうする?」「どうあるべき?」ということを自分の問題として考えていました。そんな中でプラトーノフは、できるだけ可能性を可能性のままにひらいておくやり方で作品を書こうとしていたのではないか、と思います。例えば今ウクライナで戦争が起こっていますが、戦争はAかBかのどちらか一方を選ぶことを強いる暴力の窮極の形とも言えます。でも『チェヴェングール』では、「こちらもあり」「あちらもあり」というように、判断を一度停止するような、当時浮上した可能性をめいっぱいに詰めこんだようなところがあり、そこに大きな魅力があるのかなと思っています。これが1930年代以降になると、スターリンが勢力を拡大し、いろいろあった可能性が一つに限定されていきます。まさに暴力によって…。
 ちなみに、先ほど「靄」「霧」という言葉が出ましたが、実際に作品中にはイメージとして靄や霧がたくさん出てきます。イタリアの映画監督パゾリーニの書評を付録として収録していますが、彼はそこに注目して、「プラトーノフは霧や靄、埃の描き方が素晴らしい」と絶賛しています。

石井 靄や霧の話が出たので、先走って文体の話をさせてください。『チェヴェングール』で象徴的に使われている単語については、訳語を統一しようと工藤さんと相談しました。その中の一つに「ムートヌイ(mútnyi)」という単語があります。これは「濁った」「淀んだ」、あるいは光について「微かな」という意味があるのですが、この訳語をだいたい「濁った」で統一したんです。霧などにも使われるので、「濁った霧」という表現は日本語として綺麗ではないという気もしましたが、「ここは統一したい」と思って通しました。というのは、その「濁り」というものが、この作品では生命のアレゴリーとして使われていると思うからなんです。これから読む方、あるいは再読される方は、そういうところにも注目していただけるといいかと思います。というより、そういった言葉に注目した方が、この作品をよりよく理解できると思います。

工藤 沼野先生が最初に言われたように、『チェヴェングール』は全体として湖に始まり湖に終わる構造をしていますが、その湖の名前は「ムーチェヴォ(Mútevo)」といい、これも「ムートヌイ」と同じ語根を持つ単語です。

■サーシャとプロコーフィ

石井 「曖昧さ」ということで思い出したことがあるんですが、ちょっといいですか? 仮に『チェヴェングール』のあらすじを紹介するとなると、サーシャという主人公が共産主義建設を目指して頑張るという筋になると思うんですが、よく読んでみると、サーシャってあんまりやる気がなくないですか?
 良いとか悪いとかではないんですが、彼は実際にチェヴェングールに行って何かをするとなると、夢の中で「嫌だ」と言い出します(354頁)。その夢の中で、父親に「チェヴェングールに行って事を成して来い」と言われて、仕方なしに行くわけですが、でも特に何かするわけでもない。周りの人が何かをやり始めると、「そうか、これだ」とやり始めたりして、とにかく姿勢が曖昧です。それは、子どもの頃のエピソードからも読み取れますよね。父親が亡くなって、サーシャは別の家に引き取られますが、その家には子どもがたくさんいて食べ物が足りないから、サーシャは物乞いに行けと追いやられてしまう。サーシャは我慢して物乞いに行きます。なぜ我慢できたのかと言うと、父親の墓を見て、そこにいつかまた帰って来れると思っているから。だからサーシャにとって最終的に重要なのは、この世にいない父親ただ一人で、それ以外は極端なことを言うと、どうでもいいんです。父親が死んだことに拠るのでしょうけれど、彼は心が空っぽ。でも、だからこそいろいろなものを平等に受け容れることができるわけです。それはまさにボリシェヴィキに必要な特質だと、作中でも語られます(86頁)。
 ですが、人間だろうが動植物だろうが物だろうが、何でもすべてを平等に受け容れるということは、逆に言えば、何も大切なものがないということになります。わたしたちの日常にも、そういう人っていますよね。他人に関心がない人の方が、むしろ表面上は他人に優しくできる、というような。そういったタイプの究極形の人物として、私はサーシャを捉えています。ああでもない、こうでもないと常にふらふらしているのも、この世に留まり続ける理由を探さなければ、生きていけないからだと思います。なんせ一番大事な父親はもういないのですから。だから探求を続けなければならない。その探求が切実なものであるからこそ、読む者には感じ入るものがあるのでしょうね。

工藤 この作品を読む人は、サーシャ派とプロコーフィ派に分かれるね、と話してましたよね。私とサーシャはすごく近くて、他人ごととは思えないんです。石井さんはプロコーフィ派ですよね。

石井 はい、プロコーフィは好きですね。

工藤 単純なエピソードだけ話すと、サーシャは誰も見てない所で独り言を言う人だと述べられるシーンがありますが、私も歩く時とかブツブツ言うタイプなので(笑)。そういう部分も含めてサーシャに惹かれるところがあります。

沼野 なるほど。サーシャは、黙考する人、そして目撃する人として証人になっている人、プロコーフィは行動する人。なのでお話を聞いていて、お二人はそれぞれそのタイプなのかなと思いました。

石井 実際の作業では工藤さんが活動する人でした(笑)。

工藤 ちょっとねじれてるんだよね。

■「父と子」というテーマ

沼野 サーシャは父親のことをとても愛していますよね。結局、父親に始まり父親に戻って行くというサイクルは、湖から湖へという構造と響き合っています。
 父と子――ロシア文学ではこのテーマは非常に複雑なものがありますよね。すぐに思いつくものでも、トゥルゲーネフが『父と子』(1862)を書いています。これはさほど父親と軋轢があるわけではなく、けっこう仲が良かったりするんですが、世代間の相克は読み取れます。ドストエフスキーに至っては個人的なこともあり、「父殺しの文学」と呼ばれるように、非常に複雑な関係性を描いています。もう一人挙げるとすると、チェーホフは最初から父親を殺しているようなもので、言うなれば「父の不在」です。三者三様の父と息子の関係性がありますよね。ロシア文学にこのような系譜があるとすると、『チェヴェングール』に限ってですがプラトーノフの父親に対するこの敬愛は一体何なのか? 第四のパターンなのか? どう思われますか。

石井 それこそ「ポリフォニー」ですよね。文学用語としての「ポリフォニー」というのは、様々な「声」が融け合わないまま作品に含まれていることを指しますが、『チェヴェングール』での父親の扱いについても、そういう面があると思います。サーシャにとっての「父」は、地上では再会できないけれど、いつかは逢えるかもしれない、永遠の憧れの対象で、それこそ「タスカー」の根源を読み取ることができます。それと対照的な人物として描かれているのがプロコーフィですね。「チェヴェングール」という共産主義の町に居られる条件は、父親がいないことです。父親がいないから一つの家族になれる。父親がいると各家族の単位に分断され、結局、資本主義的な社会が作られてしまうということで、彼は「父親」という存在の排除を強く志向しているのだと思います。

沼野 そうすると父称はどうなりますか?

*編註:ロシア人の名前は3つの部分から成り、例えばプラトーノフの場合、フルネームはアンドレイ・プラトーノヴィチ・プラトーノフという。真ん中の「プラトーノヴィチ」が父称(ótchestvo)と呼ばれるもので、父親の名前から作られる(女性の場合はプラトーノヴナとなる)。父の名がプラトーンであることがここから分かる。

石井 プロコーフィには実際は父親がいるので、書類上は父称(オーチェストヴァ)があるわけですが、作中での描かれ方に違いがあると思えます。登場人物たちが本当は何を考えているかはわからないとしても、作中で父称をつけて呼ばれる人と、そうではない人がいます。例えばザハール・パーヴロヴィチというサーシャの育ての父親は、原文でもずっとザハール・パーヴロヴィチという「名前プラス父称」の形で呼ばれます。代名詞にも置き換えられず、くどいくらいに名前と父称が出てきます。読んだ方の中には「ぎこちない訳文だ」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これはそういうものだと受け容れていただくしかありません。この父称のしつこさは、おそらく父親との繫がりを持っている人を表わしているんじゃないかと思うんです。逆にチェヴェングールの町にいる人たちは、あまり父称付きで呼ばれません。ヤーコフ・ティティチという老人がいて、この「ティティチ」は父称だと思いますが、彼は「その他の人びと」の中でも特殊な立ち位置にいる人物で、ある種例外的なキャラクターです。
 要するに父親がいるということは、何かしら自分の所属先があるというイメージになるので、だからこそそれを取り払った、あるいはそういうものを得られなかったという共通点において、皆で連帯しようという町がチェヴェングールなんだと思います。つまり、この世界から見捨てられた人たちだけで新しい世界を作るということなんだと思います。父称は、思想的にはチェヴェングールの町から排除される運命にあるのかな、と、沼野先生のご指摘をいただいて思いました。

*補足(石井):さらに言うと、プロコーフィは子供の頃から「家族の父親になりたい」という願いを抱いていた節があります(40頁など)。彼にとっては家族のために頑張ることこそが生きがいで、だからこそ自分以外の人間が父親たり得ない大きな家族を欲していたようにも見えます。なので、プロコーフィがチェヴェングールの町から「父」を排除したい理由は、例えば、父親の欠如による連帯を望むチェプールヌイなどとはすこし異なっているように思われます。チェヴェングールに住む人びとは一人ひとり違う考えを持っていて、思想的にまったく一枚岩ではない。そのことは、作品を読む上で押さえておくべきポイントの一つになると思います。

工藤 父の問題に関して、プラトーノフは、ニコライ・フョードロフという思想家の影響を受けていると言われます。フョードロフは、ロシア宇宙主義(コスミズム)という思想的潮流の草分けとされる人で、人類は父祖の復活という共同の事業に取り組み、宇宙に進出しなければならないと述べました。彼の思想においてもやはり母でなく父と子の繋がりが重視されており、その影響を見ることもできるかと思います。

■言葉から見えてくるもの

沼野 ありがとうございます。素晴らしいお答えをいただきました。
 では次に言葉の問題に議論を移したいと思います。『チェヴェングール』というタイトルについて。これはこの世に存在しない架空のユートピアの名前です。まずは説明をお願いできますか。

工藤 「チェヴェングール」というのは地名として出てきますが、まったくの造語です。語源についてはいろいろな解釈がありますが、私が一番気に入っているバリエーションは次のようなものです。「チェヴェン」はロシア語で「永遠の」を意味するvechenのアナグラムというもの。また、「グール」については作中でも触れられていますが、「ざわめき」「どよめき」を表わす単語に近い響きがあります。それを組み合わせた単語ではないかという説が魅力的だと思っています。

沼野 その「永遠のざわめき」というモチーフはとても素敵なので、その説を支持したいと思いますが、「ざわめき」を表す「グール(gul)」はLの発音ですが、チェヴェングール(Chevengur)の「グール」はRですね。この違いについてはいかがですか。

工藤 本文中に、サーシャがチェヴェングールという地名を聞いて、グール(gul)を想起するシーン(266頁)があり、そこはそんなものかとわりとすんなり考えました。

沼野 なるほど。そして主人公の苗字はドヴァーノフ(Dvanov)です。「ドヴァー(dva)」は「2」を表わしますが、これについてはいかがですか。

工藤 「あとがき」では触れていませんが、これに関して指摘したいのは、作品の中で印象的に出てくる「魂の宦官」という形象です。ドヴァーノフの中に「魂の宦官」という別の人格がいるという文章があります(149頁)。一つの考え方としては、そのように自分の中にもう一人、別の人格があるという意味合いを含んでいるのではないかと思うのですが、石井さんはいかがですか?

石井 私は以前、工藤さんからその解釈を聞いて「なるほど」と思いました。

沼野 サーシャとプロコーフィ、それから後半にサーシャとシモンが出てきます。シモンはわりと知的な人物です。ソフィアを介して、チェヴェングールで会うまでは会ったことがない。そういった、二人ずつの分身関係とまでは言えないかもしれませんが、その関係性についてはいかがですか。

工藤 基本的にはしっかり対比させていないようですね。

石井 サーシャとプロコーフィは明確な対比関係にありますけど、セルビノフはどうなんでしょうね。シモン・セルビノフはインテリですが、私としては、どちらかと言うと「その他の人びと」にメンタリティが近いのではないかと思っています。彼は普通に社会生活を営んでいて、インテリで、ちゃんとした仕事をしているので、端から見れば「何が不満なの?」という感じですが、彼自身の心中は違っていて、「社会に居場所がない」などと「その他の人びと」に似たようなことを考えている。セルビノフはインテリですから、自分の考えを文章化して表現できるので、寄る辺なきの人びとの代弁者的役割が認められるのではないか、と思います。

工藤 セルビノフが日記に書きつける呪詛のような言葉がありますが(529頁)、そこに見られるのが、自分もインテリでありながらインテリに対する憎悪であったり、自分を受け容れてくれない仲間たちへの憎しみなどの言葉です。今のSNSを見るような気持ちがしないでもありません。

石井 若干ネタバレになってしまいますが、セルビノフの根本的な「タスカー」は母親との関係であったり、いわゆるホモソーシャルの中に入れないことであったり、いずれも女性に関係しているものです。女性を獲得して社会の一員となることがどうも果たせないらしい、ということが彼の根本にある心理的問題です。「その他の人びと」も同じような問題を抱えていて、「好きに暮らしていい」と言われてチェヴェングールに来るわけですが、「女はどこだ? 嫁をとりたい」と言い出す。プロコーフィは、「そんなことを言い出したらブルジョワの世界へ逆戻りじゃないか、なぜ家族なんて作るんだ」とたしなめようとするわけですが、人びとは「女がいないと人間にはなれない」と譲らず、プロコーフィは仕方なしに「嫁」としての女性をリクルートしてくることになります(479頁)。これは性欲も一因でしょうが、結局、既存の社会的価値観にしがみつかなければ生きていけないという意識を、社会から排除された人びとも持っているので、完全に新しい社会を作ることは難しい、ということだと思います。そして、そういったことがセルビノフを通して描かれているのだと思います。だいぶ外れましたが、それがサーシャと対なのかな? もう少し深く考えてみないとわからないです。

■作中に登場する「日本人」

沼野 ありがとうございました。次に、チェプールヌイという人物は「日本人」と言われていますが、彼についての見解はいかがですか。

工藤 「日本人」という表現をめぐっては、バージョンによって微妙に差異があります。『チェヴェングール』にはいくつか異版があって、私たちが依拠した版には含まれていない文章が、2021年に出た版に含まれていたりということがあります。「日本人」という表現に関してもそうで、2021年版には「日本人的な貧弱な鼻」という表現が見られますが、これは私たちが依拠した版には含まれない表現です。これを見ると、まずは平板な顔の表現としての「日本人的」という形容とも考えられますが、その他にも研究者のあいだで様々な見解があります。
 例えば、ロシアの宗教的セクトで古儀式派と呼ばれる人たちがいます。彼らはある種のユートピア的思想を持っていて、それによれば東へ東へと向かったところにユートピアがあるといいます。そのユートピアとはすなわち日本のことであると考えられて、実際に日本にまでたどり着いた信者もいたそうです。そうした宗教的ユートピア思想に由来する表現ではないかという説もあります。石井さんも意見をお持ちですよね。

石井 これからお話しすることは、研究者としての知見でもなく、私の個人的な思いつきです。しかも、プラトーノフとは直接関係のない話なんですが。私が東大でお世話になった先生の中に、ロシア文学研究の安岡治子先生という方がいらっしゃいます。ちなみに、私がプラトーノフの名前を初めて知ったのは、安岡先生の授業でのことでした。その安岡先生は、同時代のロシア語作家たちとの交流も多く持っており、その中にヴァレンチン・ラスプーチンという作家がいました。ところで、ラスプーチンのとある作品に突然「イポーンカ」という日本人女性を表わす単語が出てきたそうです。チェプールヌイも「イポーニェツ」、日本人の男性と表現されていましたね。ラスプーチンの作品の方では、脈絡もなく「イポーンカ」という単語が出てきたので、安岡先生がラスプーチン自身に「どういうことか」と尋ねたそうですが、ラスプーチンは言葉を濁して、はっきりとは答えてくれなかったそうです。その理由は、安岡先生の推測によれば、「イポーンカ」、「イポーニェツ」の「イポ」という部分が、ロシア語の非常に下品な罵倒語の発音に近いからではないか、ということでした。つまり、罵倒語の婉曲表現として使われたのではないかと、ラスプーチンの作品について安岡先生は推測されていたわけです。チェプールヌイが「日本人」と呼ばれている描写を読んだ時に、私の頭にそのことがよぎりました。正確なところはわかりません。ただ、当たり前ですけれど、少なくともチェプールヌイ自身は、日本人と呼ばれるのをありがたがってはいないと書かれていますね。

工藤 チェプールヌイについては、全篇を通じてアジア的というイメージが付されていますよね。

石井 アジア人に関しては、野蛮だというイメージが当然ベースにあるのだろうと思います。

沼野 非常に多義的な象徴が込められているのではないかと思います。一つには工藤さんが話されたように、黄金の国ジパング伝説があり、そこに到達するユートピア思想との関連性もあると思いますし、一方で、石井さんが話されたように、アジア人差別もあると思います。ロシア文学の系譜的に言えば、東か西かというモチーフの重要性は、父と子というモチーフと並ぶかそれ以上かもしれない大きなテーマでもあります。ですからこれについてはもっと様々な解釈もできそうですね。
 その続きで、「神(bog)」という人物も出てきます。「神様」と呼ばれている人ということですが、「神が歩いている」と表現されると、言語上は本当に神様がいるように思えてしまう。それと同じことが『土台穴』にもありますよね。『土台穴』に熊が出てきます。これは非常に不思議で、熊がトンカチ、トンカチやっているわけです。本当に熊が鍛冶仕事をやっているのか、「熊」と呼ばれる人がやっているのか。台詞がないので本当に熊かもしれない。そういうところがわざと曖昧にしてあると思うんです。このような多義的な部分が、最初にお話したようにこの小説全体の曖昧さを助長していると思います。なんかまとめてしまいましたね(笑)。

工藤 大学の授業のように聞き入ってしまいました(笑)。

■ひらかれたままの解釈

沼野 「タスカー」について少し補足しますと、日本では二葉亭四迷が、ゴーリキーの短篇小説を最初に「ふさぎの虫」と訳したという歴史があります。あまりにも上手く訳したので、しばらくはそれを多くの訳者が踏襲していました。もちろん現代は「ふさぎの虫」と訳す人はいないでしょう。様々な工夫がされていると思いますが、お二人はどのように訳されましたか。

石井 明らかに「タスカー」がキーワードであることは、1周目の訳を作っていた時に気づきました。先行研究をしっかりチェックしておけば、すぐに気付いたのでしょうけれど。ともかく工藤さんと、これは訳語を統一しなければならないね、と話し合いました。日本語には訳しにくい単語なので、普通の翻訳の仕方であれば、その場その場で適切な訳語を選び、それぞれの文脈に合う綺麗な単語を置いた方がいいのでしょう。でも、「タスカー」がキーワードとして何度も使われていることが読者に伝わらないと失敗だろうと考えたわけです。普通には関係ないと思われるようなもの同士が、「タスカー」という単語、あるいはその派生語によって関連づけられていたりするので、その関連性を読者が追えないのはマズいのです。それで、「タスカー」の訳語を統一することにしました。しかし、当然困ったわけです。結局、最終的には「虚しさ」という単語を使いました。先ほどもお話ししましたが、要するに「何かが足りない」ということがこの小説において重要なことです。足りない、空っぽであるからこそ、という話がたくさん出てきます。それで今回は「虚しさ」という単語でほぼ統一したわけですが、欠点もあります。「タスカー」には、もう少し情熱的なものがなくはないのです。虚しくてぼーっとしている感じというよりは、もう少し熱さがある。場合によっては、手の届かないものに対する想いということで、「憧れ」と訳してもいい場面もありますし、「恋しい」という訳語を使える場面もありました。ですが、この本のためにあえて統一した訳語を作りました。

沼野 そうですね、「タスカー」は何かに対する憧れという意味でも使いますよね。タスカーは名詞ですが、「タスカヴァーチ(toskovát’)」という動詞もあります。名詞のタスカーの後ろに前置詞「パ(po)」を付けて、例えば「タスカー・パ・ロージニェ(toská po ródine)」と言うと、ロージナが「故郷」という意味なので「郷愁」、「故郷へのなつかしさ」という意味にもなります。そのように、単に空っぽではなく確かにアクティヴな面もあります。だから本当に大変でしたね。

石井・工藤 大変でした!

工藤 タスカーに限らず、プラトーノフの難しさの一つは、言葉や文章の最終的な解釈がひらかれたままであることが非常に多いことです。単語の意味を追っていくと、まず一つの案としてはこうなる、でも辞書を見ると違う意味もあり、どうやらその意味も含まれていそうだ、どちらの意味に取ってもいけるだろうけれど、プラトーノフとしてはどのような意図なのだろう?……と、文意を故意に確定しきれないようにしていると感じる部分が多くあり、その点も翻訳する際に非常に難しかったです。

【鼎談#3】に続く
*これまでの記事コチラ→【鼎談#1】