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【対談#2】藤田直哉×杉田俊介 『すずめの戸締り』とはなんなのか?――徹底討論

*注意:この記事にはネタバレが含まれています

気鋭の批評家二人が、初期作から最新作まで、政治・社会的なテーマをも織り込んで、その魅力について徹底討論。その模様を2回に分けてお伝えしていきます。

*前回までの記事はコチラ→【対談1】

■鬱屈のラディカリズム

杉田 ところで、オタクの鬱屈を浄化して美しい過去のロマンを捨て去る、自らの鬱屈を「戸締まり」して自力で自己肯定できるように成熟する、という場合に、そもそも、『秒速5センチメートル』的な鬱屈のラディカリズムは『すずめの戸締まり』の世界の中にも受け継がれているんでしょうか。継承を経て乗り越えられているのか、それともたんにそうした要素は排除されているのか、そこがちょっとよくわかりませんでした。

藤田 鬱屈のラディカリズムについては、どうなんでしょうね、別に受け継ぐ必要があるものなのかな。自然と解消されたのならそれでいいでしょうし。『星を追う子ども』で、その断念のプロセスが描かれていたように、意識的な努力で放棄したのかもしれませんし。

杉田 何かを簡単に乗り越えたり戸締まりしたり、というのは錯覚かもしれないですよ。フェミニティやシスターフッドの主題が前面化してきたことの裏返しとも言えるのか、よく言われるように、『すずめの戸締まり』には男性性の衰弱や零落という問題がありますね。草太は脚が一本欠けた椅子になる。これは去勢され、疎外された男性性のメタファーと言える。実際に少なくとも草太は孤独な男性です。冷たい孤独の中に沈んだイケメン青年。

藤田 彼は「オタク」的な存在ですよね。本に囲まれているし。そして、強い男性ではない、弱さを持っていますよね。いつも鈴芽に助けられてばかりだし。

杉田 オタクなのかな。『秒速5センチメートル』の貴樹とは随分違う気もする。つまり草太は、孤独だけど、鬱屈はしていない。喪った女性を求め続ける、喪失したからこそ欲望が高まっていく、鬱になるほどに彼方を渇仰する、というロマン的情熱を草太が感じているとは思えない。確かに去勢された男性性を象徴するけど、貴樹的なインセルラディカルの魂が継承されているかというと……微妙な気がします。そうすると、『秒速』と『すずめ』の間には、乗り越えというより、排除やスルーがあるのではないか。

藤田 貴樹は幼い頃に女の子と絶対的な瞬間を経験し、大人になり会社員になってそれなりに社会的には良いところに行っているんだけれど、なにか失われていると感じる。その失われた何かが絶対化して感じられる。故郷、自然、あるいは無邪気だった時代、それらすべての象徴として女の子がいるわけですよね。女の子とキスした瞬間、それは絶対的な完璧な瞬間で、もう二度と手に入らない人生のピークとしての過去です。そのような「失われた過去」への執着を断念するという話なんだと監督は仰っているので、『すずめの戸締まり』と、同じなのではないですか。そもそも、その渇仰そのものが、すごくどうでもいいバカバカしいものでしかなかった、と気づく瞬間があってもおかしくないですしね。
 『星を追う子ども』では、主人公の一人の森崎竜司は妻を蘇らせたくて死の世界に行くわけですが、その死の世界は古き良きアジアのような世界でした。西洋が入ってきたために戦争や争いが入ってしまったという設定になっていますが、それはよくある「アメリカ」「西洋」の影響を受ける前の日本を浪漫化し理想世界みたいに思うことの象徴ですよね。妻を蘇らせるということは、その理想世界を蘇らせようとすることとも重なっていて、そのために現在生きている子どもを犠牲にするのを断念させる話ですよね。。

杉田 そこは僕は違うように感じるんですよ。『秒速』と『星を追う子ども』については、断念はし切れていない。だからラディカルな暗鬱さが作品全体を染めていくわけで。『すずめの戸締まり』の最後に、鈴芽が、「お母さんの承認がなくても私は自分で自分を肯定して生きていけるわ」云々と言いますね。ああした力強く明るい「断念」は、『秒速』や『星を追う子ども』には未だなかったんじゃないかな。
 『星を追う子ども』について言えば、あの作品は完全にジェネリック・ジブリのようなゾンビ的な映画ですが、その後、震災経験を経て「魂」が入って『すずめの戸締まり』として「生き返った」とも言えないことはない。ムスカ大佐っぽい森崎先生は、妻のいない世界の無意味さに耐えられず、他人を犠牲にしても妻を甦らせたい。確かに『エヴァ』のゲンドウそのものです。しかしこの作品でいちばんのゾンビは、やっぱり主人公のアスナであり、何がしたいのか、何が根本の欲望なのか、最初から最後までさっぱりわかりません。色々な人から「何がしたいの?」と尋ねられ、それに答えられず、ついには「私は淋しかっただけなんだ」と自分でツッコミを入れる。驚くほどの空虚さに思える。
 『秒速』で一つの極点へ行って、その先の作品を作ろうと努力して、そのために「父」としての宮崎駿の世界観をリミックスして、でも自分の中には「本当の欲望」なんてものは何もなくて、ついには「淋しかっただけ」と告白して、最後まで死体に魂を入れられない。森崎先生の「殺せ、殺してくれ」という叫びは、当時の新海監督の正直な気持ちだったのでしょう。ただ、自分の敗北をちゃんと認めてはいますね。その点では偉大な敗北とも言える。そのような絶対的な喪失感=無意味さを抱えて生きること、それが人に与えられた「呪い」であると同時に「祝福」なんだと……。

藤田 そういうことですよね。まぁ、言ってしまえば、ラカン的な認識ですよね(笑)。人間には常に欠如や空虚があって、幻想が生じて、そこに向かって駆りたてられるが、永遠に満足することはできない。それを受容する、というか。

■2007年3月――『秒速5センチメートル』公開とロスジェネ世代

杉田 その点でたとえば、『秒速5センチメートル』は、非モテやオタクたちの聖典であると同時に、ロスジェネ映画でもある点には注意が必要だと思いました。実際に第3話の貴樹は、荒廃した労働生活とメンタルの病と失業状態の中に落ち込んでいます。それはもちろん失恋の問題なんだけど、同時に、労働と生活の貧困の問題でもある。
 不思議な符号ですが、ロスジェネ運動を代表する雨宮処凜氏の著作『生きさせろ!』の刊行は、『秒速』公開と全く同じ2007年3月だったんですよね。そして翌2008年には雑誌「ロスジェネ」が創刊され、また加藤智大による秋葉原無差別殺傷事件が起こった。
 ちなみに貴樹の年齢は、秋葉原殺傷事件の犯人・加藤智大と同じか一歳違いのようです。貴樹が欲望を断念して、鬱屈ときれいに訣別できたとはとても思えません。桜の舞い散る中で踏切を振り返ると、彼女はそもそもいなかった、という第3話の有名なラストシーンのあとの鬱屈した貴樹が、ダガーナイフを手に自爆的な暴力犯罪に手を染めたとすれば――そのような可能性を想像してみることには、それほどの違和感はないのではないでしょうか。ちなみにラストの春のシーンは2008年3月のことで、秋葉原事件が起こったのはあのシーンから約3ヶ月後、2007年6月8日のことです。
 情報資本主義の疎外された都市労働者として心がすり減っていくくらいなら、真に暗鬱なリアルなセカイに目覚めたい――という貴樹のオタク的でロスジェネ的な欲望は、『マトリックス』(1997)のネオの欲望にも似ています。ネオが過酷な真実=セカイに目覚めるためにレッドピルを飲んだように、貴樹はいわばインセルの「ブラックピル」を飲んだのではないか。第1話と第2話は、もしかしたら大人になった貴樹が遡行的に捏造した幻想であり、妄想なのかもしれない。クラスでハブられたぼっち少年が、誰にも見せずケータイに書き込んだ妄想の物語の類いかもしれない。つまり第3話の状況こそが彼のリアルであり、崩壊した精神が過去を勝手に捏造して美化して、存在しない少女たちを幻想させたのではないか。
 いいかえれば、資本主義で擦り切れたロスジェネ的な疎外された感覚が、いわばラカンの現実界のように、こんなひどい現実を生きるくらいならもっと鬱的でずっと酷い「現実それ自体」に逃避したい、明るく楽しい未来ではなく鬱的で地獄のようなザ・リアルに目覚めたい、という幻想を抱いているのではないか。貴樹的な鬱屈がそんな簡単に癒され、断念され、自己肯定されるとは僕には思えません。

藤田 僕は『秒速』の貴樹がインセルに悪堕ちするとは到底思えないですね。ある意味で、そのような暗い情動こそが、ミミズなのだと考えてみてもいいのかもしれませんね。それを浄化する映画だと『すずめの戸締まり』を考えてみてもいいのでは。
 ところで、『すずめ』にも「アガルタ」という名称が出てきます。それは『ほしのこえ』(2002)で目指していた宇宙の星の名前です。さらに『星を追う子ども』も地下世界が「アガルタ」で、今回で三回目の登場です。鈴芽が実家の庭で掘り出した缶にその名が書いてあります。

杉田 『秒速』の第2話「コスモナウト」のあの美しく崇高な世界もまた常世でありアガルタだったのか、と新海ファンがかなりザワついていましたね。そうなると、『秒速』という作品の解釈自体が変わらざるをえませんから。

藤田 「アガルタ」=憧れの理想世界を。重ねて描いているのには当然意味があるはずです。話が戻りますが、ロスジェネ文学的だというのは、僕もそう思いました。新海誠はロスジェネ的な問題意識をずっと引きずっている人で、『秒速』もそうですし、新海誠自身のプロフィール的にもそうです。建設会社社長の息子として生まれ、有名なゲーム会社に入社し成功していたわけですが、「なんかこれは違う」と思って会社を辞め、非正規雇用になりながら、『ほしのこえ』を作った。要するに降りてしまっているわけです。なにか現代の労働環境、世界に対する違和感から作品を作っていることは間違いない。
 彼はSF少年だったらしく、宇宙飛行士になりたかったそうです。1995年以前の日本にあった、未来は拡大していくという感覚を持っている人で、そのようなものを描くフィクションが好きだったわけです。しかし現実はそうではなかった。そのことの痛みを、メタファーの形で構造化しているのだと解釈することが可能です。あり得たはずの現実、あり得たはずの未来、二作目ではそれは並行世界として予言されています。それをどう断念していくか、という問題意識を持っている。九五年以降の過酷な新自由主義の世界に放り込まれた孤独な主体が、理想や予想と違う現実とどう和解していくか、その模索をずっと繰り返し、ようやく今年ひと段落したというのが僕の認識です。

■やはり「断念」して「戸締まり」してよかったのか?

杉田 何度もこの点にこだわってしまいますが、やはり「断念」して「戸締まり」してよかったのか、という気持ちはあるんですよ。『秒速』のインセルラディカル的な鬱屈から、ついにインセルウルトラライトに跳躍してしまった。天皇的なものを媒介にして日本の国土と未来の全肯定へと進んだ。断念と跳躍は、じつは相補的なものではないか。断念して成熟して、跳躍して、肯定的な世界観を持った大人になる。あとはもう、自分を自分で肯定して生きられる。そういう場所へ行きつく。それでいいんだろうかと。
 僕の個人的なイメージでいえば、インセル左派とは、現実と理想の間の分裂や鬱屈、つまりは理想の彼方にどうしても「届かない」というある種のメランコリーを抱えたまま、それをヘーゲル主義のように最終的に和解させるのではなく、まさにその分裂や屈折のエネルギーを社会変革の方へと注ぎ込んでいく、という態度のことです。
 貴樹的な鬱屈を草太は最初から持っていない。草太は孤独だけれど、自己充足している。鈴芽も母の喪失感はあるけど、やっぱり自立して自己充足しうる女性です。作中では二重の母殺しが描かれました。自分を生んだ血縁の母親と、育ての母としての叔母の環。この二人の母を、鈴芽は象徴的に二度殺す。もう母的なものの承認や肯定がなくても私は生きていけるんだと。
 これはたとえば、細田守の『竜とそばかずの姫』(2021)や庵野秀明の『シン・エヴァンゲリオン』などが、あくまでも母性の力に支えられて初めてフェミニティを描けていることに比べると、一歩前進であるようには見えます。鈴芽は「母性なき女帝」であり、そうした女性像を描けたことの意味は特に日本のアニメーションでは大きいのかもしれない。日本では、たとえば平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の系譜に連綿と流れるようなスピリチュアルな母性の重力が非常に強く、フェミニズムやシスターフッドもそこからなかなか無縁ではいられない。『すずめの戸締まり』ではそれをはっきりと断ち切った。そこには意味がある。
 新海監督は『すずめの戸締まり』は鈴芽と草太の異性愛の物語ではない、と言っていますが、正直どちらにも取れますよね。恋愛物語にもバディ的な友愛ものにも見える。腐女子的な感性によって、草太と芹澤朋也の関係を重視する人々もいますが……。でも『すずめの戸締まり』の世界には、貴樹的なものははっきりとは描かれていないんじゃないか。つまり「断念」ではなく「断絶」があるのではないか。
 『すずめの戸締まり』の中に貴樹的なものが残っているとしたら、たぶんダイジンでしょう。つまり『秒速』的なラディカルインセルの魂は、『すずめ』ではダイジンという虐待される猫、親にネグレクトされる水子的な表象へと零落し、人間≒日本人たちの明るい社会の秩序を守るために、ノンヒューマンな犠牲の山羊として埋葬された……と。

藤田 理想と現実の問題はとても重要だと思います。しかし、インセル左派にも問題はあると思います。理想と現実のギャップ、理想に届かないということで、自己や現実を責めれば自己否定感と鬱が高まり、「メランコリー」にもなりますよね。そして、社会変革も、決して届かない理想の観点から現実を攻撃するという特権的な立場を手に入れることになり、それは現実の実践を滅入らせて具体的な改革を停滞させる可能性もあるわけです。「批判」が嫌われているのも、このことと関係があると思います。つまり、「理想」が説得力を持ち機能するのは、社会や世界が「いずれは良くなっていく」という前提があるときなんです。しかし、今は「絶滅」に向かって悪くなっていく世界を、少しでもなんとかせざるを得ない状況なので、それはむしろ現実を悪くする効果を齎しかねないのですよ。教育虐待みたいなもので、「理想」の観点からシバかれ続けることで、自己否定感とネガティヴさと絶望感を皆が持てば、必要なアクションを諦めるようになり、結果として世界が助からなくなるかもしれないわけです。
 いわゆる弱者男性やインセルの人たちを見ていると、理想と現実のギャップに苦しみまくっていますよね。彼らは理想と比較して自分を常に責め苛んでいて非常に辛そうに見えます。バリバリ競争社会で勝って、家父長になってとか。若い処女じゃないと結婚しない、とか。そんな贅沢言ってないで、努力して自分の市場価値に見合った相手と幸せな家庭を築けば少しは不幸や孤独も和らぐのに、そういう現実的な努力はしないわけですよね。
 つまり理想と現実のギャップを埋められないわけです。年収1500万円の生活水準で生きられると思っていた中流家庭の子どもが、派遣で年収150万円の世界になってしまうと、ギャップの苦しさに現実受容ができなくなってしまうのはよく分かります。没落した中流がファシズムの担い手になるというのもよく分かります。まず悪いのは社会や政治で、そこは怒るべきなんですが、しかし、それでもどうにもならないギャップというものはありますよね。東浩紀は「オタク系作品の特徴」「現実の政治的葛藤や社会問題をできるだけ無化するように作られていることにあります」と言っていますが、1995年以降の没落して荒んでいく社会の中で、そのようなオタクコンテンツがそれを慰撫する機能を持っていた。しかし、コンテンツの世界に逃げ続けてきた結果、両者のギャップがとんでもなくなって破綻してしまう、それが現代社会で起きている大きな問題と思うんです。

杉田 なるほど。理想を断念して、ある種のプラグマティックな改良主義がいい、ということかな。しかし僕はやっぱり、インセルや弱者男性の中にも色々なせめぎ合いがあり、ポリフォニックな敵対性があると考えたいんですね。まずはそこを見たい。つまり、「アンチフェミ」とか「処女厨」だけが全てではない。そこにも何らかのポテンシャルがある。
 藤田さんの『シン・エヴァンゲリオン論』や『新海誠論』を読む限り、オタクが現実と理想のギャップに苦しんでいるとして、やはりそれをつねに「和解」させようとしていますよね。現実原則に昇華して、成熟を経て、地に足の着いたオタクになりましょうよ、という啓蒙的なオタク成熟論です。正直に言えば、それは時々勝ち組オタク論であり、ある種のネオリベ的なオタク論にも見える。
 とはいえ他方では、先ほどの『現代思想』12月号の論考などを読むと、藤田さんはロスジェネとオタクの交差する場所を見極めつつ、弱者性や無能さのオルタナティヴな可能性を引き出そうとしているようにも見える。その辺りは、やはり藤田さんの中にも揺らぎがあるのでしょうか。弱者男性的な人々が日本的自然、縄文的・神道的なものに根差そうとすることは、一方ではスピリチュアルな美的全体性に向かう危うさもあるんだけど、他方ではそれらを啓蒙的に成熟した精神によって社会化していけば、うまく善用できるはず、ということなのでしょうか。
 その辺をもうちょっと聞いてみたいです。

■下からのクールジャパン

藤田 そこは、ちょうど悩んでいるところです。『シン・エヴァンゲリオン論』 『新海誠論』では、オタク的な成熟が大事で、それで自他が幸福な状態になればいいね、と願いながら書きました。しかし、そのメッセージは、就職氷河期等で酷い目に遭った人たちの抵抗や社会改革の意欲を封じ込めてしまう新自由主義者の手先にもなってしまうわけです。笠井潔さんが仰るように、それは僕が「オタク勝ち組」だからだろう、と言われると、なかなか返答に困るわけです。
 しかし、とはいえ、SNSなどを見ていると目立つのは、「親ガチャ」などの運命論とか、努力を否定し一発逆転を目指す「チート」やら「論破」やら、なわけですよね。社会構造としての新自由主義や、過度な能力主義や自己責任論に問題があることは確かなんですが、しかし、諦めて何もしないでいくことで望みのものが得られることはないというのも、厳然たる人生の事実ではあるわけで、社会の問題は問題として、私的なレベルでは、努力したり勉強したり現実を見たりということもした方が、幸福になれると思うんですよね。
 もちろん、本当に貧困だったり、障害があったり、過酷な体験などによって「出来ない」という弱者の場合であれば、それは酷な意見だと思います。しかし、そうではない、ちょっと頑張れば出来る人たちが膨大にいて「弱者男性」などと思いこんでいるように見えるので、大多数の人々に届くメッセージとしては、単純に弱者性や無能性を肯定することも誤解を与えかねないとも思うんです。
 構造的問題の部分も大きいので、彼らを救済するように、「勝ち組」や権力者が動かなくてはならないし、世論も変わっていかなければいけないし、そうなれば心理的にもマシになってくるはずだと思うんですけどね。この辺りは僕の中でまだ整理がついていないところです。

杉田 もちろんその辺りは僕も他人事ではありません。たとえば『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』の議論も、二段構えになっています。一方では、中年の冴えない負け組のオジサンたちが、漫画『1日外出録ハンチョウ』やサンエックスの「すみっコぐらし」シリーズのように、ある種の相互扶助的な支え合いの空間を作り、無能さや無力さを含めて、お互いに承認や肯定性を与えて共生するべきだ、と考える。
 しかし他面では、二段階目として、どこかから社会変革の欲望や意志を調達して社会を変えていかなければならない。すみっコ的な相互扶助の空間を作るだけでは、やがてネオリベ的なものに負けるか(「ちいかわ」的な過酷な世界になるか)、あるいは京都アニメーション放火事件のような暴力性の噴出を招くことになる。そこは一段階目と二段階目を行ったり来たり往復しながら試行錯誤していくしかないよね、というのが現時点での僕のイメージです。インセル左派とインセルラディカルの間を行ったり来たりして、鬱屈さを抱えたまま社会変革のことも考える、という感じでしょうか。
 ちょっと話がズレるんですが、『すずめの戸締まり』のと同じ日に、『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が公開されました。『すずめの戸締まり』がほとんどのシネコン系映画館の枠を取ってしまったので、文化的多様性を毀損していないか、という問題にもなりました。それはともかく、この二つの作品を並べてみると、「日本とアメリカ」というのも大変に「雑」な言い方なのですが、その文化的土壌の違いがやはりあらためて気になりました。今はあえて「雑」に、対立的に語らねばならない、とすら思いました。
 『ワカンダ・フォーエバー』には、建国の理念や民主主義、社会運動が根付いている社会の強さがあり、それらに対する緊張感が明らかにサブカルチャーの中にも強くある。社会運動の最先端の課題に対して文化的なものがどう応答するか、それをどう受け止めるか、そうした緊張関係ががっちりと組み合っている文化の強さを感じました。
 これが日本の場合、新海監督がいかに社会性や政治性を導入するために苦闘しているとしても、どうにもぐずぐずで曖昧化していく感じがあります。先ほどの母性の切断と女性的主体の話とも関わりますが、シスターフッドを描こうとしてもディズニーやマーベルのようにはならない。どこかに異性愛や保守的なものの尻尾をしつこく残してしまう。近代化を通過した先でシスターフッドや交差性が求められるべきなのに、プレモダン的なぐずぐずさが泥沼のように付きまとう。擦り切れた言い方ですけれど、これがまさに、「あいまいな日本の私」の困難であり、ポストモダンとプレモダンが曖昧に癒着している文化風土の厄介さなのか、と正直感じています。
 それならば、日本もちゃんと近代化して成熟して、マーベルやディズニーなどのグローバルスタンダードに「追いつく」べきなのかと言えば、そういうことでもないだろう。たとえば細田守は『竜とそばかすの姫』で、日本アニメの伝統とディズニー的なものを融合させ揚棄しようとしたけど、最後は結局、母性的なものの泥沼の中にぐずぐずに溶けていった。そうした近代化の捩れというか悪場所的なものの泥沼の中で何とかやっていくしかないのだろう、とも思いました。
 それでいえばインディーズ系のアニメーション(自分にとっての小宇宙を自分に固有の表現で制作していくような個人制作的アニメーション)を重視している評論家の土居伸彰さんが、『すずめの戸締まり』をポジティヴに評価していたのが不思議でした。土居氏の『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』を読む限り、明らかに近年の『君の名は。』『天気の子』には批判的であるように思えた。
 新海誠は自宅のパソコンで一人でアニメを作るという個人主義的な作家だったわけです。しかしそこには、日本のアニメの独特の捩れがたぶんあって、つまり大作映画性と個人映画性、工場的分業体制とインディーズ性が高度に融合されている。それは宮崎駿や高畑勲にも、庵野秀明や細田守にもある程度言えることでしょう。土居さんは新海誠の中に孕まれたそうした捻れや両義性を評価しているのかなと。そうした意味での文化的な蓄積をも有効活用して、文化的作品を社会的で政治的な、ポリティカルな方向へと開いていく道をあいかわらず考えていくしかないのだろうな、とあらためて感じたわけです。「近代の超克」とか「世界史の哲学」のような課題が依然として呪いのように張り付いている。
 日本は近代化にあたって下からの市民革命が起こせず、非近代的な天皇の存在を組み込んだまま近代化の道を試行錯誤してこざるをえなかった。それは立憲君主制ですらありません。天皇という人権を持たない存在が中心にいるわけだから。
 では日本の歴史的条件のもとでどうすればいいのか。たとえば「消費デモクラシー」という言葉があるそうですが、戦後日本の消費者やオタクたちがコツコツと積み上げてきたカルチャーの蓄積や堆積層に根差しながら、マイノリティやオタクや弱者男性たちもまた幸福に平等に生きていけるようなデモクラシー、有象無象のデモクラシーを展望できないだろうか。そのためには、国家や資本が主導する「上」からのクールジャパンではなく、「下」からのクールジャパンがあらためて必要なのではないか。そのような可能性を考える上でも、藤田さんの最近の仕事は極めて重要です。

■災害ナショナリズムと災害インターナショナリズム

藤田 災害ナショナリズム批判の話に戻りますが、『すずめの戸締まり』には確かに災害ナショナリズムが見えます。『星を追う子ども』で『古事記』を扱いましたよね。『古事記』は日本の建国神話として使われた歴史がありますが――戦前は文字通りの「歴史」として教えていたようですが――、新海誠は、同じ「構造」が全世界にあることを重視していました。死者の世界に赴き誰かを蘇らせようとして、地上に上がる途中で振り返ると怖いものがあって逃げ帰るという構造です。つまり、過去を振り返って何かを蘇らせようとしてはいけないことを教える寓話ですよね。この手の神話は世界中にあるんです。ユングの「集合的無意識」というよりは、比較神話学的な話だと思いますけれど。新海誠は、そこで連帯できる、世界に通じるということを重視していたようなのですね。
 新海誠は、中東を経てロンドンでの留学中にこの構想を考えたようです。海外に行くとナショナリストになるパターンにも見えますが、そうではなく、ある地域固有のものが「構造」によって世界的、普遍的なものに繋がる、そのことを強く認識し、意識して作っているのは間違いないと思います。世界的に受容されている作家なので、今回の作品でもそこを意識しなかったわけはないだろうと思います。
 だから、本作は、「災害ナショナリズム」だけではなく、「災害インターナショナリズム」に繋がる回路もあるわけです。彼は『天気の子』のとき、『パラサイト 半地下の家族』(2019)等に言及しています。つまり、『すずめの戸締まり』の廃墟や災害は、東日本大震災だけではない。これまでに起こった、今も起きている、これからも起こる巨大な災害や戦争の象徴ですよ。そして、ナショナリズムを超えて、危機の前に脆弱である我々に対する、世界中の人々とのケア的な共感と連帯の回路みたいなものを作ろうとしているのではないか、とも見えるんです。

杉田 なるほどね。災害インターナショナリズム。重要な観点です。いわゆる弱者男性たちもまた、ハイブリッドで神仏習合的な文化的自然(デジタルネイチャー、ダークエコロジー)に根差しながら、オタク的な鬱屈と脆弱性を抱えたまま自己尊重しつつ、インセルレフトとして階級形成を行っていくことができるのかもしれない。
 つまり、アンチリベラル(インセルライト)に闇落ちするのではなく、スピリチュアルな宗教右派(インセルウルトラライト)に取り込まれるのでもなく、デジタルユートピアの夢の失敗をも引き受けながら、豊富なサブカル文化資本を集団的な政治性に結びつけていくということ。政治のサブカル化ではなく、サブカルを政治化していくこと。その先に、何らかのインターナショナリティも見えてくるのかもしれない。

■『すずめの戸締まり』への期待と当惑

藤田 前近代、近代の話で大衆文化を分析する際に興味深いのは、鶴見俊輔もそうですが、丸山眞男的な近代主義、民主主義観では上手く行かないような部分があると思った人たちがいたわけですよね。
 丸山眞男も日本には近代主義が根付かないことに悩みながら、その背景に日本的な意識を見ていました。その中には古代から続くような文化や価値観があるのではないかと考えていた。「つぎつぎになりゆくいきほひ」と表現しているように、積み重なるのではなく、勢いとして物事を考える。カミのリズムというか、災害が絶えず打ち続く列島のリズムのような勢いで政治が動くというパターンがあって、我々の無意識にはまだそれが残っているのではないか、と言っています。維新の会なんかを見ていると、それは感じますね。日本のエンターテインメントの中で災害や神道を扱うものは、その文化的な無意識にアプロ―チできるものなので面白いのだろう、と思うわけです。つまり、近代的な民主主義を外部注入していく路線にも限界があるのだとすると、もっと「古層」の土着文化的な部分からのアプローチも有効なのではないか、という考え方を採るわけですね。
 宮崎駿も最初は共産党に関わってましたが、だんだんとアニミズムの方に向かった。そこを探り、介入しなければならないという問題意識があったのだと思います。アニミズムや神道的なものによって駆動している、僕らの、リベラル・デモクラシーではないような政治や対人行動の様式に踏み込まないとどうにもならないと考えたんじゃないでしょうか。新左翼運動が挫折した後も、柳田國男等の民俗学を再評価する動きがありました。今村昌平も、共産党が山村工作隊等で山に入って外部注入しようとしたが上手く行かなかったことに触れて、日本人が持つカミの意識等を調べて、そこに触れないと駄目なんじゃないか、と言っています。
 おそらく現代の大衆文化も同じだと思います。戦後日本は科学技術立国化し、これだけ情報化社会になりましたが、その我々の無意識にまだある神学的な層に触れたり分析するための装置として、大衆文化は面白いのだと思います。新海誠の作品がポリティカル・フィクションであるというのは、日本におけるリベラル・デモクラシーでは回収しにくいような宗教的な層、文化的な層に踏み込んでいるからでしょう。それこそが日本のポリティカル・フィクションの一つのあり方なのでしょう。現に神道を扱った作品、『千と千尋の神隠し』(2001)、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(2020)、『君の名は。』が日本の映画興行成績トップ3なわけですから、そこには何かがあると考えざるを得ないし、お客さんが「現に来ている」という事実性の持つ重みがあるわけですよ。理屈よりも強い何かの動員力が確かにある。
 だからこそ、いわゆるリベラルの人たちがこれだけ嫌われ、知識社会のエリートとして反感を買い、難しい言葉が苦手な人たちに響かなくなっている状況の中で、それでも共通の理解の土台を作るためにアニメーションが果たしている役割は大きいのだと思います。アニメーションを含む日本の大衆文化は、階層や階級を超えて触れられている文化だと分析されています。そこにあるのは、分断を超える可能性であったり、知恵なのだと思います。縄文的なものが今でも続いていることに象徴されるように、我々の古い層は簡単には変わらないのだとすると、それを受け容れながら変えていくという戦略に有効性が出て来るのではないでしょうか。

杉田 先ほども少し言いましたが、丸山眞男や橋川文三が論じていたのは、日本は「下」からの革命で近代国家を制作していない、天皇という美的シンボルを組み入れることでようやくナショナリズムを仮構しえた、というようなことですね。実際にこの国では、下からの大衆運動としてのファシズムすら歴史的に存在しなかった。あったのは結社的な小集団だけです。社会の変化はむしろ、国家と資本の連携のもと、何というか「上からのコーポラティズム」のように行われてきた。ゆえに、日本では暗殺事件やクーデターに過剰なロマンが集まってしまう。押井守は国家権力の犬たちの屈託を描かざるをえなかったし、庵野秀明も官僚組織の側に立って国家の危機に立ち向かった。『シン・ゴジラ』では市民デモは戯画化されていた。
 そうした捻れた状況の中では、何らかの日本的な政治神学の力が必要なのではないか、と感じるようになりました。ある種の神々の力や霊性と共にある政治性。現状では結局そこを天皇の力に依存してしまっている(あるいは自民党と神社本庁、公明党と創価学会など、そもそも日本の保守政治は政教分離ではなく祭政一致の力を存分に利用してきたとも言えますが……)。
 それでいえば、マーベルやディズニーも転換期であり、人間たちの多様性や交差性を描くだけでは足りず、最近では気候変動やエコロジーなどの方に話が進んできていますね。女性やマイノリティの多様性、植民地主義などの主題はもちろん重要ですが、その場合も「人間たちだけの民主主義」ではダメなんだと。社会運動のほうも、動物倫理や気候正義や批判的ポストヒューマン理論など、「人間」の枠組を超えたものとの関係をどう考えるか、ということが次第にデフォルトになりつつある。性や障害、民族などの多様性や交差性を考えることが人間中心主義に終わってはいけないんだと。そこからもう一度、「人間」の限界と可能性を問い直さねばならない。
 政治神学的な超越性やスピリチュアリティの次元を思考するとは、そもそもどういうことなのか。そこを見据えないと、反動的・右派的な勢力の超越性や霊性に対抗できないのではないか。かつて宮崎駿論や橋川文三論の中でも書いたのですが、僕は民族や宗教の混合の先にあるような、日本列島の雑種化、混血化にある種の希望を託したい。そのように考えています。
 そこからいえば『すずめの戸締まり』は、多文化主義やポスト・コロニアリズム的なものの歴史を、どこかきれいに消し飛ばしているように見える。重要な挑戦をしていると感じつつ、そこにノリきれなかった。日本列島に対する政治神学的な愛がまだ足りないのではないか、と。たとえば日本列島の現実をちゃんと見つめれば、コンビニバイトに白人だけではなくアジア人も中東の人もいるだろうし、北海道や沖縄も入るだろう。藤田さんの『新海誠論』が書いていたことも、そういうことではないか。まつろわぬ民、辺境や周辺の民も含めて、縄文的なもの、民間信仰的なもの、日本列島的なものがある、と。

藤田 ある種の問題が見えないのは、その通りですね。とはいえ、「大衆性」とのバランスの観点から盛り込めないものもあると思います。今回、『すずめの戸締まり』では、聖地巡礼の機能をかなり重視しています。それが起きることを前提に作品を作っています。閉じ師はそこで声を聞き、過去にあったものを想起すると描かれるわけですが、それは被災地などを聖地巡礼する人へのメッセージなわけですよね。自分の映画のファンたちを被災地へ行かせることを、ある種目的としていて、その行動を通じて社会の現実や被災者の苦しみ、そして自然などのリアルとつながっていくように作品をデザインしていると思うんです。自分の作品は入口に過ぎないとある程度割り切って、被災者のリアルな声を聞くこと等の意図を織り込んでいるように感じました。そういう風に、「この現実」に触れるためのきっかけ、目印としての映画と考えるべきなのではないかなと。
 ところで、まつろわぬ者、昔の芸能者は差別されていました。この作品も、『新海誠本』などで明言されている通り、宗教芸能の流れを汲んでいます。「後ろ戸」は能から来ていますよね。能の世阿弥等も差別されていた人たちですし、当時の芸能者は海外から来た人たちが多かった。蝦夷たちが放浪芸をしていたという説もある。要するに、外部や周縁の人たちなんです。それが、雅楽などもそうですが、天皇とか宮内庁とか、「日本」的に思える中枢にあるのが面白いところなんですよね。だから、天皇ではなくて、そういう人たちや自然、民間人などに「神性」を見出す作風は、日本的な民主主義の基礎みたいなのを作ろうとしていると解釈できないでしょうか。上からでも結社からでもない、大衆芸術であるアニメと大衆芸能の野合した下からの民主主義、という。
 ところで、ハイブリット性を肯定するという『言の葉の庭』(2013)の新海誠の立場からすれば、移民国家になるかもしれない日本はどう受け取られるのでしょうね。今後、新海誠はそのことにどう向き合っていくのか。そして戦争についても、今後、描いてほしいなと思っています。

杉田 『すずめの戸締まり』で思い出したのは、湯浅政明監督の『日本沈没2020』(2020)のことです。マーベルの『エターナルズ』(2021)がはらんだ分裂性ともある面では似ているんだけれど、『日本沈没2020』は、気候危機やポストアポカリプス的な破局の中での多文化主義の物語でした。作品全体を通してかなりアナーキーな実験を試みてもいるのですが、最終回では突然、美しい日本の未来をスピリチュアルに礼讃する、という方へ跳躍してしまう。「日本復興」「日本を取り戻す」というスローガンのもと、伝統的な日本美と多文化共生とネットコミュニズムとアニミズム的エコロジー……等々が曖昧に一緒くたになった「復活の日」の美的イメージの中に、すべてが溶け込んでいく。なんだろうこれは、と当惑したのを思い出しました。『すずめの戸締まり』についても似たような当惑はあります。

■エンパワーメント、あるいは「門付け芸人」

藤田 そこは議論の余地があるところです。僕も『君の名は。』くらいまでは、日本を美化し、ネトウヨのような「日本すごい」という現実否認に繋がりかねない可能性を危惧していました。ただ、最近、僕も大学の教師等をやるようになって、エンパワーメントも必要な状況があることが何となく分かってきたんです。無気力、学習性無力感(鬱)等、前向きに頑張ろうという気になれなくなっている人たちが多い。打ちのめされ、外に出ない、努力しない、引きこもる人たちが多い。未来も暗い話ばかりで、元気に頑張ろう、となかなかなれないわけですよ。そのような自己肯定感のない無力な状態だからこそ、「日本すごい」「日本民族はすごい」「オタクすごい」みたいな自尊心を高める話にすぐ飛びつくし、それが下がってしまう「事実」に向き合えない。「男が悪い」と言われると自尊心のタメが少ないからすぐに反発してしまう。
 そのような状態だと、過去にあった惨劇、今ある悲惨な事、未来に待っている危機も、直視することが出来ないわけですよ。そして、努力して一所懸命やってなんとか解決しようというマインドセットになれないんじゃないですか。その状況を前提とした上で、神道などをエンパワーメントとして利用しつつ、有害ではないようにした。有害さを除去し改良したナショナリズムやアニミズムでエンパワーメントしようとした、衰退していく危機の時代を生きるための心構えを作ろうとしたのかな、と感じました。現状の多くの人たちの生きている状況を考えると、そのエンパワーメントにプラスの寄与があるのではないか、エンパワーメントしてある程度自尊心を持てば、客観的に状況を見たり、他人のために何かしようと思えるようになるから、取り敢えずそこまで回復させるための装置としての作品と考えれば、プラスの方が多いと判断してもいいのかな、というのが僕の理解です。
 ダメだと思えば、みんなが諦めるから、予言の自己成就のような形で。本当にダメになるかもしれない。しかし、大丈夫でなんとかできると思えば、みんななんとかしようとするから、なんとかなるかもしれない。思えば、昔の祝福芸で「ここは作物が実る」とか予言したり、神道の儀式したのも、「ちゃんと一生懸命米を育てよう」「そうすれば豊かになるよ」っていう予言の自己成就というか、意識づけのためのプラグマティックな機能を持っていたんじゃないかと思うんですよね。最近の新海誠映画は、その機能を現代的にやり直しているんじゃないかなと。

杉田 それをネオリベや自己啓発やスピリチュアリティが混ざり合った日本主義とは別の形でやれるか、ということなんでしょうね。

――「エンパワーメント」、「祝福」ということですが、作中で、旅で出会う人々が、愛媛の旅館の子とか、神戸で遭って、バーのお店をやっているシングルマザーと思われる女性とか、出て来る人が皆、なんだか「少し」不幸なんですよね。でも、最後のエンドロールまで観ると、作中のロードムービーの逆バージョンやってる。なんだかお礼参りして、笑いが絶えない、みんな幸せになっている。不幸から幸せへという展開。
 これ以上言いますと、司会の分を超えますので、口を噤みますが、この作品、一言でいうと、修復=復興の話というか、「行ってきます、戻ってきました」という作品かと(笑)。

藤田 祝福を与える、門付け芸人なんですよ。

■生成変化する椅子

――そうですね。もっと言うと、巡礼しながら、どんどん、なにか変わって、「福」が増えていく感じ。あえて言うと、わらしべ長者っぽい生成変化。
 ところで、生成変化でいうと、「椅子」が、重要な役割を果たしますよね?

杉田 では最後に椅子の話をすると、次のようなことを考えました。これは先ほども名前を出したてらまっと氏たちの『すずめの戸締まり』についてのトーク(Twitterのスペース)でどなたかが言っていたことで、なるほどと思ったことがありました。宮崎駿の『魔女の宅急便』がポストフォーディズム時代の女性の労働映画である、ということがしばしば言われますが、『魔女の宅急便』はシスターフッド的な映画でもあり、キキは様々な年齢や階層の女性たちに助けられ、ケアされて、新しいコミュニティに根差していく。トンボと恋愛関係にならないことに象徴されるように、そこには異性愛的な「男」は必要ありません。『すずめの戸締まり』は『魔女の宅急便』へのオマージュに溢れていますが、新海監督が『すずめ』がやりたかったことはそれか!と気付いたんです。
 さらに考えてみると、キキのバディになるのは人間の男ではなく、猫(動物)と箒(モノ)です。だから鈴芽のバディもイス=モノ(草太)と猫(ダイジン)なのかもしれない。鈴芽の三本足の椅子も、途中で飛べなくなって折れてしまうキキの箒も、母親から受け継いだものであると同時に、去勢された不能の男根の象徴でしょう。そして不能の男根は最後まで決してもとには戻らない。それがいい。
 そう考えてみると、『魔女の宅急便』の箒も『すずめ』の椅子も、トランスジェンダー思想家のポール・プレシアドが『カウンターセックス宣言』などでいう意味での「ディルド」なのではないか。つまり、「男」なんていなくても私は元気です、大丈夫――ディルドがあるから。どちらの作品も、魔女/巫女的な少女が、弱体化して零落した男性(トンボ、草太)を死の危機から救助します。けれども、男の愛は必要ない。去勢された不能な男根を回復させなくてもいい。自分の力によって傷ついた過去の自分を肯定できる。慰めることができる。それは最高ですよ。
 他方で、孤独で鬱屈したイケメンの草太もまた、「呪い=祝福」によって人間の男をやめて、イス=モノに生成変化します。しかもディルドに生成変化するのです。そして滅茶苦茶元気に爽快に走り回り、飛び回る……そのような視点から、動物/石であり、水子でもあるダイジンのことも考え直してみたいですね。それは『秒速』のあのラディカルなインセルの魂の行く末を見据えることでもあると思います。

藤田 ダイジンも石=モノになって、刺さってますから、「ディルド」なのかもしれませんね(笑)。セルフケアの話ですしね。しかし、『古事記』への参照もあるので、異性愛とか、産まれることを肯定しているような気もするんですけどね。

*これまでの記事コチラ→【対談1】