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【対談#1】藤田直哉×杉田俊介 2022年は、弱者男性やインセルの年だった?――『エヴ・エヴ』『別れる決心』ディズニー作品から考える「新しい男らしさ」

アカデミー賞を総なめにした『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、パク・チャヌク『別れる決心』、ディズニーの作品群、異例のロングラン上映中インド映画『RRR』、新作公開を控える北野武、亡くなったノーベル賞作家大江健三郎の文学まで、その背景にある現在の政治・社会問題や文化批評における「男性性」などを気鋭の二人の批評家が深堀り!
アニメ/映画を含むサブカル・エンタメを、さらに楽しむための本格批評対談を2回に分けてお伝えします。

■問題提起――2022年は、弱者男性やインセルの年?

杉田 長い前置きをします。2022年の日本は、インセルや弱者男性たちの氾濫・叛乱の幕開けのような一年でした。たとえば2022年の初頭に、レッド(ブラック)ピルを飲んで残酷な現実に覚醒せよ、というインセル的なジャーゴンのもとになった『マトリックス』(一九九九)のネオが、初老化した肉体となって『マトリックス レザレクションズ』で回帰してきたこと。それは不気味な予兆だったのかもしれません。

 実際に2022年は、SNSと社会的現実の狭間で、ミソジニー的な情動を通した集団形成が行われてきました。日本では長らく、在日特権や生活保護不正受給のような、エビデンスから離れた陰謀論が根強くありましたが、昨年は、女性を中心とした若年女性の支援活動が陰謀論のターゲットになりました。「日本会議」系の極右政治やバックラッシュ現象はすでに数十年前からありましたが、2010年代の#me too運動やフェミニズム運動に対する反動として、ミソジニー的な陰謀論と福祉ショービニズムが融合していった。日本的なアノンの一つ、暇アノンとも呼ばれました。そこには、強者的な中高年男性(おじさん)の男性特権と、脆弱性を抱えたインセル的な男性たちの問題が絡み合っていたように思います。
 山上徹也による安倍晋三元首相の暗殺事件もありました。もちろんカルト宗教や二世信者の問題が中心にあって、単純化はできませんが、山上はロスジェネ世代で右派寄りの青年であり、現代日本の弱者男性を象徴するような側面が確かにありました(ちなみに安倍元首相も『シン・エヴァンゲリオン』のゲンドウのような意味で、精神的インセル性を抱えた政治家でした)。また年末のM-1グランプリでは、近年の第七世代の非暴力的な優しい笑いに対して、ウエストランドがインセル的な笑いによって優勝したことも何かを象徴するのかもしれません。
 これらの現象は、多様性や交差性へ進んでいく世界史的な変化と進歩に対応できない人たちの、末期的な、フランコ・ベラルディのいう「痙攣的」な反応でしかないのかもしれない。しかしそれらの現象を、単純なバックラッシュや男性特権の根深さとして片づけてしまえば、大事なものを見失うようにも感じます。かといって、一部のリベラルエリート男性のように、男性特権を反省して、下駄を脱いで、正しくまっとうな男性性を身に着けていけばいいのかと言えば、それも何かが違うように感じられます。
もしかしたら、交差的多様性の時代の中で、男性問題やインセル問題は古びたものの残滓ではなく、「最先端」の政治的文化的なアポリアなのかもしれない。もちろん、マジョリティ男性や白人男性こそが真の被害者だ、というアノンや保守的男性運動の主張とそれは異なります。交差的多様性の中に、周縁化され脆弱性を帯びた男性たちをどのように位置づけうるのか、それは不可能なのか。そうした問題意識が様々な場面で出てきています。
 アミア・スリニヴァサンの『セックスする権利』が最近翻訳されましたが、これは交差的フェミニズムの立場から、国際化したインセル問題に対峙するものです。もちろん他人の性的自由を侵害して「(非モテにも)セックスする権利」があるとは言えないし、女性の社会的再分配(あてがえ論)も馬鹿げているけれど、欲望論的な政治の問題は重要なのではないか。スリニヴァサンはそれを「ファッカビリティ」と言いますが、その人の性的魅力が社会的政治的に決定される面があり、たとえばアジア系の男性や黒人女性は性的魅力が低いとされてきた。弱者男性にもそういう面があります。
 レイチェル・ギーザの『ボーイズ』という本でも、性的少数者のコミュニティの中から男の子たちの中にマッチョなマスキュリニティが再生産されてしまうのは、一面として、男性性は批判すべきものとされ、それに代わるオルタナティブな男性性を作ってこれなかったためなのではないか。近年は本質主義に基づくラディカルフェミニズムと交差的フェミニズムの対立が様々な場面で問題化され、たとえば一部フェミニストによるトランスジェンダー差別やセックスワーカー差別も見られます。それならば、交差的な男性学やメンズリブはありうるのか。そういうことが問われるべき段階に来ています。
 文化面で言えば、『アナと雪の女王』や『ズートピア』等が象徴するように、ディズニーやマーベルでは、フェミニズム/シスターフッド/交差性の文化的表現が進んできました。その結果、一時期は、「有害な男性」(おじさん)がヴィランになりました。『アナと雪の女王』『マレフィセント』『ラーヤと龍の王国』『キャプテン・マーベル』『ブラック・ウィドウ』等が想起されます。『シュガー・ラッシュ:オンライン』も象徴的ですね。あるいは『ノマドランド』でアカデミー賞を受賞した中国生まれの女性監督クロエ・ジャオの『エターナルズ』では、性やエスニシティの多様性が当然になったヒーロー集団の中で、最後まで古くさい価値観に呪縛されているのは白人男性であり、彼が内ゲバの原因を作り、最後には自死に至ります。
 加えて近年は、ポスト・フェミニズムならぬ「ポスト男性学」と呼ぶべき問題があります。己の弱さや脆弱性を公開し、セルフケアの必要性を語るリベラルエリート男性たちが、非エリート男性にマウントを取って、さらなる優位性を確保する。つまり、男たちが弱さやケアを語ることは、場合によっては男性内格差あるいは階級問題を覆い隠す。日本で言えば『シン・エヴァンゲリオン』『ドライブ・マイ・カー』などが思い出されます。
 たとえばマイケル・リンド『新しい階級闘争』は、白人労働層の排外主義者vs移民層・マイノリティ層の対立が問題であるより前に、それら両陣営が構成する「アウトサイダー」と、「インサイダー」としてのネオリベエリートたちの対立こそが真の「病巣」である、と論じました。韓国の『バーニング 劇場版』などは、都市のスマートなクリエイティヴ階級の男性と、田舎の冴えない貧困層の男性の間の男性内格差を描いていました。あるいはマット・リーヴス『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は、弱者男性内格差をバットマンvsヴィランの階級対立として描きました。
 このような社会的文化的な状況の中で、ダニエルズ(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート)の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下、『エヴ・エヴ』)を観ると、現在の社会問題と文化批評における男性性の行方を考えるためにも、非常に重要な作品であると感じます。

 ここ何年か、アカデミー賞はアジア勢の活躍が目立ち、2020年にはポン・ジュノの『パラサイト』が4冠を受賞。2021年にはクロエ・ジャオの『ノマドランド』が作品賞、監督賞など3冠を獲り、また韓国系移民の家族を描いた『ミナリ』のユン・ヨジョンが助演女優賞を受賞しました。そして2022年には日本の濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞を受賞しています。
 そして今年2023年、ダニエルズが『エヴ・エヴ』で主要8部門のうち6部門を受賞、ミシェル・ヨーがアジア系として初の主演女優賞、ベトナム難民だったキー・ホイ・クァンが助演男優賞。さらにインド映画の『RRR』が歌曲賞を受賞するなど、アジア勢が強い力を示しました。アジア差別によって透明化されてきた人々の活躍が可視化されたようにも見えます。
 『エヴ・エヴ』は、まさに交差的多様性を全面的に展開しています。その場合、興味深いのは、交差的な多様性と、日本の少年マンガのようなギャグや悪ふざけが共存していることです。ダニエルズには『スイス・アーミー・マン』(二〇一六年)や『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』(二〇一九年、シャイナートの単独監督作品)などの長編映画作品もあります。いずれも弱者男性、インセル的男性、底辺的な男性たちの行き場のない鬱屈や欲望を描いています。
 『エヴ・エヴ』の成功は、少年マンガや弱者男性的なものと、#me too運動や交差的多様性が共存し得る、そしてそれがアジア文化を活かすことになる、という可能性を示してくれた点でも、大きいのではないでしょうか。男性学的に見ても重要な作品です。とはいえ、『スイス・アーミー・マン』『ディック・ロング』の主題だった救えないダメ男たちの行き場のない鬱屈が、『エヴ・エヴ』の世界に本当に包摂され発展的に解消されたのか、それについては議論があるかもしれません。キー・ホイ・クワンは、弱者男性というよりも、ポスト男性学的でリベラルな多様性をインストールした男性にも見えました。それについては批判的な意見も見かけました。
 長くなってしまい申し訳ないですが……藤田さん、『エヴ・エヴ』はいかがでしたか。

藤田 前提の話の背景についての補足から先に話したいと思います。弱者男性やインセルの問題が大きく目立ってきたというのが最近(2023年)の印象だということは、同意します。特に、女性を保護するColaboに対する攻撃をする暇空茜のようなゲーマーが、知識人を含め多くの支持を得て何千万円もの寄付を集めてしまうという状況が起きているわけで、ある種のサブカルチャーと結び付いたサブカル男性やミソジニーが大きな社会問題となり、政治的影響力も持ちつつある状況に日本がなってきたと言うのは確かです。これは、ネットカルチャーの観点から理解されるべき側面も持っています。
ラナ・ウォシャウスキー監督の『マトリックス レザレクションズ』は、レッドピルという自分たちが『マトリックス』で出したメッセージを使って、インセルたちが、リベラルの言うお花畑的な嘘の世界からシビアなリアルに目覚めるんだと逆利用していることに対して、ウォシャウスキー姉妹はトランスジェンダーですから、「そうではない」と反撃した作品ですよね。ある意味、弱者男性やインセルたちが『マトリックス』の理念の裏側、反面として生まれてしまったことに、再介入する映画でした。『マトリックス』が、この世界のシステムや価値観は偽物で、それを壊して新しく作り変えることができるという、価値観の革命や解放(それはトランスジェンダーである姉妹の感覚と繋がりを持っていると思いますが)を志向していて、直接民主的なネットの革命にも期待していたのだけれど、その願いに反してインセル的なものが展開した現状に対する強烈な絶望を感じさせる作品でした。「現実に目覚める」ということで、既成の価値観や常識から解放されることを促したのだけれど、それが「リベラルや進歩主義者の言うことは嘘だ」「真実はこちらにある」という形で、マスキュリニストや白人至上主義者に利用されることになった。「真実」と言いながら信じているのは陰謀論で、これが全世界的な問題ですよね。インセル問題は、このようなネットカルチャーの問題の一部であると思います。ゲーマーゲート事件やトランプ支持者たちを見ていると、サブカルチャーやインターネットに親和性が強いオタク的な男性が多い。インセル問題などで銃乱射事件を起こす過激派は、4chanなどのオタク系掲示板に触れて過激化していったと分析されています。
 杉田さんの仰るような交差的な多様性やポリコレやリベラルみたいなものに置き去りにされたと思っているのでしょうね。アメリカ地方のラストベルトの人たちもいますが、ある種の社会的疎外を受けたいわゆる「負け組」意識を持つ者が多いと思います。『フィールズ・グッド・マン』というドキュメンタリー映画で、トランプ陣営の選挙戦略を担当した人が、「負け組」のネットミームである「カエルのペペ」を用いてネットの支持者を集めたことを語っていて、映画は実際にそういう人たちの姿を映していますが、確かに社会的に不遇なようでした。
 そのような「見捨てられた」絶望がある一方で、「侵略されている」という意識もインセルたちに顕著です。これは思うに、インターネット初期の頃は自分たちで開拓した猥雑で自由な空間だったのが、そこに女性たちが入って来て綺麗にしてしまった、自由で滅茶苦茶だったサブカルチャーの世界も綺麗にしなくてはいけなくなってしまった、「ポリコレ」や「フェミニズム」が文化帝国主義として侵略してきた、そして居場所がなくなった、というネット「原住民」の感覚が関係しているように思います。80年代、オタク文化、サブカルチャーが盛んで猥雑でカウンターカルチャーだったような時期に愛着を持ち、あるいはネットで人と繋がることを通じてメンズリブ的、ケア的な集団形成みたいなことをして何とか生きて来た人たちが、その居場所を奪われて怒っているというようにも見えるわけです。リアルな世界で居場所やつながりが乏しい人たちが、ネットにそれを求めるメカニズムも、前掲のドキュメンタリーや、陰謀論者を扱ったドキュメンタリーなどで映し出されています。
 そういう状況なので、ディズニーや、ゲームや日本アニメも、「反省と贖罪」というか、自由なアナーキズムや叛逆を賛美する傾向に対する自己批判を行っているように思います。
 ディズニーはわりとポリコレ的に見えますが、ここ数年、単なる綺麗事的な「ポリコレ」よりももう少し踏み込むような作風も増えましたよね。小川公代さん的に言えば、二項対立を超えるあり方を体現すると言いますか、『エヴ・エヴ』はまさにそういう作品のように見えました。杉田さんが仰る通り、フェミニズム、LGBT、インターセクショナリティの問題を扱った作品であることは間違いないと思います。しかし、ここにも通俗的なフェミニズムに対する批判もある。移民の中国人女性の話がコインランドリーを経営し、家庭では子どもも作るという、社会進出して働きながら家庭も持つという「全てを手に入れた」とフェミニストが理想化する人物像なわけですが、それが本人も不幸で周りの家族を苦しめている様を描くところからスタートするわけですよね。そして主人公は、これでも満足せず、実は他の可能性もあったと選択肢の可能性に苦しめられる。これは、仕事をするか否か、結婚や出産をするか否かなどで、現実の女性が悩まされていることに近い、フェミニズム的なテーマです。その主人公は生真面目で神経症的で、夫の不満にも気づかず、娘は自殺を志向する状況になっているのに、気づいていない。鈍感でケア的な精神がなく、硬直していて、愛や共感に欠ける存在ですよね。現実の「全てを手に入れた」女性やフェミニストの中には、こういうタイプの人が確かにいます。そして本作は、それを正面から批判する映画であって、勇気があるわけです。そこで、彼女への批判として機能するのがインターセクショナリティ、家父長制的な価値観を持っている主人公は、レズビアンの娘を承認できず、彼女を死の方に接近させているわけです。そして、自己中心的で被害者的だった主人公は、「もし自分がこの情けない夫と結婚していなかったら」などと夢想するわけですが、もし結婚していなかったら夫も情けない人間ではなく、事業などでも成功している並行世界があったことを理解し、「自分も誰かの人生を奪っていた」「被害者ではなく加害者でもあった」と理解し、他責的で自己中心的な状態から、もう少し色々な人の視点を理解した立場に成長していく話ですよね。
 中盤に出て来る、少年マンガ的というか、下ネタも含めた下品な悪ふざけの描写の意味ですが、やっぱりそれは、いわゆる「ポリコレ」的な価値観が支配する中で消滅させられようとしている性的な逸脱や享楽を回復させる機能を狙ったのではないかと。通俗化したポリコレやフェミニズムの中には、欲望や享楽の次元を抹消する方向性があり、そこは批判するわけです。フェミニズム、LGBT、ポリコレ的な主題を全面的に引き受けながら、その部分は否定し、猥雑さやくだらなさ、逸脱などの存在価値を回復させ、愛や家族の価値も擁護するという絶妙な折衷のバランスが支持された秘訣なのかなと。逆にいえば、これに投票したアカデミー賞の会員も、そういう問題意識は持っていたってことなのかなとも想像させられます。
 少年マンガ的と言いましたが、ぼくはどちらかというとクィアっぽさ、70~80年代のディスコにおけるゲイ文化を感じました。前作『スイス・アーミー・マン』も尻の穴を掘る話ばかりですよね。「クィアするqueering」という言葉がありますが、普通の日常的な価値観を過剰にパロディ化し、そこから逸脱するようなことをやって自己に内面化され擬態し続けた常識や価値観を嘲弄し、社会的自殺に似た狂気じみた服装や振る舞いを敢えてして解放されようとする文化がありますよね。ソンタグの言う、「キャンプ」の美学に近いものですけど。普通の価値観では「異常」「狂っている」とされる方こそが、自分にとって真実なのだ、解放されるのだ、という感覚ですよね。作中でも、これらの行動によって主人公も生き生きとしたもの、愛や情緒(エロス)を回復していきます。

杉田 非モテ的、インセル的、引きこもり系の男性たちが欲望をラディカルに突き詰めていくと、それ自体がクィアになりうるわけですね。あるいはクィア批評と障害学の交差する場所に、クリップ(かたわ、異形)という概念もあります。男性的な欲望もクィアでクリップになりうる。『ディック・ロング』は馬との獣姦の話でもあり、鬱屈した男性たちのホモソーシャルな欲望が、動物に対する性愛に接続されていく。主人公は、世の中に何も信じるものがなく、虚無に飲まれたような底辺男性ですが、最後まで馬への純粋な、ロマン的な愛は見失わない。男性的欲望から出発しても、インターセクショナルvsインセル男性のような対立構造を内側から変えていけるのかもしれない。

藤田 『スイス・アーミー・マン』はともかく、『ディック・ロング』や『エヴ・エヴ』の登場人物たちは、そもそもインセルなんでしょうか。彼らは友達がいて、ワイワイ楽しくホモソーシャル的にアウトドアもして楽しんでいるし、彼女もいますよね。『エヴ・エヴ』の場合、結婚もしています。

杉田 インセル的(非モテ的)なものは現実の恋愛や結婚によっても必ずしも解消されない、という点はしばしば指摘されています。

藤田 クリップ・セオリーは、ちょっと詳しくないので置いておきますが、『エヴ・エヴ』の場合、所謂引きこもりや他者と関係性を持てない、努力もできない、障害があるというタイプの弱者男性というよりは、いわゆる家父長的なところや暴力性がない、マッチョではない男としての旦那が描かれていて、しかしそれが肯定される結末でしたよね。

杉田 そうですね。『スイス・アーミー・マン』や『ディック・ロング』と『エヴ・エヴ』のキー・ホイ・クワンは、少し違う印象を与えます。

藤田 奥さんは忙しくて家族のことを気にしていない、それに対して旦那は弱く情けないんだけれど、奥さんや子どものことを気にかけていて、ケアする能力が高い。愛やケアこそが、力であるということを分かっている。奥さんが娘のアイデンティティを踏みにじって自殺しかけているのを食い止めて改心させるのは、その力なわけですよね。ここは、男性は新自由主義で、女性はケアだ、みたいな本質主義の傾向がある「ケアの倫理」に対する重要な批判としての逆転ですよね。だから、新しい男性性を肯定している映画とは読める、しかし、インセルの話なのかどうか。

■マルチバース設定な距離――『エヴ・エヴ』を中心に

杉田 『エヴ・エヴ』が交差的多様性とマルチバース的な可能世界を突き詰めていって、必然的に『ボボボーボ・ボーボボ』的なナンセンスギャグになったことには、驚きました。あるいは『セクシーコマンドー外伝』というか。いかにバカバカしくくだらない一発ギャグでハジケられるか、それで強くなるわけです。昔の「週刊少年ジャンプ」や「コロコロコミック」的な下品でナンセンスなギャグと、ハリウッドPC的な多様性の最先端が悪魔合体し、異形の進化を遂げたというか……眩暈がするようでした。
 『エヴ・エヴ』は『マトリックス』の影響が強くあるそうですが、マーベル的なマルチバース設定にも通じます。ただし、無限の可能世界が想定できるけれど、今ここに実在する世界が「最善」である、というのはライプニッツ的な最善説(オプティミズム)という感じがします。コインランドリーの仕事がつらいとか、お金が足りなくて税金が払えないとか、「このつまらない世界に戻りたい」と主人公が言うんですよね。
 そのとき少し引っかかったのは、多様な性や民族をクィアな拡張家族とは言え、やっぱり家族愛なんですよね。愛がなくても親切になれ、というヴォネガット的あるいはインセル的な友情ではダメだったのか。ダニエルズの次回作はカート・ヴォネガットについての連続テレビドラマだそうですが。『スイス・アーミー・マン』は女性の愛を得られず、自家発電するしかない男性の話でした。そこはどうなんでしょうか。家族最善説というか、家族オプティミズムというか。

藤田 あの二人が、女装などをして戯れていたあの基地には愛があったと思います。

杉田 ダニエル・ラドクリフが演じたあの死体は、自分の妄想や分身のようにも他者のようにも見えて、その塩梅がうまかったですね。半他者性があるというか。

藤田 『マトリックス』への批評的な応答というのもそうですが、もう一つの文脈はマーベルでしょうね。プロデュースしたルッソ兄弟は『アベンジャーズ / エンドゲーム』を撮った監督で、本作も『ワンダヴィジョン』や『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』など対する返歌という部分があると思うんです。この主人公はワンダの裏側なんだと思います。ワンダは家族が存在しない、家族がいるマルチバース=フィクションの世界に憧れ、そちらに行こうとして闇落ちする。現在の自分に不全感があるから、フィクションを妄想するのはよくあることで、人間がフィクションを求める普遍的パターンだと思うんです。モテないからモテモテのものを読むとか、現実で上手くいかないからいじめられっ子が強くなるマンガを読むというような基本的なエンターテインメントの消費のされ方ですよね。
 『エヴ・エヴ』の主人公もそうで、コインランドリーを経営している現在の自分が肯定できないから、結婚しないでスターになった自分のいるマルチバース=妄想の世界を夢想してしまう。現実は惨めな状態だから、ラブロマンスのヒロインになったとか、歌手になったという夢を見る。それはヴォネガットが『スローターハウス5』などで、皮肉を籠めて描いたことそのものです。そのような「ありえた自分」=マルチバースの世界と比較し、自分を肯定できなくなり惨めな気持ちになるというのも、現代でよくある問題であって、SNSで見る「キラキラした他の人の暮らし」などを見て鬱になるなどの形で皆に理解があるのではないかな。結局、どの道を選んでも「ああしておけば幸せなのでは」と隣の芝生を青く思ってしまうのが人間なんだと思うんですが、女性は、仕事するか結婚するか子どもを産むか等でシビアな選択を迫られているので、並行世界の自分を考えやすいらしいのですよね。そのようなフィクション=夢想の世界に憧れて闇落ちするのではなく、ちゃんとこの人生に戻ってきて、この人生を肯定するというあり方は、『ワンダヴィジョン』への応答に見えるんですよ。『すずめの戸締まり』もしかりですが、この現実を志向するのは、最近のフィクションの傾向ですよね。それは、自由や可能性がありすぎて、しかし現実に選べるのは一つでしかないので、自分を肯定できなくなり、何かを愛しコミットできなくなるようなマルチバース的なニヒリズムに駆られやすいという現状が前提にあるんだと思います。
 ところで、竹田ダニエルさんが指摘していましたが、親子の和解というテーマが最近多いことも気になります。本作も、非現実に没入しているあまり、現実の娘へのケアや愛情に欠け、死の直前まで追い詰めていたことを知り、改心するという物語ですよね。やっぱり、こういう問題が現実には結構起きているのではないか。「この現実」を否定することが、深刻な暴力や加害になってしまうこともあるわけですよね。『ONE PIECE FILM RED』のウタにしろ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のゲンドウにせよ、愛着障害的で、現実や自己を肯定せずにフィクションに憧れてしまう人がすごく多く描かれていて、そこで解決策として親子の情の通いあいのようなものが提示されますよね。「この世界」あるいは「家族」に対するベースとしての愛着や信頼が壊れている、という現実の問題があるのかな。だから、家族、もしくは疑似家族における愛や責任の感覚を経由して、この現実を肯定する心理的な回路を作ろうという傾向が見える気がします。
 多分、クィアやマルチバースなどに相対化し、脱構築し、その果てのニヒリズムを経由して、もう一回、家族愛やこの世界の肯定に帰って来る、という折り返しが、重要なのではないかと思います。

杉田 マジョリティ男性(おじさん)が諸悪の根源だというモードの次に、ディズニーやマーベルの作品では、娘と母親の対立が主題化されてきました。「有害な男性性」ならぬ「有害な母性」との対決です。『私ときどきレッサーパンダ』『ミラベルと魔法だらけの家』等が思い浮かびます。そこでは男性特権や家父長制と対決するのみならず、娘が「暴走して有害化/有毒化した母性」と対決していく。まさに『エヴ・エヴ』も母娘問題を扱っています。母親が娘のマイノリティ性をなかなか受容できない。「世代間トラウマ」と言うらしいですね。

藤田 そうですね。現実世界で生きていれば誰でも知っていることですが、「有害な女らしさ」も「有害な母性」もあるわけですよね。権力勾配も女性差別も確かにあり、「有害な男らしさ」は反省すべきなのだけれど、しかし、男性が悪で加害者で、女性は善で被害者で、シスターフッドは素晴らしい、みたいな本質主義的な思考は、自身の有害さや暴力性、加害性を認識できなくさせてしまう危険があるわけです。実際、社会進出してバリバリのキャリアなんだけど、全然子どもの面倒を見ない女性とかも普通にいますからね。母親の態度や生き方が子どもの世代に、深刻な問題を引き起こすこともあるわけですよね。そのことを問う作品が最近多い気がします。『エヴ・エヴ』も『レッサーパンダ』も、家父長制的な圧力の中で母親自身もこじれを抱えていて、抑圧を反復してしまっているのを克服する、という話でしたね。

杉田 多様性や交差性を描くからこそ、最も厄介なヴィランが有害で有毒な母性(保守的な母性神話とも異なるような)になる。有害でマッチョな男とはぎりぎり対話可能だけど、有害な母性はさらに恐ろしい。信田さよ子さんの本にあるような「毒親」ですよね。ただしそれは「有害」ではなく「有毒」であり、つまり母親自身が母性の自縄自縛によって自家中毒を起こしているとも言える。だから善悪では片付かないし、和解の可能性もある。そう言えば『竜とそばかすの姫』や『すずめの戸締まり』も、娘への母親の呪縛の話ですね。『機動戦士ガンダム 水星の魔女』では、権威主義的な父親こそが諸悪の根源だと思っていたら、シーズン1の最終エピソードで、真に怖いのは娘を善意で洗脳する有害な母性だった、という話に反転します。

藤田 『文藝』で特集されていましたが、最近の文学でも母娘問題は随分扱われていますね。親子や家族の問題を扱った作品で言えば、『レッサーパンダ』も『ストレンジワールド』も、疑似的な親子ということで言えば『シュガーラッシュオンライン』も『トップガン マーヴェリック』もそうですね。

杉田 『トップガン マーヴェリック』は、ベタなアメリカ海軍のホモソの世界で、反動的なおじさんマッチョヒーローの話で、それが古き良き軍国主義的ナショナリズムへと繋がっていき、敵国の「ならず者国家」は人間の「顔」すら描かれず、クリント・イーストウッド映画ほどの捻りもなく、日本の軍国愛国おじさんが高揚しそうなやばい映画なんだけど、不思議とトム・クルーズだと嫌な感じのマッチョにならない。少し悲しそうな、淋しそうな、少年のような、老成したような、何ともいえない表情や仕草。トム・クルーズは作中でけっこうよく泣きますね。「男泣き」ではなく、さらっとふつうに泣く。そして他人や若者に助けられたり援助されたりしても、「男のプライドが傷つけられた」という頑なな態度にならない。「他者のケアをちゃんと受け止められる柔らかなマッチョ」という不思議な人物です。
 マルチバースの話に戻ると、これはSNSのメタファーでもあるでしょう。そこには二重性があります。この人生には別の選択肢や可能性があるかもしれない、という感覚を与えてくれるポジティヴな側面と、成功者の人生を見て自分をつまらなく感じたり、結局どんな選択をしても大差なく虚しいというニヒリズムに陥っていくネガティヴな側面と。『エヴ・エヴ』の最大の敵は「虚無」それ自体です。世界には色々な選択肢があり多様な人生があるが、結局それも含めて全部が虚無に飲み込まれていく。これはSNS的なものが強いる感覚でもある。先ほどの竹田ダニエルさんの本にもありましたが、Z世代の若者はデジタルネイチャーならぬSNSネイチャーであり、SNSで情報疲労を起こしてメンタルを病んで、持続的な社会運動のためにもセルフケアやセルフラブなどのメンテナンスが重要になっていると聞きます。

藤田 SNSをよく使う人ほど鬱の傾向が高いという研究結果がありましたね。

■描いているものは結構ヤバい――大江健三郎とたけし、『スイス・アーミー・マン』など

杉田 『エヴ・エヴ』の虚無との戦いは、いわば21世紀型のニヒリズムとの戦いなのでしょう。交差的多様性やマルチバース的可能世界を突き詰めると、確かにいろいろ選択肢はあるけど、どんな選択肢や人生も平等に無意味であり、虚無的なカオスに帰結してしまう。たとえばTwitterでは日々無数の倫理的難問が流れていって、認知限界ならぬ倫理限界を強いられます。これはある意味で、リベラルな正義が要請する必然だと思うんですよ。つまりリベラルな多様性を推し進めると、世界は多様で寛容になるけど、他面では世界全体がフラットになり、退屈で凡庸化していく。万人の差異が等価に均されていくのだから。それがリベラルのジレンマです。こうした21世紀的ニヒリズムは、マーベルのフェーズ4でも確実に厄介なジレンマになっている。そこではたとえば、無意味な死よりも、死んでも生き返ったり平行世界に転生したりして、固有の死を死ねないというタイプのニヒリズムに苦しんでいるように見える。
 『エヴ・エヴ』では、主人公の娘が虚無に取り込まれてヴィラン化します。母は娘と対決して、最後は虚無を乗り越えます。しかし虚無を拒絶して克服したというよりも、それを柔らかく受け入れているようにも見える。つまり、誰もが愚かでくだらない猥雑なこの日常生活の虚無性を、それ自体として愛そうと。

藤田 娘の虚無感は、レズビアンとしてのアイデンティティを否定されているからである、というのは大前提として、しかし、そのようなマルチバースに象徴される相対主義的な、すべてに意味がないというニヒリズムからどう折り返してくるか、という段階に踏み込んでいるから、本作は胸を打つんだと思います。ダニエルズが参照したヴォネガットはもう少しニヒリスティックで、世界の意味のない馬鹿馬鹿しさに耐えるしかない、という感じなんだけど、実際に鬱病で自殺未遂を繰り返してしまっている。ヴォネガットと較べると、もう少し、意志的に、この世界や家族のために行動することを選んでいるところが、本作の特徴なのかなと。
 本作に近い作品として、北野武の『監督・ばんざい!』と『TAKESHIS'』を思い出したんですよ。『TAKESHIS'』も、成功したたけしがコンビニ店員のたけしを、逆にコンビニ店員のたけしが成功しているたけしを夢見て、あり得た自分の可能性のメタ地獄に入って行く。次作『監督・ばんざい!』は、メタ地獄で、すべてが意味がないナンセンスな滑りギャグのようなものの連続に見えるんだけど、その社会的自殺のような衝動の果てに、無意味さを超える、世界や存在への肯定というか受容の感覚が(井出らっきょのしょうもないギャグなどを見ているうちに)出てくる。不条理absurdって、「ばかばかしい」っていう意味なんですが、虚無や無意味なのであれば、むしろ自らがばかばかしさと一体となって、それを体現することの中に、生の意味が回復する、っていう境地がある気がします。山の上から降りて踊るような、ニーチェの『悦ばしき知識』的な境地と言いますか。ダニエルズのゲイ的なセンスが、ニヒリズム的なものからどう折り返すかという世界的課題と共振したから、これほど多くの人が共感したのかなと感じます。

杉田 『エヴ・エヴ』の世界はライプニッツ的な楽観主義だと先ほど言いましたが、それに比べると『スイス・アーミー・マン』の方はニーチェ的な感じもしましたね。つまり、永劫回帰する現実は別に最善ではなく、楽観主義もありえないけど、それでも意志の力によってこの現実を肯定する、という運命愛。『スイス・アーミー・マン』は、葛藤と自己破壊と滑稽化を繰り返しながら実存を掘り進めていく感じで、それは『エヴ・エヴ』的な家族愛による最善説とは異質に見えました。それは前回の対談でいえば新海誠監督の『秒速5センチメートル』と『すずめの戸締まり』の違いにも似ているかもしれません。『エヴ・エヴ』の結論に対しては、現代的虚無に対する回答としてこれでいいのかな、という気持ちがちょっとあります。

藤田 『スイス・アーミー・マン』で言えば、一番活き活きしているシーンは、主人公が女装して死体の男性と一緒に暮しているところで、要するに愛とエロスが回復して、しかもゲイ的、クィア的な逸脱した欲望が認められているシーンです。今回もそうですね。ある種、欲望やエロスの次元が回復した時に初めて世界が無意味で相対的なものでなくなる。それを否定されてるレズビアンの娘が虚無へ行くわけですからね。ぼくには、両作は通底しているように思います。

杉田 『スイス・アーミー・マン』で主人公のバディとなる死体(ダニエル・ラドクリフ)は、主人公の妄想なのか、本物の死体なのか、ゾンビのような謎の生命体なのか、解釈が分かれそうです。しかしいずれにせよ、エロスのみならずタナトスの力があります。そもそも屍姦的ですし、主人公も途中でクィア化あるいはトランスジェンダー化します。それこそ、クィア批評のリー・エーデルマンが批判した「再生産未来主義」とか異性愛主義的な社会性に回収されないような、タナトス的な否定性の強度があり、ノー・フューチャーを肯定するようなところがある。それに対し、『エヴ・エヴ』の場合、確かに性的少数者や異民族たちの交差的な拡張家族ではあるんだけど、それでも家族主義の力が強すぎて、少しつらかった側面はあります。

藤田 家族を肯定するんだけど、家制度や血脈的な思想は放棄するわけですよね。レズビアンのカップルを肯定するというのは、自然生殖では子どもを持てない可能性が高いわけで、主人公はそれを認めるわけですよね。だから、「生命の輪」「生命の流れ」的なものの完全肯定ではないのだと思います。むしろそれを断念してでも、今目の前にいる一人の人間の存在を肯定する、ということを選んだという決意がここで示されているように思います。
 リベラリズムやフェミニズムは、保守主義者たちと文化戦争を行っていますけど、その争点の一つは、愛とか生殖とか家族はどうなるの、という問題ですよね。最近の映画は、そのことを扱おうとしているように思います。だから猥雑な性や欲動、家族、生殖に踏み込んでいこうとしている。どの答えが正しいのかの結論を出すことは出来ないと思うけど、踏み込もうとしたことについては、社会に議論を巻き起こし動かしていくという映画やドラマの役割として、肯定的に評価したいです。

杉田 僕もダニエルズの作品からは北野武を思い出したし、また松本人志の映像作品のことも思い出しました。本当にくだらなくてばかばかしい、一体何を見せられているんだという映像が連打的に出てくる。近年、悪趣味や悪ふざけは、ホモソーシャルな悪ノリとして否定されてもきました。でもそれらは必ずしも政治的冷笑には陥らず、やり方によっては多様性やクィアネスと接続しうる。そうした可能性を見せてくれた。
 それで言えば、藤田さんが先日刊行した『ゲームが教える世界の論点』では、ゲーム的な欲望の話をめぐって、最初の方にゲーマーズゲート、ピザゲート、Qアノンなどの話が出てきます。ゲームの特徴の一つとして「過集中」があり、プレイヤーに強烈な没入を与える。アノンはゲーム的享楽を通して差別を扇動したり、ポピュリズム的に民主主義を破壊したりしてきた。その場合、『エヴ・エヴ』の下品でくだらなくてギャグマンガ的なノリは、アノン的な人々にも届くのでしょうか。

藤田 そうだといいのですけどね。Qアノンやインセルのたまり場は、4chanという2ちゃんねるの影響で作られた匿名掲示板で、日本と同じように、悪ふざけや悪趣味的な文化があります。彼らは、リベラルやフェミニストの「清潔」「倫理的」な価値観を、ある種の文化帝国主義的な侵略と感じるわけですよね。しかし、『エヴ・エヴ』は両方の要素がハイブリッドになっているように見える。そこに、対立や二項対立の図式で分断を深めていくような現代に対する、この作品の批評性があるんじゃないでしょうか。

杉田 アカデミー賞の様子やインタビューを見ると、わりとリベラルな発言をしていますが、作品自体はもっと危ない感じがします。

藤田 そこは大江健三郎と同じなんじゃないかと思うんですよね。公的な場で発言すると、優等生的な戦後民主主義者なんですが、描いているものは結構ヤバくて、それを裏切ってしまっている部分があるわけです。それが文学や芸術なんだと思うんですよ。性的欲望と政治的衝動がぐちゃぐちゃに混ざって結構危険な領域に行ってしまう。でも、現実の人間も、そうでしょう。そういう右でも左でもないような領域を作品で体現していますよね。『エヴ・エヴ』もそういう作品なんだと思うんです。

■ディズニーは闘っている?――『シュガー・ラッシュ』『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』など

藤田 ゲーマーの話で言うと、先ほど『シュガー・ラッシュ:オンライン』の話が出ましたが、あれはまさにゲーマーたちに対する分かりやすい説教の作品ですよね。昔のゲームの悪役が主人公で、それが小さな女の子をケアするようになり改心していく話です。時代遅れになった暴力的な男が、疑似的な娘のために新しい文化であるユーチューバーになって頑張る。娘の方は新しくスリリングなものが好きで破壊的な新しいゲームの方に引っ越そうとするんだけど、主人公は親友がいなくなると辛いので暴れて、しつこくて自己破壊的な部分を増殖させてしまって巨大な怪獣のようになり、世界を破壊しようとする。
 それを食い止めるときに、カウンセリングという言葉が出るんですよね。カウンセリングして有害な男らしさを克服せよ、という話になる。見捨てられ置き去りにされた男が自己破壊的になって絶望感で暴走するのをどう止めるかということがストレートに主題になっている。現代の社会の価値観が変化していく中で置き去りにされていくタイプの男性、特にゲーマーを中心とした人たちへのメッセージ性がはっきりしている。そして、こういう作品は反発を受けていますね。

杉田 第一作の『シュガー・ラッシュ』は、ヒーローの影に隠れていた敵役、悪役たちが、自分もヒーローとして表舞台で活躍したくて行動する、という物語でした。悪役たちが自助会に参加したり、メンズカウンセリング運動の歴史も想起させます。それが続編の『シュガー・ラッシュ:オンライン』ではがらっと変わって、たんなる有害な男性性の権化になってしまう。バディの女の子がフェミニズム的意識に覚醒してシスターフッドへ進もうとするのを邪魔して、女の子から見捨てられるのに耐えられず、無差別殺傷するインセルのように闇落ちする。庵野秀明のアニメに出てきそうな、グロテスクな暴走の仕方をしますね。

藤田 ゴジラみたいになってますね。

杉田 弱者男性が怪物化して、自分から離れていく女の子をストーカーのように追いかけます。前作のファンからは、かなり批判もありました。

藤田 女の子は最初はケーキとかが沢山あるファンシーな世界にいましたが、デスメタル的でアポカリプス的な雰囲気のゲーム、つまり男性的で破壊的なゲームに行きたがる。それを主人公が嫌がって元に戻そうとするんですよね。

杉田 二作を通してみると、日陰者のヴィランがヒーローを目指そうとしたら、結局「加害者男性」に転落して、カウンセリングを受けたり、自助グループに入ったり、加害者更生しなければならない、という極めて残酷でアイロニカルな展開とも言えます。

藤田 それで、自分を距離を置いて眺めて、自分はこれじゃ嫌われるなと気付いて克服する話です。「有害な男らしさ」を克服するための心理的なプロセスを、分かりやすく物語化して提示しているわけですね。
 ディズニーの『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』もその主題でした。三世代の「男らしさ」のギャップを描いてます。祖父は冒険が大好き、息子は冒険が嫌いで植物が好きなんだけれど、電気を発電する植物でインフラのようなものを作って国の英雄になってしまう。祖父と息子は英雄として銅像が建つんだけど、孫の方は、そもそも戦いを止めたい、何かを敵視するのも止めたいと言う考え方を持っている。その三世代が対立します。祖父と父はレジェンドとレガシーに拘るけれど、孫は戦いを止めて世界と調和しなければならないと言う。
 最終的に、祖父の願ったように世界の外に出てみたら実は世界が生き物だったことが分かって、「悪い奴」とされてきたものを退治したら、自分たちの生きる環境も滅びることが分かる。最終的に、テクノロジーを使うのもやめて、地球環境と調和して暮らそうという、孫のZ世代的感覚が勝利する。祖父も父親も、改心してZ世代的な孫に寄りそう。冒険、重化学というかつての男らしさと、新しいZ世代的な自然との調和の男らしさという対立のドラマを構造化しています。これはスマートでよく出来ているけれど、そう簡単に行くかという問題があります。現実はそんなにすぐには説得されないだろうと。だからこそ、世代を超えた理解や和解が、ファンタジーとして提示され、ロールモデルたらんとしているのでしょうけれど。

杉田 『ストレンジ・ワールド』は面白いかどうかはともかく、ディズニーらしく、結構戦っているように思いました。でも、あんまり話題になりませんでしたね。

藤田 もったいないですよね。

杉田 『ズートピア』を補完するような作品なのかなと。PCや多様性によって世界が「よりよく」なっていくのはデフォルトであり、そこで置き去りにされていく男性たちの努力や疎外感をも取り込んで、最後にはそれらをメタ正義としてのエコロジー的な環境正義へと統合していく。世界全体を「よりよく」していくムーブメントに中高年男性たちも参加できる、あなたたちの努力や苦しみも無駄じゃないんだよと。祖父世代のマッチョな(パターナルな)開拓者精神も、父親世代の農業者的な(マターナルな)保守精神も、害悪な男のプライドを捨てて、若者を呪縛せず、子どもたちの自分らしさを認められれば、世代的価値観のずれやわだかまりを越えられるだろう……と。
 印象的なのは、男性三世代でゲームをするシーンです。孫世代は、他者に勝利したり所有したりするゲームではなく、万物がネットワーク的関係の中でウィンウィンになりうるゲームが好きなんですね。害虫や災害にもエコロジカルには意味がある。とはいえ、資本と国家を加速させるネオリベ的気候正義こそが世代間対立をメタ的に統合する上位の理念になるんだ、という世界観は、いわばガイア理論的なスピリチュアリティも感じたりして、そんなにうまくいくかな、という気もします。ちょっとイデオロギーが先に立っている。

藤田 親世代と祖父世代が自分のアイデンティティの根本になっているものを放棄するきっかけは、そんなことをしていたら地球が滅びることが目で見て分かったから。でも、これは、どちらかと言えば「こうなってくれたらいいよね」という理想像の提示であって、現実は『ドント・ルック・アップ』のような、地球が滅びると分かっていても認めない、認識しない、陰謀論に走る、変わらない、という方向も強いですよね。

杉田 『ストレンジ・ワールド』が現代的困難を捉えているとしたら、それは多様性や交差性を進歩させることが相対主義に転じたり、逆のものを強化するという危険性に対峙している点ではないか。それがカオスな虚無になってしまう。それらを統合するための何らかのメタ政治、超越論的な正義が必要なんだと。それは今や気候正義であると。少なくともそれを愚直に打ち出した。Z世代礼賛みたいな面もありますが。
 『エヴ・エヴ』に戻ると、最初に観たときに、アナルファックやゲイ男性的なイメージのギャグ化がちょっと危ない気もしました。ちょっと少年マンガ的でホモソ的な悪ノリでは、と。けれどもその後に『スイス・アーミー・マン』『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』を観たら、そこにはちゃんと欲望論的な根拠があるんだなと思った。考えてみれば、そもそも多様性って、スマートでリベラルなものの中に欲望の差異を包摂して馴致することではなく、包摂も受容も不可能なクィア性やタナトスを孕んだ特異的欲望の差異を肯定することだと思うんですよね。
 『ディック・ロング』の冒頭、妻子が寝たあとに男三人が悪ノリで『ソナチネ』のように燥いで、股間に花火をはさんでハジケたりしているんですが、仲間の一人が突然、雑に死んでしまう。その死の理由をミステリ仕立てに追っていくのですが、結局、馬とセックスして内臓を傷つけたから、というのが彼の死の真相だった。非常にくだらない、くだらなすぎるわけです。これがコーエン兄弟の映画だと、ダメな人たちが犯罪に手を染めて、どんどん状況が悪い方へ転がっていくけど、人間は悲しくも滑稽な生き物だ、という裏返しのヒューマニズムがどこかにある。しかし『ディック・ロング』はひどすぎて、そういう救いすらない。
 『スイス・アーミー・マン』『ディック・ロング』によって『エヴ・エヴ』の観え方もずいぶん変わりました。主人公のジークの妻が「これは現実なの?」と絶句するシーンがあるんですけれど、これは本当に最低で最悪で悪趣味で、悪ふざけのような現実であり、いわば「マルチバースなしの生活」が露呈してしまう。ライプニッツ的な最善説がいわば「最悪説」に裏返る。底辺男性たちの暮らしの鬱屈と、それを解消するための悪ふざけ的でホモソーシャルな共同性の行き場のなさ。笑うことも、悲しむことも、苦笑いすることも、もうできないような。
 とはいえジークにとって、仕事も家族も音楽活動も心を満たさないのに、馬とのズーフィリア的な愛だけは「本物」なんですよね。追い詰められ、どん詰りまで来て、家を飛び出したジークが、自分が逃げるのではなく馬を逃がそうとしたシーンには、ちょっと心をうたれました。まあ、それすら男たちのロマン主義的マチズモなのかもしれませんが。

藤田 その真相は、おそらく多くの観客が想像しないものじゃないですか。レイプされたのかとか、不審者がいるのではとか、勝手に作中人物が恐怖に駆られて想像して振り回されるわけですが、馬とセックスして死んだという真相が出てきた。この真相には、現実は、人々の想像できるものの範囲を超えているのだ、という圧倒的な畏怖の感覚を起こす効果が、ばかばかしさと同時にあるわけですよね。我々が想像し、人間はこういうものだと思ってしまう範囲は狭いもので、現実の世界や人間はそれを超えているんだという感覚が彼らの基本的な人間や世界に対する感覚なのではないでしょうか。

■現実を肯定か、外側か――パク・チャヌク『別れる決心』

藤田 パク・チャヌク監督の『別れる決心』も、ここまで話してきたような「二項対立や加害や被害の関係が崩れていく」「世界や人間は、想像可能なものの外側にある」という感覚が基調にある作品でした。不法移民かつDV被害者でケアワーカーという、いわゆる可哀想な女性が、実は殺人犯だと分かり、その後でまた被害者かもしれない、加害者かもしれないとぐるぐると反転を繰り返す。普通はこういう人は被害者だと思ってしまう観客の先入観を利用する。可哀想に見える人に同情してしまったら、実は加害者だったということは現実にはよくあるわけですよね。しかし、そう思ったら、本当に被害者だったかもしれず、被害者性と加害者性をも併せ持っていたかもしれず、騙すような操作的な人かと思いきや本当に純粋な愛を持っているかもしれない。それらが確定できないまま宙吊りで終わる。それが国や民族のメタファーとしても読めるように描いている。林志弦さんの『被害者意識ナショナリズム』という本があるぐらいで、どの国でも被害者性を使ったポリティクスがあります。それが中国と韓国の関係で描かれ、中国から来た移民の人は「韓国の山を持っていたけれど盗られた」みたいに言っていて、どういう意味か分からないけれど、被害と加害の関係が曖昧になっていく。
 パク・チャヌクの前作の『お嬢さん』では日本帝国主義に支配された加害と被害を、SMと重ねて描いていました。性と愛における被害と加害と、国家や民族の被害・加害の関係がぐちゃぐちゃになっていくような領域に踏み込むのが彼の面白さだと思います。奥さんは、理系で理知的で、原子力発電所の所長に最年少で就く、「女性の社会進出」の成功例みたいな人です。しかし、家庭は冷たいものになり、セックスもぜんぜん良くない。両者の間に感情や愛情の交流は全然なく、夫である主人公は不全感を抱え、鬱病のようになっている。エリート的、リベラル的成功者に見える家庭だけれど、幸福がまったくない。タイトルから推測して、主人公が「別れる決心」をする話かと思いきや、そうじゃなくて、奥さんから別れを告げられる。この二人の関係においても、誰が加害者で被害者なのか、曖昧ですよね。ヒロインであるソレの女性の過去も罪も、主人公への思いも、すべてが霧の中にもやもやと消えていってしまって、はっきりしない。
 その上で、『エヴ・エヴ』と比較するなら、この現実を肯定する『エヴ・エヴ』に大して、『別れる決心』は現実の外側に行ってしまうわけですよね。この世界や家庭の外に出て行こうとする。死と表裏一体の享楽に突入していくというかな。『エヴ・エヴ』はそうでなく、享楽等によってこの現実世界の外を求めていきながら、この現実に折り返して来るわけですよね。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』路線です。それと比較すると、『別れる決心』には、新左翼的な無責任さを感じ、ちょっと問題が「一つ手前では」という感じがしました。

杉田 『別れる決心』についてまず凡庸な解釈を示すと、男性刑事のヘジュンは、現代のリベラル男性たちのカリカチュアですね。その背後にはリベラルではない秘密の欲望があり、その欲望が「現代的ファム・ファタル」としてのソレに向けられていく。ソレという美しい女性は、殺人の疑いをかけられ、夫のDVの被害者で、中国からの不法入国者で、強制送還と処刑の危険があり、ケアワーカーで、メンヘラで、サイコパス的な「かわいそうな女」なんですが、彼女はまさに、現代のリベラル男性にとっての「#metoo運動以降の交差的多様性の全部盛り的な詰め合わせとしてのファム・ファタル」という享楽対象なのでしょう。しかし最後には、ソレはそうしたヘジュンの支配的な欲望から、クラゲや人魚姫のように消滅=水没へと逃れ去っていった……。
 ヘジュンは優しくて温和で、妻の仕事にも理解があり、女性に料理を作り、セックスも契約と割り切って、煙草も吸わず、しかしワーカホリックで……というタイプのリベラルエリート男性なのですが、しかし彼の真の享楽的欲動は、「かわいそうな女」によって「殺されたい」(しかも転落死したい)というものです。別の事件の犯人である男性が、ヘジュンの目の前で、愛する女のために、ハサミを自分に刺して飛び降りて死ぬシーンがありますが、これはヘジュンの秘密の欲望を代行するものに見えた。ソレの最初の夫の登山と墜落死を追体験するシーン、そして終盤にはあたかもヘジュンが背中で「早く押してくれ、墜落死させてくれ」と誘うようなシーンもありました。
 男は山からの墜落死を望み、女は海での水死を欲望する。しかしこの構図にはジェンダー非対称性があって、男のヘジュンは自分一人で墜落死したい。でもソレの愛とは、二人で水没して共に海に還ることです。パク・チャヌク監督の作風には、復讐と愛が過剰化して分離不能になる、という傾向がある。映画の最後、ソレが海辺の砂浜に穴を掘って自己埋葬し、「未解決事件」そのものに生成変化するのは、愛の行為であると同時に最後の復讐でもあったのかもしれない。
 ただし、それも含めて『別れる決心』は、リベラル男性のロマン的欲望の圏内という感じもしました。それに対して、『ディック・ロング』には、最後の方でレズビアンの冴えない女刑事が「人間って測り知れないですよね」と呟くシーンがあるんだけど、あそこには救いのない現実それ自体がごろりと剥き出しになったような、現実を突き放す否定性の感触がありました。ジジェクの言葉で「無未満」という言葉がありますが、『エヴ・エヴ』的な虚無とも違う、いわば「虚無未満」の<現実>の過酷さ、回収しえない否定性がそこに露呈していた。リベラル主体の享楽性にも、家族啓発的な楽観主義にも、自然の循環や再生産未来主義にも吸収されえないようなもの。ダニエルズの作品は、Z世代的な交差的多様性の時代のセルフラブや家族愛を描きつつ、永劫回帰する虚無を生きるというニーチェ的な意志を示している。しかしさらに、それにも回収されないような「虚無未満」の、<現実>それ自体の救いのなさを描いている。それは藤田さんが言ったキレイごとではない、という話と通じている気がします。

藤田 『ディック・ロング』のジャンルは、コメディとヒッチコック的なサスペンスの組み合せというか、ジャンルの不確定自体を利用した作品なんですよね。ヒッチコックの『サイコ』の車を湖に沈めるシーンのパロディがあったりする。アリストテレスの頃から悲劇や喜劇はそうなんだけど、悲劇は立派な人たちが真面目に一生懸命やるけれど悪い結果になる、喜劇は全員が愚かなんだけど幸福な結果になる。『ディック・ロング』の世界は、アメリカの田舎が舞台で、みんなラリッてたりして、主人公たちも他の住人も異様に短絡的で、すぐにバレるだろうという罪の隠し方をするんだけど、捜査もなかなか進まない。女性の刑事もみんな愚か、犯罪をする人も捜査する人もみんな愚かなんだけど、愚か者たちの世界を肯定するという喜劇的な目線もあるんだと思うんですよね。ダメな存在のダメさをそのまま愛する目線と言うか。人間の業を肯定しようとする、落語的な目線だと思います。それに対して『別れる決心』は悲劇の方に行っちゃう。

杉田 『別れる決心』は、とにかく居心地の悪くなる、ヘンな映画ですよね。社会学的な、あるいはジジェク的な映画分析の中には回収できない奇妙なところがいろいろあります。

藤田 欲動の次元ですよね。刑事は建前的には被疑者と恋愛関係になってはいけないけれど、実際には欲望が刺激されてしまう。本音と建て前、法やルールと人間の生物としての次元の混ざり合いのようなものを描いている。それが、公と私を分離させることを前提とするリベラリズムへの批評になっているかもしれない。実際、本作は「可哀想な女」に欲情する話ですよね。こういう欲動や欲情が、実は「可哀想な存在」を支援する真面目な社会運動の動機にあるのかもしれない、という読み方をするのが、フロイト的な無意識の読解ですよね。その「可哀想な女」を演じて利益を得ようとする「狡い女」も現実にたくさんいて、実際結構人は騙されるわけですが、それを描いて現実のSNSなどの社会運動などを批判している、というところに留まらず、さらにその先に何段階か裏返るのが、本作の面白いところですね。

杉田 『別れる決心』がヘンなのは、たとえば、隠喩的なモチーフが色々出て来る……と思いきや、それがどんどん換喩的に、あるいは濫喩的にずれていくところです。例えば「霧」ですね。霧はこの世界の根源的な曖昧さのメタファーなのかと思っていたら、「タバコの煙」にずれて、さらに「原発的な何か」にもずれていく。そうした横ずれや重ね描きがたくさんあって、何気ないシーンに奇妙に高度な映画技法を使われたりする。作中に登場する絆創膏一つ、リップクリーム一つにも、文化的にも政治的にも色々な意味が重ね描きされて、しかもどんどん横ずれして、何を象徴するのか、しないのかが分からない。だから海=母性=死のようなロマン的な連想にも行き着かない。ヘンな作品ですよ。

 *【対談#2】に続く