見出し画像

【鼎談#3】沼野恭子×工藤順×石井優貴「幻の作家プラトーノフ」

『チェヴェングール』の刊行を記念して開催したトークイベントの模様を3回に分けてお伝えしていきます。

*前回までの記事はコチラ→【鼎談#1】 【鼎談#2】

■海外の『チェヴェングール』事情

沼野 一区切りついたところで、ちょっと回顧調になるかもしれませんが、この作品が英語に訳された時の話をしたいと思います。なにしろ『チェヴェングール』は英語に訳すのも難しい、何語にも翻訳できないと言われていた作品です。英語版は1978年にアーディスという出版社から出されました。とても有名な出版社で、カール・プロファーとエレンディア・プロファーというスラヴ文学研究者夫妻が立ち上げた出版社です。アーディスが設立されたのは1971年で、以後すごい勢いでソ連本国では出版できない作品を出版していました。沼野充義と私がアメリカに滞在したのが1980年代の前半でしたので、目を見張るような出版の流れを目撃したわけです。
 アーディスでは、ロシア語の本をそのまま出版するものと、英語に訳して出版するものとが半々くらいでしたので、西側のロシア文学研究者はこの出版社のおかげでいろいろな作品に触れることができたわけです。一方、ロシア本国にいる人たちにとっては、なかなか手に入らないテクストだったわけです。このように外国で出版されるものは「タミズダード」と呼ばれました。タム(tam)は「あちら」という意味で、ソ連国外ということです。『チェヴェングール』はまさに「タミズダード」としてアーディスから出版されたものでした。英語版の訳者はアンソニー・オルコットです。オルコットさんはプラトーノフ研究にも携わったようですが、結局、作家になられたようですね。

工藤 どうやら推理小説作家になったようですね。

沼野 研究者ではありませんが、非常に良い仕事をなさったと思います。1978年にアーディスは『チェヴェングール』とともにプラトーノフ作品集(“Collected Works”)も出しています。作品集の方はアーディス創設者の一人のカール・プロファーも訳者の一人として参加しています。もちろん亡命ロシア人作家や知識人がたくさんいたので、そのニーズは大きかったのだろうと思います。『チェヴェングール』やその他のプラトーノフ作品をロシア語と英語で出版することは、アーディスにとって大事なことだったのでしょう。

工藤 それに関して伺いたいのですが、『チェヴェングール』の英語訳が出版されたのが1978年、ロシア本国で原語版が出版物として流通したのが1988年なので、10年のギャップがあるわけです。翻訳にあたっては、原稿を密輸するような形でアメリカまで運んだということなのでしょうか。

沼野 遺族の方か知人友人が持ち出したのではないかと思います。それがまた逆にソ連に渡って、「サミズダート」(自費出版、地下出版)として読まれたのではないでしょうか。

工藤 沼野先生がアメリカでロシア文学を研究されていた当時、プラトーノフについて話を聞いたりされたことはありましたか。

沼野 当時私はまだ研究者とは言えませんでしたが、ハーヴァードの大学院でプラトーノフ研究をしていた人がいたかどうか覚えがないです。私が知っているところでは、ソ連本国でプラトーノフの素晴らしさにいち早く気づいていた人の一人がレフ・シュービンという研究者だったということです。彼は早く亡くなってしまい(1983年)、その奥様がエレーナ・シュービナさんなんです。シュービナさんは今でも大活躍していますが、彼女が夫レフの死後、彼の本を出版しています。

工藤 編集者の方ですよね。最近出たプラトーノフの書簡集の版元も、エレーナ・シュービナ編集局でした。

沼野 エレーナ・シュービナは、ペレストロイカ以降、資本主義がどっと押し寄せて経済的にソ連が大変だった頃、当時としては唯一と言っていいくらいの素晴らしい文芸出版社「ヴァグリウス」の中心的メンバーとして現代ロシア文学を次々に出版しました。その後、「アスト」という大きな出版社に引き抜かれ、彼女の名を冠した「エレーナ・シュービナ編集局」として良い作家を次から次に発掘しては世に送り出しています。現代ロシア文学を研究している人で知らない人はいないという人物ですが、彼女の原点はプラトーノフだということを言いたかったわけです。

石井 英語版の既訳は我々も参考にしました。でも英語版には、正直、腹が立ったことがあります。というのは、結局のところインド゠ヨーロッパ語族同士なので、単語を機械的に入れ替えていけば翻訳っぽいものができるんだな、と。だから「本当に意味が分かって訳しているのかな」という箇所がとてもたくさんあって、「これはダメだ」と、お手本としては途中で見放しました(笑)。

工藤 私たちも専門家ではないので、私たちの訳にも粗は必ずあると思いますが、註のつけ方はかなり丁寧なんじゃないかとひそかに自負しています。ヨーロッパ言語の翻訳は、「これでちゃんと読めるのかな」と思うくらいに註釈がありません。私たちの日本語版くらいしっかり註釈をつけたのは珍しいんじゃないかな。

石井 日本語というまったく違う言語に訳すにあたり、単語を統一しようといったような、基本的なコンセプトを定めて、読者がきちんと読めるように提示する工夫をしています。ですから、かなり読みやすくなっていると思います。そこは非常に気を配ったところですよね。多分英訳よりは良いのではないかと思ってます。

■プラトーノフに魅せられた人たち

沼野 プラトーノフが大好きという人がいるかもしれませんので、プラトーノフ水脈という呼び方をするならば、そのあたりについて話せたらと思います。この翻訳版に彼らのテクストが付いていますが、スラヴォイ・ジジェクや、「プラトーノフになりたい」とまで言っていたパゾリーニが挙げられます。その他ロシアにおいて考えると、アレクサンドル・ソクーロフ監督がプラトーノフ作品を映画化していますね。

工藤 ソクーロフのデビュー作である『孤独な声』(1978)ですね。この作品は、「ポトゥダニ川」というプラトーノフの短篇(1936)と、部分的に『チェヴェングール』をモチーフにした、と監督本人が語っていますね。

沼野 また、ペテルブルクで出版された『チェヴェングール』豪華版(Vita Nova社、2008)に挿絵を提供している才能ある芸術家スヴェトラーナ・フィリッポワも挙げられます。

工藤 フィリッポワさんは、アニメーション監督でもあるようです。奥行きのあるモノクロームで、一度観たら忘れられないような絵柄の人で、『チェヴェングール』の雰囲気にピッタリの絵です。2021年に出たブラジル(ポルトガル語)版は豪華版を元にして作っているようで、フィリッポワさんの挿絵が大々的に採用されていました。

沼野 ユーリ・ノルシュテインという世界的に有名なアニメーション作家がいますが、フィリッポワさんは彼の弟子のようです。弟子だからと言って直接的な影響下にあるかどうかはわかりませんが、すごくいい絵でピッタリですよね。

工藤 弟子といえば、ソクーロフの弟子でカンテミール・バラーゴフという若い映画監督がいます。『戦争と女の顔』(2019)という作品が日本でも公開されましたが、バラーゴフさんはインタビューでプラトーノフに影響を受けたと語っています。特に『幸福なモスクワ』という未完に終わった長篇が好きらしく、いつか映画化したいと語っていました。『戦争と女の顔』は戦争と暴力の話で、観るのがかなりしんどい作品です。直接的に戦闘シーンが描かれるわけではないのですが、戦争が心をどのように破壊するかが緻密に描かれる、非常に重いテーマの作品です。映画の中で、たしかにプラトーノフの影響を受けていると思われるところもありました。例えば、ちょっと変わった台詞づかいや、人間が空虚な容れ物であるかのように表現される主人公の女性の造形といった点です。

沼野 この映画は、ベラルーシのノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによるノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』を原案にしているとも言われますが、実はほんの少しなんです。バラーゴフ監督はそこからインスピレーションを受けて素晴らしい映画作品に作り上げています。この映画はすごくお薦めですし、要注目の監督ですね。

工藤 バラーゴフ監督は1991年生まれなので私たちと同世代ですね。

沼野 工藤さん・石井さんも含めてそういう才能のある若い世代がどんどん出てくればいいなと思います。ただ、バラーゴフ監督は、ウクライナ戦争に反対の立場なのでロシアにいられなくなり、現在アメリカに行っています。

石井 質問していいですか。パラーゴフ監督の作品にはある種の空虚さがあるということでしたが、少し詳しく伺いたいです。

工藤 私は『戦争と女の顔』しか観ていませんが、少なくともこの作品では「空虚さ」が印象的に表現されていると感じました。さっき言った台詞づかいのことについていえば、「私は空っぽなの」という台詞が出てきますし、またこの映画のストーリーは、戦争に従軍した親友同士の女性2人が戦争から帰ると、1人が子どもを産めない体になっていて、代わりにもう1人の女性に「子どもを孕んでくれ」と持ち掛ける…というもので、孕めないということが身体の空虚さとして表現されています。

沼野 「私は空っぽ」という台詞には二つの意味があると思います。一つはプラトーノフ的な空虚さ、もう一つは子宮の中に子どもがいないという意味です。この多義性がプラトーノフ的なのではないでしょうか。

石井 質問したのは、プラトーノフを受容する人たちの多様性について話せればと思いまして。バラーゴフという明らかに反戦的な人がいる一方で、例えば、プーチンのウクライナ侵攻の影響元なのではないかと取り沙汰されたりしている、アレクサンドル・ドゥーギンというロシアの極右思想家がいます。彼もプラトーノフの『チェヴェングール』を絶賛しているんですよね。

工藤 そうなんですよね。日本語版の出版後に、ミハイル・エプシュテインというロシアを代表するポストモダン思想家の文章を見つけたんです。ドゥーギンの批判が主旨なのですが、ドゥーギンは『チェヴェングール』を引き合いに出して自分の思想を語っている、という指摘がありました。

石井 ドゥーギンが『チェヴェングール』を良いと言っている理由も、まさに空虚さなんです。「人間の本質は空っぽだ」というところがいいらしいんですよね。何故なら、ロシア人のアイデンティティとは「人間は空っぽである」という本質を理解していることだから、と。おそらく、ソ連崩壊の頃のロシアなども念頭に置いているのだと思います。完全に社会の底が抜けて何もなくなってしまった、そういう状況を経験したロシア人だからこそ、人間の本質は空であることを理解できる。そして、それを描けているからこそ『チェヴェングール』を評価しているわけです。まあ、ドゥーギンはおかしな人なので、それ故にロシアには世界を地獄に変える使命がある、というようなことを言い出すんですが。
『チェヴェングール』には、そういった人にも興味を持たれる何かがある。あまり胡散臭いことを言いたくないのですが、もしかしたらロシア人は皆ここにロシア的なものを見出すのかな、と思ったわけです。まったく立場の違う人でも似たようなところに着目するわけですから。

工藤 歴史を振り返ると、ロシアの社会は1917年のロシア革命で空っぽになり、1991年のソ連崩壊でもう一度空っぽになったという回帰的認識があるのかもしれません。たしかに、そういう「底が抜けた」経験をしてきたところにロシアの特異性はありますね。

石井 プラトーノフの作品は多義的ですが、それが良いことばかり引き起こすわけではないのですよね。

沼野 極右でも左派でもプラトーノフを好きになるのはもちろん自由ですが、プラトーノフの思想はすごく実存的じゃないですか。だから究極的には政治的なものではない気がするんです。ドゥーギンは自分の思想に都合よく使っているだけだと思います。

工藤 プーチンの愛読書が『チェヴェングール』だなんて情報が出版前に出たらどうしようと思ってましたが、なくてよかったです。とはいえ、ウクライナ侵攻を例にとっても、ロシアに同情的な意見はすべて「悪」で、ウクライナに同情的な意見は「善」というような、単純すぎる見方がよく見られるじゃないですか。けれども、沼野先生が最初に仰ったように、人間の心は「白か黒か」じゃない、割り切れないものです。プラトーノフの「空虚」それじたいは善でも悪でもなく、その空虚をどう考え、どう埋めるかというところに、読む人じしんが滲みでるのかな、と。「チェヴェングール」をディストピアとして捉えるか、ユートピアとして捉えるかという問題にも同じことが言えると思いますが、『チェヴェングール』という作品はプラトーノフが読者の前に置いた「鏡」と言ってもいいのかもしれません。

*これまでの記事コチラ→【鼎談#1】 【鼎談#2】