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【対談#1】藤田直哉×杉田俊介 『すずめの戸締り』とはなんなのか?――徹底討論

*注意:この記事にはネタバレが含まれています

二〇一六年の『君の名は。』で二五〇億円を超える興行成績をあげ、日本映画の歴代興行成績二位に躍り出た監督・新海誠(現在は三位)。その影響力はもはや国民的と言うべきであろう。次作『天気の子』も一四〇億円を超える成績を挙げ、広範な支持を得ている。アメリカのアカデミー賞への招待、『君の名は。』のハリウッドリメイク、国際的な映画祭での受賞等々、国際的な評価も高い。二〇二一年一一月一一日公開『すずめの戸締り』は、ロングランヒットを続けている。
気鋭の批評家二人が、初期作から最新作まで、政治・社会的なテーマをも織り込んで、その魅力について徹底討論。その模様を2回に分けてお伝えしていきます。

■ポスト批評時代のアニメーション映画

杉田 藤田さんが『新海誠論』を出されてから、結構過ぎました。新刊の反応はいかがですか。

藤田 まだそれほど多くはありません。小川公代さんや荒木優太さんら書き手の方々からのリアクションはいただくのですが、一般の新海誠ファンからのリアクションはまだあまり届いてません。読書メーターに付いた感想は、民俗学にお詳しい方で、新海誠の民俗学の使い方の問題も批評した方がよかった、というコメントでした。それは、そうなのだろうと思います。むしろ、本書のその部分をこそ抉って欲しいと思って待っているのですが、それはなかなか来ませんね。
 知り合いから届いた感想としては、新海誠がこういった大事なことを知っている作家だとは思わなかった、あるいは、アニメに対するイメージが変わった、とおっしゃる方もいました。公共的な活動、地域の活動をされている方が『新海誠論』を読んで感銘を受けてくださるというか、新海誠という国民的作家のこれまとは違う質、宮崎駿とは違う可能性を見出して熱烈なメッセージをくださる方が多かったです。新海誠の旧来ファンが納得してくれているのか、『君の名は。』(2016)以降に新しくファンになった若い人たちがどうリアクションしているのか、はまだ見えないです。「多くの人が抱いていた新海誠イメージを覆した! すごい!」となるかと思ったのですが(笑)。ちょっと残念ですね。

杉田 映画の内容だけではなく、映画を取り巻く「現象」や「環境」を含めて分析することが当然のような批評状況になりました。たとえば2016年に庵野秀明『シン・ゴジラ』、新海誠『君の名は。』、片渕須直『この世界の片隅に』などの傑作が一斉に公開され、国内のポリティカル・フィクションが新たなブレークスルーを起こしたように感じます。メディアやSNSでもプロかアマチュアか、有名か無名かを問わず、多くの人々が感想や批評を発信し、それが集合知のように機能しています。
 もちろん観客や批評者の側もそうした「環境」あるいは「現象」の中に否応なく取り込まれているわけで、そうした「環境」「現象」に対するメタ的かつ自己言及的な批評を試みることも不可欠になりました。『シン・ゴジラ』などは、作中にあらかじめ、ゴジラがSNSで拡散されるという映像論的環境をも取り込んでいました。そこにはフィードバック的な循環構造があって、「ポスト批評(クリティーク)」的な状況とも呼ばれます。
 『すずめの戸締まり』もまず、そうしたポスト批評時代のアニメーション映画と言えます。PRの仕方にしても、先行上映で有力な評論家たちに映画を観せて、公開と同時に評論をネットに公開する、という方法を取ったように見えました。悪評が出回らないように、SNS対応も先手を取ったのでしょう。ネタバレ禁止で、具体的内容に触れず、「よかった」「感動した」という空気を拡散するわけです。『天気の子』(2019)の時と比べても、『すずめの戸締まり』を「日本の社会現象」にしたい、という強い意志を感じました。国民的議論を巻き起こして、映画としての良し悪しだけではなく、未来の日本をどうするのかという問題提起をしたい、と。
 東日本大震災や地方の衰退や少子高齢化、そしてジェンダーや天皇制・民間神道の問題などの社会的・政治的問題をはっきりと主題化していますね。他方でそのぶん、映画とMVを織り交ぜるようなこれまでの新海的な技法は控え、「普通の大衆的な長編アニメーション映画」のフォームに近づけています。いずれにせよ、新海監督は大きなボールを投げてきたな、と思いました。もちろん、以前から新海ファンを魅了してきた性癖的なものや、観客の解釈や考察を誘発する様々な文化的アイテムも詰め込んでいます。

藤田 今は、映画等のエンターテインメントのコンテンツはSNSを巻き込んだ参加型が当たり前の方法になりました。例えば『この世界の片隅に』はクラウドファンディングという形で参加する仕組みでした。『シン・ゴジラ』なども、解釈・考察に観客を巻き込むことを逆算して作っていますね。『すずめの戸締まり』もそのような考察を誘導する参加型に作られてることは間違いないと思いますが、しかし、その狙いが社会の公共の議論を誘発するところにあるのが少し違うのかなと。監督のティーチインもたくさん行われていますが、震災後に多くの映画が行ったような、コミュニティにおける議論を活性化させるタイプの作品群を思わせます。
 つまり、対話的なんです。それは、作品の内部においてもそうですよね。例えば、かつての『君の名は。』に対する「死者を蘇らせるのはどうなのか? 震災を簡単に美化する装置として機能するのでは?」という批判がありました。――というか、僕がしたわけですけど。それを受けて、『天気の子』では応答したと監督は答えています。つまり、現実を美化して誤魔化すという批判を受け手、東京のネガティブな部分や、貧困や気候変動等の社会派的なテーマという暗い部分を見せるということをやってきた。新海誠はかなり批評や批判に対して応答していく人で、ずいぶん対話的に作っている部分があると思います。
 元々、新海誠はじつは、批評というジャンルが好きな人ですよね。1作目の『ほしのこえ』(2002)では大塚英志が非常に反応して本を作ったりしていますし、大塚の創刊した『新現実』に新海は漫画を掲載しています。2作目の『雲のむこう、約束の場所』(2004)の主人公の名・藤沢浩紀は東浩紀から取られていると言われています。『星を追う子ども』(2011)では、大塚英志の物語論、神話の構造についての見解を取り入れている。そのように、批評を取り込んでいくタイプの作家なんです。民俗学についても、大塚英志による、サブカルチャーの中に民俗学的なものを見る、という構えの影響を受けているのではないでしょうか。

杉田 なるほどね。

■東日本大震災のエンターテインメント化?

藤田 『すずめの戸締まり』の対話的な側面の挑戦は、東日本大震災をエンターテインメント化したことにあるでしょうね。そのことから予期される批判、被災者たちの怒り、クレーム、反撥などを、あらかじめ周到にディフェンスしておく内容の作り方をしていて、その点が非常に緻密に作られていますね。
 論争的、対話的に相手の反応を予期して作中に組み込んだ作品を、ミハイル・バフチンは「カーニヴァル」と呼びました。そこで典型例に挙げられているドストエフスキーの小説は、もっと登場人物が論争し合ってぶつかる内容になるのですが、この作品の場合、表面的には全部がツルっとしていて論争的ではないという違いがあります。
 ミミズは悪いけれども、対話はできない。ダイジン、サダイジンも悪い奴っぽかったですが結局、遊びたかっただけだった。唯一、対立が顕在化するのは環という叔母と鈴芽の間だけですが、サダイジンのせいで悪い気持ちが引き出されてしまったようだ、ということに外在化され、対立や軋轢が顕在化していきません。いわゆる「ドラマ」、つまり人間同士がぶつかって衝突して、対立と葛藤が構造化されている、という意味でのドラマではない。むしろドラマがかなり削られて人との関係性が滑らかである、ドラマ的な対立やギャップが生じないように作品が構成されています。
 その性質が、「天皇」に似ているわけですよね。国民の対立や矛盾を、情緒的かつ文化的な一体感によって糊塗する装置としての天皇、ということですが。あらゆる人に配慮して、あらゆる人を不快にさせないような作品を作り、あらゆる世代、あらゆる層に届けるという興行的目的を達成するために、結果的にアニメ界の天皇のような作品が出来てしまった。実際にあちこちを巡幸して幸を与えていく内容にもなっていますよね。現実でも、天皇が巡幸するとインフラが整備されるわけですが。ある種、本作は、平成天皇のようなリベラル天皇的な「なめらかさ」の作品だと思います。

杉田 主題として天皇を扱ったというだけではなく、作品の構造自体が「天皇的」ということですね。

藤田 言語で衝突したり政治的にぶつからないというのは、「日本的」な言語感覚、対人感覚なのかもしれません。同時代的に言えば、ラディカル・デモクラシーの時代において、人々の「敵対性」が顕在化しぶつかり過ぎて疲弊したというネガティブな状況に対し、情緒的、感覚的な共通性、繋がりを作ることでその問題性を克服する、という新海誠の現代への批評なのかもしれません。そこが本作の可能性であると同時に、危うさでもあります。
 とはいえ、作中人物たちの対立がない一方で、SNSなどでの潜在的に論争を引き起こしそうな「仄めかし」が大量に仕込まれている、というのが本作の構造の面白いところですね。一番大きいものは東日本大震災を扱ったこと。小さいところで言えば、一瞬、福島第一原発が写るところ、東京の後戸がおそらく皇居の地下にあること、そしてジェンダーですね。
 鈴芽と草太の関係は、これまでの新海作品と比較すると、ジェンダーが反転されていています。これまでは神秘的な巫女的力を持つ、おとなしくて本が好きなヒロインと男の子でしたが、今回はスピリチュアルな巫女的力を持ち、本を読むのが男のヒーローで、女の子が男の子を救いに行くという構図です。元々はシスターフッド的な話にするはずだったらしいので、なにかジェンダー的な主張が潜在的にあるのは間違いありません。古い家父長制的なものを単純に肯定していると思えないですね。日本の「保守」的な意匠を使っているように見せながら、それを批判するようなものも仕組まれているけど、全て「声高」ではないわけです。その戦略が、極めて興味深いなと感じます。

杉田 観客や視聴者の体系的解釈、陰謀論的謎解きを誘発するように作品世界を構築し、設定を細かく作り込む、というのは、庵野秀明などが戦略的に試みてきた手法だと思います。作品解釈を通して、観客の解釈共同体が作られていく。聖書ではなくアニメによる解釈学的な循環があるわけです。
 近年ではたとえばホラードラマの『フェイクドキュメンタリーQ』、あるいはホラー漫画『裏バイト:逃亡禁止』などが個人的には印象的でした。『Q』では、普通に映像を観ただけでは理解できない要素が仕込まれていて、コメント機能で視聴者が解釈を展開し、参加し、集合知的な力を発揮することで、はじめて作品世界が成り立っていく。この話とこの話はじつはこう繋がっていて、全体を統合する「真の謎」があるのではないか、というふうに。陰謀論的な解釈共同体を触発し、視聴者や観客の欲望を取り込んでいるわけです。ただ、そうした形での参加型・解釈共同体型の作品は、カルト宗教的な欲望やQアノン的なサブカル政治的な欲望とも似通ってくるので、危うい面もあります。
 しかし今回の『すずめの戸締まり』の場合は、そうした庵野的な戦略とも少し違う気がしました。様々な社会問題、政治問題を愚直なほど取り込んでいますし、藤田さんは「対話型」とおっしゃったけれど、ある種の弁証法的な構造になっている。
 つまり近作は災害三部作とも言われますが、『君の名は。』では歴史修正によって地方都市の災害が無かったことにされた。『天気の子』では、気候危機による東京の水没という緩慢な破局はどうにもならないけれど、特定の誰かを人身御供にするような日本的システムを拒絶し、どうにもならない現実の中でも生き延びていこう、それで「大丈夫」、という身も蓋もない話になった。そして今回の『すずめの戸締まり』では、あらためて日本中の災害や荒廃と向き合いながら、天皇制的なものとシスターフッドの力を使って、未来の明るい日本を肯定的に描こうとした。三部作は「災害弁証法」的な展開を見せたとも言える。
 新海誠の近年の作品は、庵野秀明のように作品世界や設定の謎を陰謀論的に解釈させるというよりも、作品と社会の「関係」自体を思考させ、内省や議論を促すような方法を取っているように思えます。特定の新海ファンだけ、アニメファンだけではなく、大衆一般を巻き込んで、映画と日本社会の関係自体を多事総論したくなるという欲望を引き出す。そうした作られ方をしている。まさに現代日本のポリティカル・フィクションだと思いますね。
 一方ではそれは天皇制ナショナリズム、あるいは災害ナショナリズム(災害のトラウマを共有することによって国民の一体感を強めるというナショナリズム)のようにも感じられます。フェミニティやジェンダーについても、表面的にはシスターフッド的にも見えるけれど、近年のディズニーやマーベルの作品と比べると、いかにも曖昧で中途半端であり、通常の異性愛的な作品にも感じられる。その曖昧さがまた議論の対象になっていくわけですが。
 細田守監督は確か「誰もが自由に入れる公園のような公共的なアニメーション映画を作りたい」と言っていましたが、新海誠もいわば人々の社会的・文化的な議論や多事総論を喚起するための「公共財」のようなアニメーションを作りたいのかもしれません。

■ゲーム的作風

藤田 参加者が「断片」を元に、作品の物語や世界観を再構築していくというのは、ゲームにおけるナラティヴの基本なんですね。『ひぐらしの鳴く頃に』や「Project:;COLD」などは、SNSを巻き込んで、おっしゃるような解釈共同体を作っていました。そして、それらのナラティヴが、ゲーマーゲート、Qアノン、暇空茜らのような、陰謀論的な「政治のゲーミフィケーション」に繋がっていくのが現在の問題ですね。それは『ゲームが教える世界の論点』という本で扱っています。
 そして確かに、新海誠はそれとは違うわけです。むしろ、そのような集団分極化を防ぐための、オープンな対話のプラットフォーム、もっと容易く言えば「議論のネタ」を提供しているように思うわけです。たとえば『天気の子』の際に、世代ごとに作品の見え方が違うことは意識されていたようです。親の世代と子どもの世代の見え方は違うので、親子で対話や議論をすれば良いと考えていたようです。『星を追う子ども』(2011)もそうで、登場人物の森崎竜司に感情移入する人と渡瀬明日菜に感情移入する人は多分違うでしょう。

杉田 確かに新海監督の場合、「ゲーム的」という側面は強いですよね。

藤田 日本のエンターテインメントは、昔から感情移入できるレイヤーを何層も仕掛ける作り方をしてきたと思います。原恵一監督の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001)でも、子どもはしんちゃんに、大人は大人のみさえ等に感情移入して泣くという二層構造になっていました。そして話し合うことで、互いに「ああそうだったんだ」と分かる。つまり一人の人間が作品全体を把握できないように作ってある、ある層だけを見ても楽しめるようなマルチレイヤーで作っているんです。その層の作り方が驚くべきなんだと思います。それは日本の大作エンターテインメントの方法なんですが、それが、同じ世界に生きているのにそれぞれに違う「現実」を見て生きて分断されている僕らのあり方を体現するように使われているわけです。だから、作品についての議論が、それらの分断をつなぐ機能を果たすことになるはずなんです。
 例えば、ミミズを止めるアクション伝奇バトルとして見る人にはそれでいい。『君の名は。』や『天気の子』もそうでしたが、単なる恋愛ものとしてだけ見る人にはそれでいい。でも、見る人によっては背後にある災害、貧困、震災の問題が見える。人に応じて見えるレイヤーを積み重ねていくという作り方は、エンターテインメントで積み重ねられてきた技術でして、多くの観客を楽しませなければいけないという映画の興行的な条件の中に、難しいことや大事なことを入れたり芸術的な狙いを実現させる手法が洗練されてきたわけです。それは啓蒙的な動機に因る部分もあるだろうし、新海監督が影響を受けた宮崎駿監督の場合だったら、子どもたちに無意識的に大事なことを伝えるためだった。それは、映画という大衆エンターテインメントの宿命と限界、それでも果たすべき使命を考えてのことなのではないかなと思います。
 共通の議論の材料になるように大作的、国民的に作り、皆が見て、それによって意見を対話させることで公共圏を発生させるというか、民主主義的なものを促進させる。杉田さんもおっしゃったように、分断、対立が起きている現代の世界において、リベラル・デモクラシー的なものを機能させたいと思ってのことだろうとも思えます。

■ジェンダー的側面

杉田 すでに何度か言及してきましたが、『すずめの戸締まり』では、天皇制・民衆神道的なものとジェンダーの問題が切り離せません。天皇だけを論じてもダメだし、ジェンダーやシスターフッドだけを論じてもダメ。そういう作りになっています。前作の『天気の子』でもすでに、特定の巫女的少女を人柱=人身御供にして、最大多数派の最大幸福を維持するような社会秩序が批判されました。それは日本のアイドル産業や、ある種の性的搾取に対する批判をも含意していました。
 『すずめの戸締まり』では、『天気の子』の人柱的システムへの疑念がさらに展開されて、日本社会の根幹としての天皇問題に切り込むに至りました。しかも、男性主人公が女の子を救うのではなく、関係が逆転しました。
 鈴芽が救い出そうとする草太は、国家神道の天皇ではなく、民間の草の根のいわば「エッセンシャルワーカー天皇」のような存在です。閉じ師の仕事はお金にならないらしく、大学で教員を目指している。二重の意味で自己犠牲的な男性です。天皇制的な犠牲のシステムに組み込まれつつ、資本主義を支えるためのダーティワーク、アンペイドワーク(無償労働)を強いられている。
 女性の皇位継承問題はずっと論じられてきて、素人の僕には簡単に何も言えませんが、鈴芽の立場が少し曖昧にも見えました。同年代の女の子から中年女性まで、日本各地の女性たちの力をあたかも『ドラゴンボール』の元気玉のように結集して、古代的な女帝の力によって草太を救出したようにも見える。つまり天皇制の構造を補完あるいは強化している、と。けれども他方では、男であれ女であれ誰であれ、誰かの人身御供によって成り立つ犠牲的システム自体を批判しているようにも見える。その点では反天皇制的でもある。しかしまた別の角度からいえば、男性と女性が協力し、男女平等なリベラルな新時代の天皇制を目指しているように見えないこともない。
 さらにいえば、『すずめの戸締まり』で描かれているのは国家神道的なのか民間神道的(大衆的なコスモロジーやオカルト的なものも含めたもの)なのか、そこにも微妙な曖昧さがあります。そのどちらでもあるし、どちらでもないのかもしれない。実際に小説版のテキストでは「後ろ戸」が皇居の下にある、とはっきりと書かれているけれど、映画版ではそこがいささかぼんやりしている。

藤田 それはどうもご本人のご発言を読むと、コンプライアンスの問題でできなかったらしいですよ。

杉田 そうなんですね。いずれにせよ、鈴芽の力は女帝的なものなのか、男性天皇をヘルプする巫女的なものか、それとも人柱システム自体を否定する皇室離脱的な道を指し示しているのか。フェミニズムやシスターフッドの主題についても、かなりぼんやりした部分があります。
 藤田さんはこの辺りはどのように解釈されていますか。

■「曖昧さ」をどう考えるのか?

藤田 「曖昧さ」に関しては、基本的に日本の大衆エンターテインメントにおいて、問題提起がメタファーで行なわれる傾向があることは指摘しておくべきかなと。それは『ゴジラ』(1954)の時からそうです。『ゴジラ』は戦争と核兵器が怪獣の形で現れて、それはある意味で戦後日本を占領していたアメリカに対する批判なわけで、ダイレクトにやると政治的にリスクが高い内容を「これは怪獣だから」と誤魔化してやっていたわけですよね。戦後日本のエンターテインメントでは、そのようなメタファーを使って政治的でダイレクトな議論を回避しながら、公論を喚起したり何か大事なことを伝えようとするテクニックが洗練されていきました。
 もっと元を辿れば、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』や、奴隷のようなプロレタリアの象徴としてロボットを描いた『R.U.R.』もそうなんですよね。それら、政治的緊張感の中で鍛えられた表現のテクニックなので、曖昧になるのは確かだと思います。しかし、それは正面衝突的な論争がしにくい日本の空気の中で、なんとか議論を喚起するための技でもあるわけです。

杉田 大江健三郎の『あいまいな日本の私』の言い方を借りれば、「あいまいさ」と言っても、川端康成的な「美しい日本」をぼんやりと審美化するようなvagueと、日本の分裂や引き裂かれた状態を引き受けるがゆえのambiguousの違いがある、ということですよね。

■「国粋主義的なウルトラナショナリズム」作品なのか?

藤田 それを前提とした上で、今作の天皇や原発やジェンダーの問題をどう解釈するのかは、なかなか難しいことだと思います。特に天皇は、新海誠が「天皇主義者」になったのか? と、ちょっと心配になりました。良く知られている通り、これまでの新海作品でも神道やスピリチュアル的な意匠は扱われていました。それを「ニュータイプの日本浪漫派」と僕は呼んでいるのですが、戦前の日本のように国粋主義的なウルトラナショナリズムに結び付いたら怖いなという危惧があります。
 それに対し、『新海誠論』では、新海誠の加担しているのは「古層」の神道であって、周縁であり、少数派、敗北者である蝦夷や縄文などに肩入れしているので、いわゆる国家神道的なものとは、結びつかない、という結論を書きました。
 たとえば、二作目『雲のむこう、約束の場所』のスピリチュアルな女の子は青森のイタコをイメージしていたと言います。新海誠自身は諏訪の出身です。諏訪は、縄文的な文化が色濃く残っている地域であり、弥生的・朝廷的な文化からすると、周縁の文化ですよね。
 新海誠は国家神道や天皇に集権化される以前の古いタイプの自然信仰に拘っているから、国家神道的な戦前の日本浪漫派とは違うものになるのでは、と『新海誠論』で書いて、それを書いたあとに、『すずめの戸締まり』の小説版が刊行されて、それを読んだら天皇が出てきたので、「これはどうしたことか?」と少々解釈に迷いました。
 ティーチインによると、中沢新一の『精霊の王』を参照してようなのですが、それによると、「後ろ戸」の神とは、諏訪や縄文に繋がりのある日本の古層の神、芸能の神のようなのですよ。そして『精霊の王』によると、政治的・世俗的権力は、閉じ師のような、自然の持つ超越的な力を鎮めて自分たちの力とする存在に裏支えされていた、と。だから皇居の地下に後ろ戸があるわけですが。「天皇という王権そのものが、芸能者や職人の日々おこなっている業とよく似た性格を持っている」「天皇とは政治の領域における一人の宿神にほかならないのである」(p.206)とあるので、単純に「天皇陛下万歳」というよりは、世界をなんとかしようとしている民間の人々をこそエンパワーメントする機能の方が強いのではないか、中央集権的ではなく、むしろ天皇をも相対化する、民主的な方向なのではないか、と思われるんです。
 おっしゃった通り、『天気の子』では難民、非正規雇用、身分のないホームレスとしての主人公と、親がいない孤児でセックスワーカーになりかけた、アイドル産業に犠牲にされたような女の子がいて、全体が明るくなるためにその貧困層が犠牲にされた結果、主人公は警察に銃を向けるテロリストになり、社会や世界に叛逆してその犠牲を止めるという内容でした。今回も、草太は要石となって犠牲になるけれど、鈴芽がそれを止めるという内容ですね。
 新海監督はティーチインで「閉じ師は裏天皇だ」と発言したようですが、つまり皆を守るために人知れず犠牲になり戦ったり祈ったりしている人ということですよね。原発作業員かもしれないし、震災のあった地方に行くと、防災や儀礼祭のためにみんながいろいろなことをしているわけですが、そういう人たち全般のことかもしれない。自衛隊隊員等も含め、左右関係なく次の危機のために備え、人知れず何かをしている人すべてを、ある種聖なる存在、偉大な存在として描きたい、その連帯の回路を作ろうとしているのではないか、と僕は理解しました。
 女性天皇云々はちょっと分からないですが、そのような自己犠牲的というか、バーンアウトしてしまうような人たちの責任と負担を分散させたい、という願いはあるように感じました。実際、この映画を通じて啓発される人が増えれば、それは実現するわけです。男性を、能動的な女性が救いに行くというジェンダーの描き方から考えると、自己犠牲的で過労死してしまような家父長制的な日本のあり方を変えて、いわゆる「ケア的」な社会や国家に向かわせようとする狙いのように僕は感じます。

■デジタルネイチャー的な時代の自然回帰?

杉田 藤田さんとしては、新海監督は天皇的なものの古層にあるようなポジティヴな可能性を引き出している、という解釈の方に傾いているわけですね。

藤田 天皇的というか、それ以前の、アニミズム的・縄文的な次元の感覚の可能性ですね。そちらの最良の可能性を読み取った方がいいだろうと。

杉田 かなり個人的な関心なんですけど、僕はこれまで宮崎駿原理主義者を名乗ってきました。ここ数年、『戦争と虚構』『ジャパニメーションの成熟と喪失』等の著作で、庵野秀明や細田守、新海誠についてもある程度書いてきましたが、今回『すずめの戸締まり』を観終えて一番驚いたのは、自分は新海誠が好きだったんだ、と気付いたことです。今まで僕が書いた新海論は、どちらかといえば批判的なものばかりですが、批判を通して新海監督が好きだったのか、と……。
 今年(2022)の春に、丸山眞男の複雑な弟子だった政治思想史家、橋川文三についての『橋川文三とその浪曼』という本を刊行しました。橋川は、安田財閥の祖である実業家の安田善次郎を暗殺した朝日平吾という、見方によっては山上徹也を想起させるような人間について批評しています。そこにあるのは、非モテ、インセル、フリーター青年のような人間の鬱屈と暴力の問題です。実存的に鬱々とした煩悶青年が、その延長上で、天皇を頂点とする超国家主義(ウルトラナショナリズム)に呑み込まれていく、という構造的パターンがあります。
 超国家主義者は、一君万民型のナショナリズムを信奉します。つまり、政治家や資本家が腐敗して格差社会化していく中で、天皇という究極の存在を持ち出すことで、それ以外の全ての人間は平等であるはずだ、というヒューマニズムを確保できる。
 ブルジョア革命を起こせず、ルソー的な政治的一般意志を形成できなかった近代日本においては、平等なナショナリズムを疑似的に夢見るには、天皇という美的で文化的な一般意志を持ち出すしかなかった。この辺は三島由紀夫の文化天皇論もそうですね。そうした政治と文化のambiguousな屈折がつねにあった。天皇主義はその点では、たんなる狂信ではありません。近代日本の独特の困難を背景にしています。事実、近年ではリベラル左派ですらも、日本の政治的腐敗を批判するために、リベラル天皇制を持ち出さざるをえなかった。
 あるいは、先ほど藤田さんも言及した戦中の日本浪漫派のことですが、その最大のイデオローグだった保田與重郎は、ドイツロマン派から「ロマン的イロニー」の方法を導入し、周囲のあらゆる事物を批判し嘲笑することによって、逆説的に自分たちのぎりぎりの精神性を保つ、というスタンスを昭和初期に展開していました。しかしそうした嘲弄的で自己破壊的なイロニーは、戦争の進展から戦後にかけて、日本伝統の米作りを通して絶対平和を実現すべきだ、というコミュニティ建設の方向へと転向していきます。ここでも煩悶鬱屈型の青年がウルトラライトに軟着陸するわけです。これは藤田さんも言うように、『シン・エヴァンゲリオン』(2021)における、デジタルネイチャー的な時代の自然回帰としての「第三村」のイメージともかなり重なります。

藤田 そうですね。日本浪漫派と「第三村」については『シン・エヴァンゲリオン論』の中で書きました。

■『秒速5センチメートル』から「転向」したのか?

杉田 何が言いたいかというと、ゼロ年代的な批評の書き手のてらまっと氏という人がいます。彼は『秒速5センチメートル』原理主義者であり、半ばイロニーのように「ラディカル5センチメーター」というスタンスを提唱しています。ある種のインセル的な絶対的な鬱屈、愛する者から永久に遠ざけられる痛み、それによって逆説的に自分が自分でいられる、欲望を彼方へと向けられる、というようなロマン主義的な姿勢のことだと僕は理解しています。そのてらまっと氏が『すずめの戸締まり』を絶賛していた。その捻じれ方が興味深く感じられました。
 というのは、『秒速5センチメートル』がラディカルな煩悶鬱屈青年の話だとしたら、『すずめの戸締まり』はフェミニティと天皇的なものによるポジティヴな日本礼賛の物語として受け取れます。とすれば、そこには「転向」問題があるのか、それとも必然的連続性があるのか。
 僕が最近出した『男がつらい!―― 資本主義社会の「弱者男性」論』という本では、インセルライト(右派)ではなくインセルレフト(左派)になろう、と提唱しています。右派のインセルは、鬱屈した男性がアンチリベラルやアンチフェミニズムに闇落ちし、集団的な憎悪や攻撃性によってアイデンティティを確保する、という態度です。それに対し、そうした鬱屈を憎悪ではなく社会的な怒りに代えて、自分たちを抑圧する社会を変えよう、社会変革を目指そう、という態度がインセルレフトです。
 これらに対して、『秒速5センチメートル』の主人公遠野貴樹は、右でも左でもなく、インセルラディカルと呼ぶべき態度を貫いているとも言える。インセル的な精神が自分の否定性をどこまでも突き詰めて、自己破壊的で自罰的でタナトス的に、ひたすら自分の足元を掘り進めていく。しかしそれによって他人を攻撃したり憎悪したりしないという、ぎりぎりの尊厳の保ち方がある(ただし貴樹は、鬱的自傷によって己の暴力性を相対化してはいるけれど、セルフケアが足りずセルフネグレクト的になったり、無自覚にカナエやリサなどの女性を傷つけたりしているので、本当の意味でラディカル足りえているのか、やや微妙ではありますが)。
 そうした意味での「ラディカル」なインセルたちから見れば、たとえばスティーヴン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』(2018)や『シン・エヴァンゲリオン』は、オタクが成熟して大人になって仕事も家族も持ち、しかも虚構も楽しむという、いいとこ取りでしかない。それは本当に許しがたい、インセルの魂に殉じていない、となるわけです。
 そうした意味で僕からみるとインセルラディカルの立場だった『秒速』原理主義者のてらまっと氏が、『すずめの戸締まり』を観て、いわばインセルウルトラライト――まさに現代の超国家主義ですね――になって天皇主義の方に飛んでしまう、ということをどう考えればいいのか。それは橋川文三がかつて論じた超国家主義の問題が、現代のサブカルチャーを通して反復され、変奏されているようにも見えます。しかし、藤田さんがおっしゃるように、そこには何らかのポジティヴな可能性があるのかもしれない、とも感じさせる。正直、その辺をどう受け止めればいいのか、まだ咀嚼し切れていません。
 いずれにせよ、僕にとって実存的にも社会的にも重要なイシューと格闘し続けてきた新海誠という人を、自分はじつは好きだったんだな、と気付いた次第です。長くなりましたが……。

藤田 戦争の可能性が高まっている今、日本浪漫派や超国家主義の反復がどう訪れるのかを現代文化の中に注視する作業はとても重要だと思います。僕はてらまっとさんは、インセルウルトラライトとは思わず、「オタク的な成熟を遂げたリベラルな大人」だと思いますが、ちょっと遠回りしながら今の話に応えるために、新海誠への宮崎駿の影響に触れたいと思います。僕も本を書く際に調べて初めて知ったのですが、幼い頃に宮崎駿が描く雲をトレースしたり、親に買ってもらったビデオを擦り切れるまで見続けたというエピソードもあるように、宮崎駿の影響はとても大きくて、特に「国民的作家」になろうという意欲を持った四作目『星を追う子ども』(2011)くらいからは、ジブリのタッチを真似したり、ジブリのスタッフを入れたりしました。
 ですから「国民的」ということは意識しているんだと思います。そこで問題になる「国民的」ですが、宮崎駿の場合は『もののけ姫』の主人公は蝦夷で、まつろわぬ者たちを中心にしていたわけですよね。彼のアニミズムや縄文趣味は、天皇を中心とした近代国家に対する叛逆でもあったと解釈できるわけです。その上で、彼は「国民」を、近代国家ではなく、「巨大な災害に翻弄されている日本列島の上に生きる人間」として再定義した上で、我々はどのような文化的あり方をすればいいのだろうか? という問いと答えを作品を通じて展開してきた作家だと思います。明らかに新海誠はそれを継いでいます。
 宮崎駿には、堀田善衛経由の問題意識があります。堀田善衛は『モスラ』(1961)の原作もやっていますよね。宮崎駿は堀田のエッセイ『方丈記私記』をずっとアニメ化しようと考えています。『方丈記私記』で堀田が書くのは、戦争中、自分たちは『方丈記』の無常観で戦争をやり過ごしてきたのだ、という問題意識です。巨大な災害が頻発するこの列島で、アニミズムを含め我々が形成してきた文化の中で、そういった災害をやり過ごす心の癖が付いていて、戦争(人災)もそのようにやり過ごしてしまった、ということです。東京大空襲で焼野原になった場所に、付き合っていた女性が住んでいたので見に行くと、焼け出された人々のところへ天皇が来ているのに遭遇します。すると焼け出された人たちが天皇に「私たちのせいで……」と土下座して謝っていた。でも、どう考えても自分たちのせいではない。その光景を見た時に、戦後の自分たちはそのような「無常」観で酷いものを受容していてはもう駄目だ、悪政などとは戦わねばいけないと思うわけです。無常観的なものこそが、戦争を受け容れさせたり、抵抗せずに何でも許してしまうような、すべて自分の責任と感じてしまうような主体にさせているのではないか。そのような日本の性質をどう変えるべきか、という格闘の痕跡として、「国民的作家」宮崎駿の軌跡は理解できると思います。
宮崎駿が常に災害や戦争を描き、それをエンターテインメントとして提示してきた中には、戦後の我々は震災や戦争を受け取る文化的態度や無意識を変えなければ、という意識があったと思うんです。新海誠は、震災三部作で国民的な作家になったわけですが、そういうことを意識して、災害を受け止めながらどう生きていくのか、この先の戦争や環境変動などによる人類絶滅の危機の時代を生きるために必要な心のあり方を構築し広めていこう、という使命感を持っているのだろうと推測します。「天皇」に対しては、だから、超国家主義者たちとは違いがあると思います。

■インセル、非モテ、オタク

藤田 続いて、インセル的な問題、非モテ、オタクの問題ですが、宮崎駿と違うのは、新海誠や庵野秀明は、それを作品の主題や物語構造に組み込むという点ですよね。

杉田 そうですね。そこは大きな違いですね。

藤田 庵野秀明がまさにそうだったわけですが、庵野秀明の影響も新海誠には強いわけですよね。僕の『シン・エヴァンゲリオン論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』の裏のテーマは、オタク浪漫主義はどう着地するか、ということでした。
 僕も多分そういうタイプだと思いますが、鬱屈を抱えたオタクのような人間は、フィクションの中に浪漫主義的な欲望を持ちます。この世界を超越したい、現実には存在しない聖なる美少女と夢のような恋愛がしたい、戦争や世界の終りのような非現実の体験をしたい、競争や争いのない理想的なユートピアに行きたい、等々。「エヴァンゲリオン」シリーズの場合、そのような「理想」を優先し、それと異なる「この現実世界」を滅ぼしてしまえ、という欲望を主人公やその父が抱き、それが問題になります。新海誠の、あるいはてらまっとさんらの非モテ的なマインドも、それに近いと思います。
 そういう欲望を持つ人間たちが、60代になるまでに、どう折り合いを付けて成長していったのか、あるいは社会や公共に繋がっていったのか、ということについてのロールモデルを探りたいというのが、この3冊の評論本の狙いでもありました。
 新海、庵野は、笠井潔さんが言う「オタク勝ち組」ですが、では「負け組」はどうか。それは、最近『現代思想』12月号(特集=就職氷河期世代/ロスジェネの現在)に書いたように、就職氷河期世代であり、社会や世の中と接続しないで、オタク的な浪漫主義や拘りを追い続けた結果、完全な孤立をしてしまい、自殺に至ったり、通り魔になるという悲惨なケースも続出しています。『シン・エヴァンゲリオン』で主人公が現実に出ていったことに絶望し、推しのアイドルに彼氏がいたことが発覚し、ライブ会場にガソリンを撒いて大量虐殺をしようとしたという事件もありました。これは、インセル魂に殉じた例だと思います。しかし、これでいいのか。
 いわゆる「弱者男性論壇」「ネット論客」たちも、アンチフェミニズムなどになり、ダークサイドに落ちていますよね。彼らの発言を見ていると、「現実」に存在しない理想的な女性――たとえば、リア充のイケメンの「中古」じゃない処女じゃないと結婚しないとか――に拘り続けているように見えます。彼らの一部は、「保守」「国家主義者」であり、家父長制にこだわっているわけですが、彼らこそが「現代の超国家主義者」「インセルウルトラライト」に近いのではないか。現実離れした「平等」幻想にも憑りつかれていますし。
 細田守もそうかもしれませんが、新海誠はオタク的浪漫主義のラディカリズムを単純に肯定するのではなく、もう少し社会や世界に繋がらなければならないという意識を持っているように見えます。それは、今話したようなオタク的浪漫主義みたいなものに対して問題意識をお持ちだからなんじゃないかと思うんですよ。自分たちが作り出してしまったのかもしれない、あるいは自分たちの商売によって発生しているかもしれない、そういうメンタリティをなんとかしないといけないという公共心があるのではないでしょうか。

■オタクたちの「成熟と喪失」

杉田 ロマン主義の問題と「成熟」の問題はつねに不可分なので、オタクたちの「成熟と喪失」問題は、古いがゆえに新しい問題であり続けているんでしょうね。

藤田 鬱屈を抱えた存在が超国家主義に繋がるというのはよくある話で、戦前の超国家主義者もそうですが、戦後の新左翼の一部にもそういう部分はあったと思います。鬱屈を抱えた個人がもっと大きなものに繋がりたい、接続したいという欲望を持つ。現代のネトウヨもおそらくそうで、新自由主義の進展で、社会、共同体、家族的なつながりが失われてきているので、いきなり宗教、神、国家のようなものに直結してしまうという問題があると思います。ファシズムが流行る背景にも似たようなものがあり、今はそれに近い状態かもしれません。
 しかし、個人的には、『すずめの戸締まり』には、鬱屈から超国家主義に至るようなオタク浪漫主義的なものを浄化させる機能の方を強く感じます。本作で巡る廃墟は、過去には栄えていた場所が多いので、ミミズは「良かった過去に戻りたいという」願望の象徴でもあるわけですよね。過去に戻りたいという願望こそが、悪いものを引き出してしまうから、それを閉じるという映画なわけですよ。その扉の向こうは、アニメ的な過剰にキラキラした星の輝く世界なんだけど、厚みが無くて薄っぺらな二次元的な幻であり、死の世界だと表現されています。つまり、良かった過去に戻りたい。ロスジェネ世代だったら不況で過酷になる前の時代に戻りたいという願望、聖なる存在としての美少女との恋愛という失われた思春期を取り戻したい、という願望なども、「常世」に行きたいということに象徴されていると思うんですよ。
 つまり、そのようなありえない幻想を求める欲望は「閉じなければ」ならないんだよ、そんな場合じゃないよ、「人がたくさん死ぬよ」、と言っているように僕には感じられるんです。「Make America Great Again」や、プーチンの「偉大なロシアに戻りたい」等、そのような回帰願望が、対立や憎悪を導いているように見えます。だから、過去のあり得た未来は諦めよう、追悼して埋葬しよう、そして前向きに新しい未来を生きよう、と言っている話にも見えるんです。

杉田 そんなにうまく「閉じ」て「成熟」できるのかな、という思いも正直僕にはあります。ひとまず確かに、鬱屈した実存的なオタク青年がウルトラライト化するというアポリアは、リベラルや左翼も決して無関係ではないでしょうね。さきほど少し触れましたが、リベラル左派たちもまた安倍政権を批判するために天皇制ナショナリズム、一君万民的なリベラル天皇制デモクラシーに頼らざるを得なかった、という現実がありますし。
 それだけではなく、#MeToo運動のようなラディカルデモクラシーの戦略が、やがて左翼ポピュリズムに走ってしまうこともある。敵対性のポリティクスの戦略で行くと、敵/味方の間に線を引き、属性に基づく情動的な集団的一体化によって敵と戦い続ける、という形でデモクラシーの力を賦活することになるけれど、それはやはりポピュリズムの熱狂に行き着く。そこには右も左もありません。どちらも「下」の力によって「上」を攻撃するわけですから。

■鈴芽の旅には、沖縄と北海道が入ってこない。

藤田 ポピュリズムの暴力もそうですが、左翼やリベラルにおいても、「理想」の観点から、現実を否定する暴力を振るう、という点では、似た部分があるかもしれませんね。観念的倒錯ですよね。

杉田 レベッカ・ソルニットが論じてましたが、巨大災害の経験を通してボランタリーな相互扶助精神をもった理想的なコミュニティ、災害ユートピアが一瞬だけ形成されるけれど、やがてそれは国家や資本に簒奪されて、ユートピアの可能性がいわば「災害ナショナリズム」に変換されてしまう。特に災害列島としての日本では、資本と国家の新保守的なナショナリズムによってユートピアの可能性が簒奪されてしまう、という危うさがつねにあるように思います。
 『すずめの戸締まり』は、百田尚樹の『日本国紀』に相当似ていると言えなくもない。つまり震災や災害の危機をステップボードにして、日本人の「和を以って尊しとなす」という共同性を立ち上げていく。ただし、百田は天皇にはあまり興味がないようなので、『すずめの戸締まり』とはそこが違う。しかし天皇や大衆的神道の力によって、災害ナショナリズム的なものの情念がさらに強められたとも言える。
 先ほど藤田さんが触れた昭和天皇の戦後巡幸と、アニメの聖地巡礼は重なり合いますよね。宮城県から北上していく鈴芽のロードムービーも、神武天皇の東征や日本武尊のエピソードと重ねられていく。戦後、天皇が各地を巡幸して傷付いた国民に癒しを与えたことを反復するように、映画の中に出てきた地方各地が聖地化すれば、震災と貧困で傷ついた国民や国土をケアしてエンパワーメントできる。その点ではやはり鈴芽の旅に沖縄と北海道が入ってこないことも示唆的です。

藤田 しかし、聖地巡礼する人たちは、「天皇」じゃなくて、普通の一般人ですから。そこが大きな違いなのではないでしょうかね。

 *【対談#2】に続く