本と私

 大学院で文学を研究している私だが、この道に私を引っ張ったのは大学一年生で出会った谷崎潤一郎『春琴抄』だ。

 谷崎の作品を読むのは初めてだった。句読点が少なくて読みにくいな、と最初こそは感じていたのだが、気がつけば谷崎の語りの力に飲み込まれていた。それから夏休みまで、生協や古書店で谷崎の文庫本を見つけては買って、読んでいた。『卍(まんじ)』や『吉野葛』のほか、『陰翳礼讃』といった随筆まで、お気に入りの作品はいくつもできたが、それでも、何度も紐解くのは『春琴抄』だ。
 そのなかでも、最も印象に残っている『春琴抄』がある。成人式の式典の行き帰りで読んだ『春琴抄』だ。
 中学から私立の学校に通っていたため、小学校のときの同級生に会うのは八年ぶりだった。覚えてもらっているのか、私の方が相手を思い出せないのではないか、話が合わないのではないか。多くの不安を抱えていたためか、準備する荷物はどんどん膨らんでいった。いざ当日、パンパンの鞄を持っていこうとする私に母は、鞄なんかいらない、財布とハンカチだけでいい、と呆れる。部屋に戻って鞄を置き、最低限のものだけポケットに入れたあとのこと。ふと本棚が目に入り、気がつくと新潮文庫の『春琴抄』をコートのポケットに突っ込んでいた。
 式典では心配したことは起きず、普通におしゃべりもできた。けれども、どこか隔たれている感覚が拭えなかった。数ヶ月前、高校の部活の同期会でも覚えた感覚だった。式典が終わると、皆各々の二次会があるようでそそくさと出発した。残された私は、そのまま地下鉄のホームに降りる。電車までは時間がある。ベンチに腰を下ろす。携帯をいじるに気にもならず、ポケットから『春琴抄』を取り出して読み始める。読み親しんだ文章。何本もの電車を見送って、最後まで一気に読んだ。本を閉じて長く息をはいた。よし、大丈夫だ。なぜだかそう思って、入ってきた電車にそのまま乗り込んだ。

(矢馬)

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