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万葉の恋 第2夜

5.29

「・・ン、レン」


・・・。


低い声が私を呼ぶ。

ゆっくり目を開くと

「起きろ、レン」

ベッドの端に腰掛け、
左手首に時計をつけながら
私の名前を呼ぶ彼が見えた。


「・・今、何時?」

「8時」


・・・。



「・・あんたバカなの?」

「タクシー呼んでる。あと5分で
出れば間に合う」

はっ、覚えてろよ。


私は、飛び起きて
クローゼットに向かった。


~・~・~・~・~・~・~


「あっ、先輩。おはよーございまぁす」

隣のデスクの後輩が声をかけてくる。

寝ぐせすごいな・・

挨拶を返そうとした瞬間、

「たちばなぁ」

・・・・。

聞こえた編集長の声に
短く返事をして向かった。



「高畑先生は、どうなってる?」

デスクの上の資料から、
視線を上げる事なく聞いてきた。

「今週末までには、
企画案をつめてきます。」


「田村先生は?」

「初校までは終わりました。」

「・・あ」
「有村先生には、
今日伺う事は伝えています。」


「・・・“旅行”には?」

「行ってません。」

「わかった。」

ようやく、こっちを見たので
軽く頭を下げてデスクに戻った。


イスに座った瞬間、体を寄せて来た後輩。

「いいなぁ、先輩・・。
一問一答で終わって。」

「私、仕事できるからね」

「うわぁぁぁ。すごーい。すごーい。」

・・・・・。

デスクの資料に目線を戻しながら
棒読みの賛辞を口にする後輩に声がかかる。


「知りたいなら、俺がいつでも
教えてやるよ。仕事ができるようになる
秘訣ぐらい。だから、」

前のデスクに座っていた彼は
笑いながら後輩に視線を送る。

「今度、付き合え」

「うわぁぁぁ、三上さん、
それパワハラっすよ」


本気で嫌がってる後輩の言葉に
楽しそうに笑いながら答える。

「違う、これセクハラ」


うわぁぁぁ

後輩と一緒に声を出した。



「おーい、みかみぃ」

編集長の声。

「はいはい」

軽く、タメ息をついて、
歩き始めた彼を、
自然と目で追ってしまう。

・・・・。

昨日、失恋して、
ヤケ酒したようには見えない。

プレスのきいた黒いシャツ
襟元をあけ袖をまくる。

骨ばった長い指

整った顔立ち

広い肩幅

長い脚


立っているだけでも、色気が漂う。

そして、

優しく、

淋しそうに笑う。


黙ってれば、本当にイイ男だ。

実際、入職当時からモテた。
新人は各部署を一通り回るが、
彼がいる間、その部署の女性達は、
綺麗になった。


私の位置から、編集長のデスクは
よく見える。

編集長と話す彼が、ふと
左手首の時計に視線を落とした。

・・・・・。

3年前、彼の“新しい門出”に、
私がプレゼントしたモノ。

大切にしてくれている。

隣に立つ恋人が代わっても
時計は変わらなかった。

私の居場所。




いつまで、あなたの左手に
いられるんだろう。



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