51.出産

妊娠を告げると彼は諸手をあげて喜んでくれました。

私の両親は、私と同じように長年の過食嘔吐がどう胎児の成長に影響を及ぼすか分からないといった不安は持ったでしょうし、子どもまでできたらもう離婚は勧められないといった複雑な心境であったでしょうに、産みたいという私の気持ちを全力でバックアップしてくれました。
そして今思えば、いざとなったら自分達で私と孫を守って育てようと思ってくれていたのだと思います。

彼の両親は、彼の手前「おめでとう」と言いましたが、そう思っていないのは明らかでした。

離婚する

そう決めた私は、もう彼らが近親相姦してようが、私の目の前で厚化粧した姑が彼に激しくボディタッチしようがどうでもよくなり、胎教を考えて余計な争いはせずに過ごそうと思っていました。

でも姑は違いました。
「桜瑚さん、カルシウムとりなさい。二人分必要でしょ?」
そう言って、姑はギンギンに冷やした瓶の牛乳を一気に3本飲むことを毎日強要したり、体を冷やす効果のある野菜料理を持ってきました。

私が流産すればいいと思っているのは明らかでした。

姑は自分を心身ともに喜ばせてくれていた息子の心が私に向き、その上子どもまで生まれたら、息子の愛情は嫁と孫へいき、自分は見捨てられるという不安でいっぱいだったのでしょう。

入籍する前は、むしろ結婚に大賛成に見えた彼の両親の本心がこうなってみてよく分かりました。

きっと、彼が自分の思い通りになったように、私も近親相姦を楽しむ一員として迎えられると思ったのでしょう。
そして、彼の両親は私を利用して父にお金をたかるつもりだったのが、のちに父が私に家を買い与えてくれた時の舅の発言で分かりました。

ところが目論見が外れ、私は近親相姦仲間にはならず、私の両親はつけ入る隙を与えないので、彼らにとって私は邪魔者でしかありませんでした。

姑の嫌がらせにも負けず、お腹の子は順調に成長していきました。
退院してから私は、ある先生の事務所で図面や書類を作成する仕事をしていましたが、正社員ではなくパートでしたので当時は産休も育休もなく、事務所の人員は先生と私の二人きりでした。
私の体調次第では誰にも気兼ねなく休めたりしましたし、先生の奥様が妊婦である私にとても気を遣ってくれたので体に無理なく臨月になっても私は働いていました。
それに姑らには私の勤務先は知られていませんでしたので、家で姑らの来訪に怯えているよりは、職場にいた方が心が休まりました。

今では当たり前になった立ち合い出産ですが、私はひとりで産もうと決めていましたので、夜中の出産では立ち合い出産や出産前の付き添いを許可していない産院を選んでいました。

そんな私の心をお腹の子は知っているかのように、真夜中に破水しました。
私を産院まで運んだ彼は出産も立ち合う気満々でしたが、あえなく病院の玄関で帰され私は陣痛が起こるまでひとりで部屋で待機していました。

浣腸や出産着に着替えるなどの準備を終えると後は、生まれるのを待つばかりです。

安心して生まれておいで
パパがいなくても、私がしっかり守ってあげる
あなたはなんにも心配いらないよ
だから安心して生まれておいで

そう心で何度も語りかけ、おなかを優しく撫でながら陣痛が起きるのを待ちました。

そしてそのうちそんな語りかけもできないほどの痛みがきて分娩台に乗りました。
人生でこれほどの痛みを感じたことがあっただろうかと思うような痛みが何度も何度も押し寄せる中、離婚後の生活を考えて仕事を優先してなかなか母親学級に参加しない私を「お母さんの都合もあるでしょうが、仕事と赤ちゃん、どっちが大切なんですか!母親学級に参加しないとうちでは産ませませんよ!」と叱ってくれた看護師さんや、何かと不安がる私の質問にぼそぼそ声ながら根気よく答えてくれた先生に励まされながら3000gを越える赤ちゃんを産みました。

元気に泣く産声を聞き安堵の涙を流していると、生まれたばかりの我が子をまだ分娩台で荒い息をしている私の胸に看護師さんが抱かせてくれました。
ほかほかふにゃふにゃの我が子の顔や手足や体にぱっと見た感じ異常がないのを確認し、更に深い安堵に包まれました。

その後、産湯で綺麗にしてもらった産まれたばかりの我が子と病室でベッドを並べている時間は、それまでの人生で味わったことがないような充実感と幸福感に満たされていました。

でもその大切な時間は面会時間が開始して間もなく、舅と姑によってズタズタに壊されました。

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