見出し画像

日本古来の信仰は「宗教」ではない

「宗教(Religion)」という概念はどのように成り立ってきたのか。

宗教のもとになったラテン語の”religio”は、語源的に「さかのぼって結びつけること」を意味する。

ドイツの哲学者ハイデガーは、これは「第一原因にさかのぼって結びつけること」を意味すると指摘している。

つまり、この宗教概念は、人間や本といった存在するものから出発して、そのすべてのものの原因である最高の存在者(=神)に結びつけるという発想に基づいているのである。

『旧約聖書』は、「はじめに神は天と地とを創造された」で始まり、神は七日をかけて天地から人までを創造している。

こうして天地や大地、海、星、動物、人といった被造物は、創造されたものとして、自らの原因を神のうちにもつ。

このように唯一神をすべてのものの第一原因と考えるキリスト教は、明らかにこの宗教概念に適合するものである。

逆にこの議論からすると、日本人やギリシア人の神々は、明らかに宗教的ではない

たとえば、日本神話は、はじめに神がおり、自らが原因となって世界を創造したという説明をしない。

日本最古の書物である『古事記』には、まず高天原があって、そこに三柱の神々が生まれたという記述がある。

人間にいたってはいつの間にか登場している始末であり、そこに原因という発想はない。

むしろ「自ずから然る(おのずからそうなっている)」という自然じねんという発想がふさわしいのであろう。

つまり、一見すると似ているが、根底に置かれたものがまったく異なる人間の営みというわけである。

いくつもの信仰を併存させ、あるいはそれらを融合させ、しかも明確な教義体系をもたないという日本人の宗教意識の特異性は、西洋人の宗教観に対するものとして語られることが多い。

だが、そもそも日本人の信仰を、「宗教」を尺度として取り扱うことこそが妥当であるのかどうかが問題である。

宗教概念が因果関係という視点に基づいているのだとすれば、日本人の信仰を問題にする際には、そうした宗教概念は括弧に入れられるべきであり、神道にしても仏教にしても、かつて日本に宗教はなかったと言うべきなのだろう。


参考文献
Martin Heidegger, Gesamtausgabe, Bd.67, Metaphysik und Nihilismus, Vittorio Klostermann, 1999, p.95.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?