スピリチュアルな運命と現実的な運命
私たちは多かれ少なかれ、操作不可能なものごとによって規制されています。
時間と空間の中で生きること、身体の大きさや能力、人種、性別、使う言葉、死。
人間は生きている限りこれらの規制から完全に解放されることはありません。
このようなどうしようもない規制はある意味で運命的です。
人間の力を超えた何かによって定められているという考え方は運命と呼ばれます。
英語のfate(運命)とはラテン語のfatum(神々の判決)を語源とし、ドイツ語のSchicksal(運命、宿命)はschicken(贈る)からきています。
ここにはすでに運命という言葉に対する人間の直観が働いているように私には思えます。
つまり運命とは、神のような人間を超えた存在によって贈られたもののことであり、ある人はこの贈りものによってその人であることができるということです。
この考え方は神話の時代から現代にいたるまで未だに生きています。
「運命を乗り越えろ」「運命に従って生きる」「ここで死ぬのは運命だ」といった語りは、多少古くさく感じたとしても現代でも十分に通じますよね。
また「運命などない」と言う方もいらっしゃいますが、その人は自分がそこに存在していることの理由を究極的には説明できないでしょう。
生物学的に「私が存在するのは私の両親が存在するからだ」と言っても、両親にはさらに両親がいるのであってこの連鎖はずっと続きます。
でも先祖には必ずはじまりがなければいけませんから、こうした連鎖を考えてみても最終的にはある1つの起源を想定せざるをえないはずです。
そこで想定することのできる起源とはまた別の両親ということはありえず、むしろ神のような存在でなければなりません。(そうでないと連鎖の始点になりえませんよね)
このように、自分が存在することについて何か自分を超えた存在を想定しなければならないのだとしたら、やはり運命という考え方の余地があるはずです。
運命を肯定するも否定するも、その行動それ自体まさに人間の運命的な(与えられた)能力のよるものでしょう。
言ってみれば運命とはその人がそこにいることの条件であり、その人が存在する限りその人自身が運命的です。
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運命を人間では操作不能な超越者からの贈りものとして取り上げてみましたが、これを普段使う語りの意味からちょっと整理してみます。
私が思いつくかぎりでは、運命には3通りの使われ方があります。
(1)「運命に従って生きる」のように自分の運命との調和や一致を目指す使われ方。
(2)「運命を乗り越える」のように自分の運命と対立し、その対立から何かの獲得を目指す使われ方。
(3)「運命の相手」のように自分にとって特別な何かを目指す考え方。
もちろん運命は1つの言葉として、どの使われ方でも共通して「あらかじめ定められた(destiny)」という意味をもっています。
1つ目の使い方では、あらかじめ定められたことに今ここに生きる自分を集中させ、それを現実世界で十分に体現することを意図します。
2つ目の使い方では、あらかじめ定められたことを引き受けながらもそれを打破して、それが本当に可能などうかはさておき、あたかも自分が超越者のように自分自分を創造していくことを意図します。
3つ目の使い方では、自分にあらかじめ定められた何かを特別なものとして求めることを意図します。
このあらかじめ定められたという点では、理想主義者と呼ばれる人も現実主義者と呼ばれる人も、運命からは逃れることができません。
(ここでは理想主義者はスピリチュアル系な考え方をもつ人、現実主義者はそういうのは認めない人と考えます。)
運命を肯定するか否定するかではなく、両者を分けるのは運命という言葉にどこまでの影響力をもたせるかです。
たとえば人間が死ぬ運命は双方が確実に認めることですが、運命の相手については、理想主義者は認めるかもしれませんが現実主義者は認めないと思います。
3つ目の使い方は他の使い方に比べると、より人間を超えたものの影が色濃く浮き上がっていて、今ここを生きる私たちには曖昧さがつきまとうからです。
3つ目の意味の運命を肯定する理想主義者といえども、やはり確たる地盤の上に確信しているわけではないと思います。
それは信じるというレベルにとどまらざるをえません。
(あくまでも確信しようとするには、特別な記憶や超感覚のようなものが必要でしょう。)
1と2の意味についても、そこに目的とか使命などの意味をもたせるかどうかで両者は分断されると思います。
現実主義者は自然法則や生まれながらの素養、環境が運命であることを認めますが、生まれる前に定めてきたブループリントなどはもっての他ですよね。
このように運命に含まれる意味をどこまで広げるかにスピリチュアルと現実は区別されますが、この区別は両者のどちらかがより優位であるということを根本的には意味しません。
というのも、いかに現実主義であっても自然法則が存在する原因については手も足もでず、いかに理想主義者であっても自然法則を無視することはできないからです。
思うに、現実主義者は五感によって認められる世界に集中し、理想主義者は五感では網羅できないけど確かに何かあると直観する世界に集中します。
してみれば両者はフォーカスする領域が異なるだけです。
なぜ私たちがどうしても現実主義者が強いと感じるかというと、現実主義者が扱う領域はほとんど誰にでも確かめられるからです。
自然法則は、五感をもつ限り誰にでも開かれている領域です。
これに対して第六感のような超感覚をもつ人は、五感をもつ人に比べればわずかしかいません。
この人が扱う領域は、同じような感覚をもつ人にか開かれておらず、一般的には説得力に欠けます。
だから運命ということで両者を分けるのはその人に可能な感覚であると言えます。
仮に五感のうち視覚と触覚が欠けている人がいたとします。
その場合、その人は自然法則の1つである重力を理解することはないので、それを運命として認めないでしょう。
けれどもこの人は、人間として自分がそこに存在しているということはわかるのであり、その感覚に応じた意味で運命を理解することはできるはずです。
このように運命の意味は使える感覚に基づいて多層的になっているのではないでしょうか。
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結論として、スピリチュアル的な運命は超感覚をもつ人にか理解できないものなのでしょうか。
そうとは思えません。
私たちが自転車について理解するには実際に乗る必要があります。
けれども、実際に乗るにはまず自転車というものを理解していなければならないでしょう。
そうでなければペダルを踏むことすらできないですよね。
ここにはこれから理解するべきものをすでに理解しているという循環構造が見られます。
つまり矛盾がひそんでいますよね。
けれどもこうしたことは普通にに見られる矛盾であって、事実として確かめられることです。
このプロセスでは自転車に乗る前には曖昧だった理解が、実際に乗ることによってより確実な理解に進化しています。
この自転車の例と同じように、超感覚がない人でもまずはスピリチュアル的な運命をたとえば超感覚をもつ人に教えてもらうことから始めて、日々の体験を通してその運命を確信することができるようになるのではないでしょうか。
私には生まれる前に定められたスピリチュアル的な運命があるのかどうか、目で物を見るように理解することはできませんが、そういうものがあるんじゃないとおぼろげながら考えています。
何のために生まれてきたのか、その際に与えられたものは何か、こうした運命を日々を通してはっきりと理解できるようになったら世界が変わって見えてくるのではないでしょうか。
少なくとも、そういう可能性に対してあえて自分を閉じることはなくてもいいと思います。
拙い考えでぐだぐだと書いてしまいましたが、お読みいただきありがとうございました🌸
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