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3分で哲学(近世⑤) ヒューム

ヒュームはイギリスの哲学者、歴史家として知られています。

ロック、バークリーに続く経験論者として、両名よりもさらに経験論を掘り下げた哲学者とみなされています。

ヒュームは神の実在をも否定します。


印象と観念

まずはヒュームの用語を確認しておきます。

印象とは外部のものを知覚する感覚のことであり、また内部のもの(心の状態や感情)を知覚する反省のことです。

それに対して観念とは、印象が消え去った後の記憶または想像のことです。

ヒュームによれば両者をわかつ基準は、知覚された目の前にあるりんごの赤さは勢いよく眼に飛び込んできますが、想像のりんごはどこか曖昧で生気に乏しいといった具合に、「勢いと生気」によります。


人間は「知覚の束」である

ロックはりんごの色や味などは実在しないと考えました(第二性質)。

さらにバークリーはりんごの存在そのものを否定しました(存在は知覚されていることである)。

しかしこの2人とも、りんごを見ている私の存在は疑いませんでした。

ところがヒュームはこのすら疑います。

ヒュームにおいては私もりんごも否定されてしまうのです。

それではヒュームが考える私とはどんなものでしょうか。

人には五感が備わっています。

五感によってつねに私は「暑い」「おいしい」「うるさい」といった何らかの感覚(知覚)のもとにあります。

どのような場合でも、知覚なしに私自身を捉えることはできません。

今感じているこのさまざまな知覚の束が、私の正体であるとヒュームは言います。

ヒュームにとって知覚のみが確かに存在するもので、私という実体はありません。

私が私だと思っているのは、今この瞬間に感じる多様な知覚の集合体としてだけです。

そこではいくつもの知覚が継起的にあらわれるのであり、ヒュームは「私」を一種の劇場だと言っています。

このように考えると驚くべきことに、昨日の私と今日の私が同一性を保っているとは考えられないことになります。

それでもふつう私たちが、過去の私や未来の私が現在の私と同じ私だと考えるのは、経験による習慣であり単に空想だとヒュームは考えるのです。

ここに存在するのは知覚する私ですらなく、知覚だけだというイギリス経験論の終点が姿を表します。


因果関係

自然界には因果関係があると信じられています。

私たちは火に近づくと熱いと感じることから、「火は熱を出す」という因果関係を見て取ります。

ここでは火の温度が原因となり、その結果として熱いという感覚が生じると考えます。

しかしヒュームの考えによれば、私たちは火の温度を計測することはでき、それに近づいた直後に自分に生じる熱さを感じることはできるけれど、「火に近づいた。だから、熱を感じた」というときの「だから」を知覚することはできません。

それにもかかわらず私たちはそこに因果関係があるかのように思っていますが、それはヒュームによれば、ただ想像に対して作用する習慣によるものだと言われます。

火に近づくという出来事Aと、熱の感覚という出来事Bは経験的に相次いで生じ、それが度重なると私たちは火を見ただけで熱さを期待するようになります。

AとBのあいだに接近継起(原因が結果に対して先行していること)という関係があるとき、Aを見ただけでBを期待する想像の習慣が生じる、というわけです。

これは「恒常的な連結」と呼ばれます。

必然性の印象はこの連結によって生じることになり、因果関係は自然のうちに実在するものではなく習慣に由来する「信念」ということになります。


8/8追記

いつもありがとうございます❗️😊

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