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noteと向き合う私のココロ。

noteをはじめて早一ヶ月。

気がついたことを気の向くままに綴ってみます。


方向性の違いで解散しそうな私のココロ。


一番感じたのが、自分の文章の不安定さ。
「ですます調」で書いていたのに次の日には「である調」になっていたり、修飾表現をこれでもかと盛り込んで小説作家気取りの日もあれば友達との会話みたいに文章を書いている日もある。
エッセイを書きたい日もあれば創作してみたいと冒険する日もある。
自分のスタイルを確立することって難しいことなんだなあと実感。

自分が書きたいことってなんなのだろう?と自問自答中、、、、。

今はまだ、風に身を委ねて日々かたちを変える雲みたいにふわふわ~と、あてもなく書いていてもいいのかなあと思っている。


水彩絵の具のバケツみたいな私の文章

どうやら私は、自分の心を射止めた文や表現に染まりやすいらしい。

スキ!と思った記事を読んだあとはその人の表現を、無意識に自分の筆にのせてしまう。
森見登美彦を読んだ後には奇想天外に言葉を飾って文章を遊ばせてみたくなる。
友人の言葉を読んだあとにはどこか哲学的な表現で文章を構築してしまう。
SUPER BEAVERを聴いた後には素直で真っ直ぐに言葉を届けたくなる。

落とされた色はすぐに私のなかに溶け出して、私が少しずつ染まっていく。

いつか私だけの色を見つけたいな、なんて思ったりする。


多忙で余暇のある私の生活

毎日投稿は向いてない!と思った話。
まずは一ヶ月、たくさんのことを書こうとしたけれど、毎日文章を書くのって難しい。自分が想像していたよりずっと。
ひとつの文章を書くのにもとても時間がかかる。愛情を注げば注ぐほど。

時間があると思う日々も、すごいスピードで私を乗せて明日に向かって進んでいくから、難しい。
きっと今が人生の中で最もゆったりと自分の時間を持てる時期。
そんな時期でもやっぱり一日を無我夢中で生きているから、意外と時間が足りない。
時間泥棒が私の側でお茶でもしながら私の時間を食べてるんじゃないかしら、ってくらい。

ただ生きているだけの日があったっていいじゃない、書かない日があったっていいじゃない、そんな気持ちで今日も私は過ごしていこうと思う。


意外と世界に無関心な私のあたま

文章を書くようになって、いつもの生活に文章の”欠片”を探すようになった。
友人の言葉を心の本棚にしまってみたり、世界に落っこちてる言葉の種を拾ってみたり、自分の考えの糸を編み込んでみたり、自分の行動一つ一つを文学にしてみたり、記憶の本に埋もれた思い出のしおりを探してみたり、そんなことをしている。

そんなふうに生きてみて、以前の私って意外と自分以外の世界には興味を持っていなかったんだなあ、と、こっそり自分に落胆。

以前の私は、流れる時間の波にのって、ぷかぷか受け身に生きてるだけ。
そのせいなのか私は記憶力が全然ないのである。
友達との会話も、寝て起きたらほとんど覚えていないし、昨日食べた夜ご飯もわからない。
知り合った人の名前もすぐに忘れてしまうし、誕生日なんてなおさらだ。
数年前の思い出は、散らかった記憶の引き出しの奥底に眠っている。

これからは、きっともっとちゃんと、私の目の前に広がってる毎日と向き合っていけたらいいな。



スキを通して高鳴る私のココロ


スキをもらえると、やっぱり嬉しい。

こうしてインターネットの波の中に自らの文章を放り投げるってことは、やっぱり誰かに自分の文章を読んでほしいと思うから。

だからやっぱり、スキは嬉しい。
とびきり嬉しい。

1000文字を超える文章を、最後まで読んでくれた人がこの世界のどこかにいるんだ、って。


読んでくれてありがとう。
この世界のどこかにいるあなたへ、とびっきりの愛を込めて。


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