#46 ほかの誰かになりたくて、でもなれないから自分を生きるしかない話

最近よく色んな妄想をする。

大好きなクラシック音楽を聴いているとき、オーケストラの一員になる自分を想像する。同年代の友人たちの間では、珍しいくらいそういう音楽が好きで頻繁に聴いている方だという自負があるから、いつかはオーケストラの側に立って演奏できたらどんなに素敵かと妄想する。いっそのことクラリネットとかチェロとか、小さいころ習っていたピアノとは違う楽器に挑戦してみる?なんて思い立って近くの音楽教室を探すけど、大人向けのレッスン料はあまりに高く、しかも社員寮だから大きな音を出して練習なんてできないな、なんて考えて、いとも簡単に諦めてしまう。
それでも、クラシック音楽を好きな自分をなんとか表現したいと思っている。クラシック音楽に関する語りを誰かに聞いてもらうためには、聞いた人が面白いと思えるような充実したエピソードを手に入れたい。そういった動機もあって、それに関する本を読んだりするし、いろんな指揮者の演奏を聴いたりして違いを楽しんだりしている。でも、感じることに言語が追い付かなくて、というかその感動を表現する言葉を知らなくて、最近お気に入りのショパンのピアノ協奏曲第2番を繰り返し聴いては、一人でしみじみジ~ンとしている。この「ジ~ン」の正体は、未だに言語化できない。

大好きなラジオ番組『ディスカバー・ビートルズ』を聴いているとき、プロのミュージシャンが意気揚々とビートルズにまつわるエピソードを話す姿に憧れる。私もこんなに知ってたら楽しいだろうなあと思う。1960年代にタイムスリップして、ビートルズが大好きな女の子になって、少ないおこづかいでレコードを買って、ビートルズの歴史的偉業をタイムリーに目撃することができたらと思う。私の妄想は過去にまで及ぶ。

親しい人がかっこいいパソコンでかっこよくプログラムを書いている姿を見て、私もそっち側に行ってみたい、とよく思う。何方かといえばアナログチックな私は、語学の勉強も紙と電子辞書という10年前から変わらない方式で続けている。パソコンを持ち歩くことはほとんどなく、カフェに持って行くのは文庫本とスペイン語の教材だ。タイピングは速いが、Excelのマクロを組んでほしいと言われてしまうとウーンと唸ってしまう。
勤めている会社もかなりお堅く割とアナログチックで、コロナ下で見直しが進んでいるとはいえハンコ文化は当たり前、紙媒体での文書保存が義務付けられているものが多い…などなど、一部の時代の先端をゆく方々から見たらアリエナイ世界の住人と化しているけれど、温故知新の温故を頑張っているんだと言い聞かせている。合理的なものだけで世界はできていないと学ぶ毎日。

読書をしていて、こんなに表現力豊かに、緻密に人の感情を書き表すことができるのかと、少しだけ作家さんを羨ましく思う時もある。自分の紡ぎだす言葉ががそれだけの力を秘めていたらいいのにと思う。簡単にうらやむには申し訳ないくらいの努力や人間ドラマが裏にあることも、もちろんわかっているのだけれど。「うまく書けないかもしれない」なんてプライドはいつの日か頑張って捨てて、こうやってnoteを書いているのだけれど。

隣の芝生は青く見えるとはよく言ったもので、これだけの妄想が膨らむということは、それだけ接している芝生が多い…ということだと思う。ひとつだけ注釈をつけるとすれば、自身の境遇を悲観しているとか、違う世界に踏み出せない自分が嫌になるとか、そういった感情は意外にも少ない。自分の好きなことを、自分のちょうどいい範囲で続けている、というのが正直なところで、うまく表現できなくたって、誰にも理解されなくたって、好きだから続けるんだろうなと何となく予想する。好きなことを続けていたら何か起きるかも、という将来への(ちょっと過大な?)期待もある。
異質なものを交わると、ときどき悔しいなりもどかしいなり羨ましいなりの感情が心の中にムクムクと生じて、ちょっとだけ現実逃避して妄想の世界に浸ってしまうこともあるけれど、自分の人生を顧みる契機になることも多い。いま自分が「ちょうどいい範囲」だと感じている世界を、少しだけ広げてみようかなとか、広げ方を知ってそうな人に話を聞いてみようかなとか、ポジティブな変化をもたらしてくれる。

あしたは、聴いたことない交響曲を聴いてみよう。
あしたは、ビートルズに関する知識をひとつ手に入れてみよう。
あしたは、プログラミングの初心者講座を少し進めてみよう。
あしたは、あたらしい本を読んで自分の言葉と世界を豊かにしよう。
周りの豊かな芝のおかげで、あしたも楽しい一日になりそうです。

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