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セレッソと私の物語③〈2012〜2013 :セレッソが人生の一部に〉

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①〈2002〜2005:出会い〉
②〈2006〜2011:一度離れ、そしてくっつき〉

前回は私が小学生〜中学生の頃、一度セレッソから離れ、その後久々の長居での観戦をきっかけに少しずつセレッソへの愛を取り戻していく様子を描きました。

この「少しずつ」というフェーズが2010〜2011年、その後一気に私のセレッソ愛が加速するのは翌2012年です。

きっかけはロンドン五輪

ロンドン五輪の予選を戦っていた日本代表チームの中盤でコンビを組んでいたのが、当時セレッソで頭角を現していた山口蛍選手と扇原貴宏選手でした。

セレッソにもいい若手選手が育っているということを知り、このチームに対して俄然興味が湧いてきました。
私はプロ野球では広島カープを応援しているのですが、当時はまだまだ弱かったこともあり、試合に勝てない日は若手の活躍を無理矢理喜ぶという応援方法を10代中盤にして習得していました。
このスタンスは、若手が多数育っていたセレッソと相性がよかったのかもしれません。

高校2年の誕生日

17歳になった4月、誕生日プレゼントとして初めてセレッソのユニフォームを買うことにしました。

せっかくだから誰かの背番号が入ったものにしたい!と思い、注目の若手選手含め色々な選手で迷いましたが、最終的に酒本憲幸選手と柿谷曜一朗選手の2人が残りました。

最後の決め手は、酒本選手がチーム最古参で、また私と個人的に縁の深い和歌山県の出身だったこと。
17歳の誕生日に、私は17番のユニフォームを買うことに決めました。

あれから10年。
本人は引退してもこのユニフォームはまだまだ現役。

しかしここで問題が発生。
私は小柄な体格で、ユニフォームの適正サイズはSもしくはMだったのですが、それらのサイズは売り切れてしまいL以上のサイズしか残っていませんでした。
いつになるかわからない再入荷まで待つか?それとも今すぐサイズが大きいものを買うか?

成長期の私は、自分の成長に賭けました。
今の自分にはブカブカだけど、これから身長が伸びてLサイズが丁度いいぐらいになるはず!

私はLサイズを買いました。
身長は伸びませんでした。

今もシャケユニはブカブカです。ただ、これはこれで上着の上から着られるので寒い季節は非常に重宝しています。

南津守での思い出

西成区の南津守というところにある当時のセレッソの練習場にもたまに通っていました。

クラブハウスにあったグッズショップで買い物をしたり、リーグ戦翌日の練習試合を観戦したりという思い出がありますが、その中でも「人生で初めて有名人にサインを貰った」という経験が最も印象に残っています。

南津守では、練習を終えた選手たちがクラブハウスで着替えてから駐車場に行くまでの間にファンサービスをしてくれます。
私もサインを貰おうと選手を出待ちしていたのですが、こんなに近くで選手を見るのは初めてだった私はガッチガチに緊張し選手に声をかけられずにいました。
しかしカバンの中にはこの日のために買ってきた色紙とサインペン。手ぶらで帰るわけには行きません。
勇気を出して一人の選手に声をかけてみると、その選手はサインに応じてくれました。

人生で初めて貰ったサインは
今までも、そしてこれからも宝物です。

私の目を見て笑顔でサインを手渡してくれたのは、その年セレッソに加入したケンペス選手
とても優しい方だったことを、今でも鮮明に覚えています。

練習場が舞洲に移った後も色々な選手にサインを貰い、それらの色紙は実家に保存しているのですが、ケンペス選手のサインだけは一人暮らしの家に持ってきて飾っています。

特別な選手、柿谷曜一朗

私がロンドン五輪予選をきっかけにセレッソにはまりだした頃、一人のロンドン世代の選手がセレッソに復帰しました。

柿谷曜一朗選手は高校生にしてプロデビューを飾り、世代別代表でも華やかな実績を積み重ねていましたが、練習態度の問題をクルピ監督に見咎められ徳島ヴォルティスに2年半期限付き移籍していました。

…とは言っても、私はこの頃セレッソの試合を見ていません。
彼が2012年にセレッソに復帰したことが、私にとって特別な選手との出会いです。
特別なのでここからは「曜一朗」と呼びます。

初めて曜一朗のプレーを見たのは、復帰して初めての出場となった第2節・大阪ダービー。
その時は「上手い選手やな」と思いました。
何を当たり前の話を…と思いますが、この時点ではそれ以上でもそれ以下でもありません。
彼はまだ、途中出場がメインの控え選手でした。

しかし、その中でも彼は徐々に頭角を現します。
カップ戦での活躍著しく、徐々にリーグ戦での出場機会やゴールも増えてきました。
結局この年はチームトップの11得点で、曜一朗はセレッソのエースとして大きく飛躍を遂げることになるのですが、その活躍の中でも特に印象に残った場面が2つあります。


1つ目は、6月30日の浦和戦。

この日は背番号8を背負った清武弘嗣選手の海外移籍前ラストゲームでした。
先制点を許し、清武選手が途中交代し、このまま負けか…と思われた試合最終盤、キム・ボギョン選手のミドルシュートを相手GKが弾いたところに曜一朗が詰めてチームを救う同点ゴールを奪いました。

8番のラストゲームで、8番がベンチに下がった後に曜一朗が決めた姿は、まるで「次の8番は俺だ」と宣言するかのよう。
あの大雨の夜、セレッソの未来は確かにそこにありました。
曜一朗はセレッソのエースになりました。


2つ目は、12月23日の天皇杯準々決勝・大阪ダービーです。

セレッソは天皇杯の準々決勝に進出し、大事な大阪ダービーを迎えます。
しかし主将の藤本康太選手が不在、監督のクルピさんもブラジルに帰ってしまい不在(代わりに指揮を執ったのは小菊昭雄コーチ。この日が初采配でした)という状況で、エースの曜一朗もシーズン終盤に負った足の怪我が治りきっておらずベンチスタートとなりました。

試合はガンバ大阪(特に今野選手)に中盤を完全に支配され、先制点を許して折り返す非常に苦しい展開になりました。

何が何でも得点が必要なセレッソは、後半の頭から曜一朗を投入します。
その4分後。私たちのゴール裏の目の前で、コンビネーションから抜け出した曜一朗が相手GKの股を抜いて同点弾を沈めました。
一番大事な試合で、曜一朗がチームを救いました。

結局、延長後半に決勝弾を許しセレッソは敗れました。
対岸で青黒のサポーターが大喜びする姿を見せつけられ、とても悔しかったです。

その一方で、未来への希望と言うものも確かに見えていました。
ダービーで活躍するということが、そしてそれが柿谷曜一朗であったことが、セレッソのサポーターにとってどれほど特別か。
あの日私は確信しました。
次の8番は曜一朗だ。
曜一朗こそ、桜の8番に相応しい。


今になって思うと、8番という背番号は彼を大きく育て、一方で彼を苦しめました。
クラブも、我々サポーターも、その背番号に非常に大きなものを託し、そして背負わせてしまいました。
誰よりもセレッソを愛した曜一朗にとって、それがどれほど誇らしく、一方でどれほど重いものだったか。
その重さが彼を潰しかけていたのが、2020年までの数年間だったと思います。
あまり8番を深く考えずにそこそこ頑張るという道もあったかもしれませんが、彼はそれを選ばなかった。

彼の移籍に対しては今でも色々な意見があると思いますが、私は次の一言だけは言いたいのです。
「あれほどチームとサポーターを第一に考えてくれた選手は他にいない」と。

受験生、車窓から観るセレッソ

翌2013年、曜一朗が8番を背負いオフの補強もそこそこ効果的に進めることができ、上位進出の期待が大きいシーズンが開幕しました。

この年私は高校3年生。大学受験を控え、スタジアム観戦は1年間我慢です。
受験勉強の合間、応援するセレッソとの接点は学校からの帰り道にありました。

私は阪和線を使って高校に通っていたのですが、当時のキンチョウスタジアムは阪和線の高架に面したバックスタンドが低く、車内からピッチ上の様子や大型ビジョンがとてもよく見えました。

私の高校は土曜日も授業があり、その後夕方まで学校に残って勉強していると、阪和線で帰宅する時間帯にはちょうど試合が開催されていました。
鶴ヶ丘駅が近づいてくると、試合の途中経過が気になって進行方向左側の窓にべったりと張り付いていたものです。
その年セレッソは特にキンチョウスタジアムでの試合に強く、私が車窓から途中経過を見た試合はほぼ勝っていたように思います。

2013年は最後までリーグ優勝を争い、最終的にリーグ戦4位と上々の成績で終了。
一方私は、年が明けて東京都内の大学に無事合格することができました。
翌2014年から、セレッソと私のストーリーは関東に舞台を移すことになります。

④に続く




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