読まれる詩を

詩とは対話である、とパウル・チェランが言ったという。詩に限らず書き物は誰かに読まれることを本質的に望むものだ。エミリー・ディキンソンは作品を一切発表せず、ひとり書き溜めていたというが,死の前に処分した訳ではないから、いつか誰かに、という気持ちがなかったという証はない。
詩は投壜通信ともよく例えられる。いつか誰かに届くことを願って投げられる通信なのだ、と。しかしチェランは、非常に難解な詩を書いていた。誰にでも読まれることを拒むような。日本の現代詩もそうである。読者を選らんでいるのだ。簡単に人に分かられたいとは考えていないかのよう。あの、理不尽不条理の極み、文字通り言葉にできないような苛烈なシベリア体験をした石原吉郎が、容易には解けない表現でしか体験を言葉にしなかったように。一部の言語感覚の鋭い人々にしか解けない難解な表現をとるしかない境地があるのだと思う。が、一般には厳しく深い内容より、もっと感情を主にした、励ましたり慰めたりしてくれる詩を読みたい人が多いと思う。絵で言えばルノアールのような、マティスのような。チェランや石原吉郎の体験は文学作品として結晶して永く残されねばならないが、一般的な人々の生きる上の苦しみ哀しみをすくいあげてくれる詩も必要だ。そんな作品は読まれると思う。数年前にブームとなった99歳の詩人による「くじけないで」がいい例だ。が、たとえ人間や時代を鋭く描いた現代詩でも、読まれる工夫はされるべきだ。荒川洋治氏の「水駅」の「口語の時代は寒い」という有名なフレーズのように、エピグラフ的なフレーズ,リズムなど暗唱できることが大切だと思う。伝統的な韻律も取り入れるのを躊躇う理由はない。それでいて現代の現実の厳しさを凌いでいける力になる詩があったら,又,書けたら。