巨匠の作品に感じること

最近とつおいつ、詩の世界の巨星である谷川俊太郎氏の全詩集を読み返している。私の編著書『親と子の詞華集-知恵の花かご』というアンソロジーに最も多く採らせていただいたのは谷川作品だった。もっとも感銘を受けてきた、真言の詩人です。それでも全作品にあたりきれていない。作品数もだが内容も多岐にわたっていて、追いきれないでいた。そこで、難解な作品は後回し、隙間時間でも読める読みやすい作品を読み返しているのだ。
谷川氏は生活するために書いてきた、としばしば発言していらっしゃるが、それは読まれるように、出版社が損しないようにという努力であったでしょうが、だからと言って作品の質を下げても、ということではないと思う。ただ、氏の作品の特徴として詩の末尾で、オチというか結論めいた一行がくる終わり方があると思う。よく知られた次の作品、

ありがとう

空ありがとう
今日も私の上にいてくれて
くもっていても分かるよ
宇宙へと青くひろがっているのが

花ありがとう
今日も咲いていてくれて
明日は散ってしまうかもしれない
でも匂いも色ももう私の一部

お母さんありがとう
私を生んでくれて
口に出すのは照れくさいから
一度っきりしか言わないけれど

でも誰だろう 何だろう
私に私をくれたのは?
限りない世界に向かって
私はつぶやく
私ありがとう

 小学校や中学の朝の時間に先生が読み上げそうな詩である。この作品の入った詩集はよく売れたそうですが、さもあらん。三連目までは子供にもよく通じる、とても一般的な内容、表現である。空に,花に、母に感謝の気持ちを持つことを促すようで、教科書にのせるにはうってつけかもしれない。が、ここまでは特に私としては感心しないのです。ところが、四連目でがぜん、谷川作品らしくなるのだ。この世に自分が存在することの不思議も、多くの人が考える事だ。命の誕生の不思議は宇宙的で哲学的な思弁を呼び起こす。詩人は、私に私をくれたのは誰?何?と問う。そして無限に向かって、私、ありがとう、というのである。この自己肯定の健やかさ。これは谷川氏が恵まれた環境に、恵まれた階層であるご両親から生まれたという事情抜きに考えられない。谷川氏が、大いに努力を重ねられたことは間違いないが天性の詩の才を持って生まれられたのも間違いのない事だ。私ありがとう、という最後の一行は、私よありがとう ということでしょうか、私をありがとうということでしょうか。助詞がないところがミソに思える。どう解釈するかは読者に委ねられている。私は、私よ私に私をくれてをありがとう と言ってると解釈する。
けれど豊な素質も環境も、詩人自身が作ったのではないので、

この私を私にくれたのは私ではない、と思う。天か神か星か運命か因縁か偶然か、名称は様々なれど、谷川氏が谷川氏であるのは全く谷川氏ゆえではないのではないか。
大谷の自己研鑽は感嘆措く能わないものの、その天性の素質は御両親引いてはそのまたご両親由来であるでしょう。同じく、谷川氏に谷川氏をくれたのは谷川氏以外のだれか、天か神か星か運命か因縁か偶然か、なのだと思う。
ありがとう、私に私をくれて、神様仏様と言える人は本当にラッキーです。世の中にはそういう才をほとんどか、まったくか持たないで生まれてくる人が圧倒的だし、それどころか障害でなくても生来性格が悪いとか知的能力や身体能力が低い人など珍しくない。天才が出現するのと同じくらい低い確率でも、サイコパスが出現することもあるのである。そういう運命の人は、私に私をくれて、ありがとうとは言えないのだ。
この詩のラストの一行は、私にそんな思いを抱かせた、つまり不条理ということ。
人生は不公平不平等不条理に満ちているのだ、と。
まず平凡に生きてこれただけでもラッキーだったと、私は私に言う。が、私ありがとう、とは言えない私です。