現代詩は読まれない 1


わが市の図書館は週に一度購入した新刊書を書架とは別の棚に陳列する。その棚は大変人気で、ときのベストセラーなども出るそうでその日は開館前に行列ができるほどです。開館時間を遥かすぎて行くと棚はすっからかんか、または大変不人気の書物しか残っていない。私はベストセラー読みではないのでその行列に参加したことはないけれど、どんな本が残っているかに興味があり,たまに覗いていました。先回は棚に数冊残っていた中に、河津聖恵さんの新刊詩集があるのを見たものの、著名であっても、難解で私の心に響く詩集ではなさそうと思い、借りずに帰ってきたのです。その1週間後、次の新刊書の展示の前の日通りかかると、まだその詩集だけがぽつんと取り残されているのです。ショック。一般の読書子は、詩集なぞ見向きもしないのか。。。。新刊なのでどなたかは手に取るでしょう、と思っていたのです。私とは違う傾向の人が読んで、現代詩に触れてくれたら、と期待もしていたのです。河津聖恵さんは、数々の賞に輝いている著名な詩人である。さすがに谷川俊太郎氏のようなビッグネームになると棚に残っているの等見たこともありませんが、あのような文学史に残るレヴェルの詩人でないと,詩の世界でどんなに有名であっても読まれない・・・・まして詩人の端くれとなると友人知人縁故のある人にしか読まれない・・・かと思うとほとんど心が折れそうになりました。もちろん詩の世界にもスターはいて、最果タヒさんなど、若い女性によく読まれ詩集としては例外的によく売れているそう。もっとも、最果さんの作品は読まれることを第一にしたあざとさがあり、斬新で、ちらりと真実を見せる面白さはあるも、当方とは世代的にも無関係で、私は、借りて読むことはあっても買っていつもそばに置いておきたいとは思わない派です。よく売れる詩集を作れるこのような例は他にないのではないか。他に、よく読まれる詩集は、読んでいるのは詩を書く人だと思います。ほとんどの詩集は詩人間で贈答されるだけ、が現実です。それでも書きたいのが詩人なのですが、藤村や白秋のように国民的に読まれ愛される詩人は、谷川氏以外今はいない。もう出ないと思われます。愛唱される詩は近代詩で終わっています。1か月に1冊も本を読まない人が47%強もいるというデータがありますが、本を読む人のうち詩を読む人はなおいないと思われます。読まれないものを書く、という行為はいったい自分にとってどういう意味を持つのか、つくづくと考えてしまった。
私の詩を好きだと言ってくれる人はいたし、雑誌「びーぐる」の詩集評で、大変ほめていただいたこともあるので、誰にも読まれないということはないのではありますが、元来詩を読む習慣のある人に読まれたのであって、一般読書子が手を伸ばしたとは思えません。読まれないと分かっていて書く或いは詩集を作るというのは、空しいものがあります。唯の自己満足。。。か、と。でも、詩を求めている人は潜在的に確かに存在する。相田みつをがよく読まれているのがその証左である。相田みつをの詩?をトイレの壁に貼ったら、酔客にしょっ中はがされ、もっていかれるとある居酒屋店主が書いていました。なぜ相田みつをは読まれるか、が現代詩はなぜ読まれないかの答えになるでしょう、と思う。人びとは、詩に、何かの答えや教訓や教えを求めているのでしょう。この問題を引き続き考えていきたい。