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(今のところ)私だけの秘密のお守り

 恩師に「自分の香りを見つけなさい」と言われたことがある。
香り、とは文字通りの意味で、あなた自身にふさわしい香水を持て、と彼女は忠告してくれたのだった。自らを表現するため、理想に近づくため、鼓舞するために。これは自分のためにある、と思えるような香りを、そっとそばに置いておきなさいと、ふとした時に聞いたのだ。


 香水を日常的に身につけている人間は周囲で恩師が初めてだった。どこのメゾンのなんという香水か質問したことはない。だからこそ、甘さを持ちながらもどこか刺激的な、力を感じさせる香りは、私の中でそのまま彼女としっかりと結びついていた。教室のドアから彼女とともに舞い込み、授業が終わり、姿が見えなくなってからもかすかに漂って存在を示す香り。憧れとともに、その言葉は、ずいぶんと甘美に響いた。


 昨年の終わり、改めて自分の香りが欲しいと思った。それまでも何度か探しに出かけたことはあるものの、好きでも自分のものとしてはぴんとこなかったり、今の身分には早すぎるお値段であったりして、購入には至らなかったのだ。今度こそ、自分のものと思える香りを見つけようと、新宿に用があった日、TwitterのTLで何度か見かけていたNOSE SHOPに行くことにした。ニッチフレグランスのセレクトショップで、香りの吹きかけられたガラスの漏斗がずらっと並んでいる。香りを逃さないように持ち上げて、自分の嗅覚を頼りに気に入るものを探す。
ひとつ、とても気になったものがあった。Histoires de Parfumsの1899。ヘミングウェイの飲む食前酒をイメージしているらしい。店員さんに確認してもらったところ、在庫切れだという。残念そうにしていたのだろう、手首につけてみますか、と吹きかけてくれた。おかげでお店を離れ、用事を片付けている間もずっと良い香りにくるまれて上機嫌だった。
ただどうしたって一日の終わりにはお風呂に入るし、さすがに身体から香りは消えて、それでも名残惜しく手首に鼻をうずめた瞬間。昨日も羽織っていたコートの袖口から、1899がほのかに香った。なんだこれは、と混乱するくらいのぶわりと広がる幸福感。私はいつものとおり、寒い駅のホームで眠たいまま電車を待っていたのに、香りがひとつ加わるだけでこんなに気分が変わるものなのか。これは手元に置かなければ、と決意する。NOSE SHOPのネットショップでも大きいボトルがちょうど在庫切れで、今年の春を迎えてから、復活したのをぽちってお迎えした。お茶の香りガチャをやっていたからついでに回して、THE HOUSE OF OUDのTHE TIMEがやってきた。店頭でガチャを回して当たったAGONISTの惑星ソラリスとあわせて、1899をメインに、趣向を変えたいときは他のもの、と今は三種類を気分で使っている。


 香水は人によって香りだちが異なり、同人物でも季節によって少しずつ変わってくるのがおもしろい。私は体温が比較的高いからか、どれも甘さが際立つように思う。これは買ったあとに知ったことだけれど、1899はメゾン公式ではメンズとして売られているらしい(NOSE SHOPではレディース・メンズの区別なしに並べられる)。分類としてはウッディ・オリエンタル系で、わかりやすい華やかさはない。でも、私がつけるとけぶるような乾いた甘さを感じる。なんとなく、古書の並ぶ書架や、紅茶を連想している。


 身に香りを纏う、という行為がこんなに気持ちを軽やかにしてくれるものだと知らなかった。読んでいた本からふと現実に視線を戻したときや、作業の手を少し止めたときなど、ささやかに応援をしてくれている。私にとっては、自分が望む自分であるためのささやかな誓い、のようなもの。自分にふさわしい香りというよりも、この香りにふさわしい自分であるためのお守りみたいにして、心なしか背筋を伸ばしている。今のところはひとりだけで過ごす時間のお供としているけれど、いつかこの香りが似合うと人に思ってもらえるようであれば嬉しいとも思う。それはそれとして、春夏にも重たくなく使えるような、お花の香りのものも欲しい……思ったより香水は沼なのでは、と足を踏み入れてようやく悟るのはいつものことなのだった。


本や文房具、心をときめかせてくれるものに使います