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「無敵の人」のミソジニーに対するフェミニストの謬見1

 ケイト・マンのミソジニー理論の解釈において、もっともフェミニストから人気のあるものが、「"無敵の人"の男性による対女性暴力というミソジニー」を説明する理論の解釈だ(註)。すなわち、当該ミソジニーを「Takerである性別(=男性)である自分に、愛情や尊敬など与えないGiverである性別(=女性)を罰する」と解釈するものである。より正確には理論の一解釈というよりも、ケイト・マン理論の正統的枠組みの下での分析といってもよい。

 しかし、当該ミソジニーを考察するとき、ケイト・マン理論の正統的枠組みはむしろ奇妙であると言える。もちろん、対女性暴力を振るう"無敵の人"の男性自身の主観あるいは思想においてケイト・マンが示した認識枠組みが存在すること自体は排除しない

しかし、現代社会が女性差別社会であるからこそ当該ミソジニーとして噴出し、当該ミソジニーは女性差別社会体制を維持・強化する機能を持つとの主張に関しては、それは事実とは異なる。

 当該ミソジニーはルサンチマンを抱えた人間が起こす社会に対する復讐あるいは破滅願望の成就としてのテロリズムと認識すべきものなのだ。つまり、ケイト・マン理論の正統的枠組みにおける「"無敵の人"の男性による対女性暴力というミソジニー」の分析は、テロリストの世界観から解釈された主観的社会構造を、現代社会一般の客観的社会構造として誤認しているのだ。

 この奇妙さを実際にフランスで頻発するイスラム過激派テロを譬えに用いて説明しよう。

 イスラム過激派テロリスト個人は、そうなった事情は多種多様であるものの社会的には不遇であることが殆どである。したがって、個人的にルサンチマンを溜め込みイスラム・テロを実行していると言ってよい。つまり、彼らは基本的にイスラムの正義という大義名分を得て、社会に対する復讐、あるいは破滅願望の成就としての拡大自殺をしている。

 さて、ここで考えて欲しいのだが、自身が不遇さによりイスラム過激派となったテロリストの、建前上の意図においてイスラムの正義が遵守されていないことへの懲罰として実行されたイスラム過激派テロは、フランス社会の体制に対する統制機能を有しているだろうか。また、イスラム過激思想というものが社会に確かに存在しているとしても、それがフランス社会のイデオロギーとして主流派になっているが故に、イスラミック・テロリズムが横行しているのだろうか?

 いやいやまさか。そんなことの可能性は一片もありはしない。

 当然ながらフランス社会の主流イデオロギーはイスラムではないし、またイスラミック・テロリズムは、フランス社会における反イスラム化という体制の変化を生じさせ、従来の体制の統制に寄与するどころか体制の擾乱要因となっている。すなわち、イスラミック・テロリズムはフランス社会自体への統制機能など持っておらず、また当然ながらフランス社会の主流イデオロギーの表出でもない。言い換えると、フランス社会におけるイスラミック・テロリズムは、単なるイスラム過激派テロリストの個人的思想の過激な表出にすぎず、フランス社会を形成しているイデオロギーとは無関係だ。フランス社会を形成するイデオロギーと関係が無いのだから、(イデオロギーに基づく)体制の統制機能をイスラミック・テロリズムが持っている訳がないのだ。

 以上の議論における、「イスラミック・テロリズム」を「"無敵の人"の男性による対女性暴力というミソジニー」に、「不遇さゆえにイスラム過激派となったテロリスト」を「"無敵の人"の男性ミソジニスト」に、また「イスラム」を「女性差別」に置き換えて考えたとき、そこに何の違いがあるというのか。

 もちろん、上記の議論は社会のパターンを形成する主流イデオロギーに則ったテロール=恐怖政治が存在しないことを意味しない。個々人のリンチ=私刑のレベルにまで降りてきて、体制の維持・強化の機能を果たすことは、歴史上に存在している。例えば、過去のアメリカの黒人差別社会や、紅衛兵が暴れまわった文化革命期の毛沢東体制を想起すれば十分だろう。

 しかし、「ある社会でテロリズムが横行する」という事実は「テロリストのイデオロギー=社会を形成しているイデオロギー」という等式を基本的に指し示しはしない

 ケイト・マンの理論を信奉するフェミニスト達にとって、上記の「 」内の等式が基本的には成り立たないことを理解するのがなぜ難しいのか。なぜ「"無敵の人"の男性による対女性暴力というミソジニー」というテロリズムは、他のテロリズム一般とは異なると無邪気に考えてしまうのか。

 社会において不遇で苦痛に満ちた人生をおくる個人が、その苦痛に耐えかねてアヘンとして何らかの思想にすがることは、何も珍しい事ではない。しかし、当該個人がすがるアヘンとしての思想は、なにも社会のパターンを形成する主流イデオロギーであるとは限っていない。オルタナティブなイデオロギーであることも珍しくない上に、もっと荒唐無稽なイデオロギーにすがることもある。

 つまり、対女性暴力というミソジニーを実行した"無敵の人"の男性の、アヘンとしての思想が社会を形成する主要イデオロギーであることなど確定してはいないのだ。



「無敵の人」とはもともとは以下に引用したWikipediaの説明にあるようにインターネットスラングであったものである。現在はスラングとして一般的な言葉となっている。意味としては以下の引用の通り。

無敵の人(むてきのひと)とは、社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング。2008年に西村博之(ひろゆき)が使い始めた

Wikipedia「無敵の人」の項

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