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「女のハゲ」と「男の低所得」のジェンダー問題

はじめに

 ヘアドネーションを取りまとめる団体の代表理事の葛藤が以前にyahoo!ニュースで転載され取り上げられていた。

 上記の記事中でとりわけ物議を醸す箇所があった。

毎日身なりを気にしていた女性が、ふと、その行為がしんどくなり、エイっとウィッグを脱いでこう言ったそうです。
「女性にもはげる権利が欲しい」と。
女というだけで、見た目においてもその役割を担わされている。

無意識の差別をなくすことはできるのか?ヘアドネーションがいらない社会を目指して
 インタビュイー:渡辺貴一 インタビュアー:西本美沙 2022/05/13 ランドリーボックス

 上記の部分はこの記事でもっとも刺激的な部分であり、当初の記事の表題もこの部分を用いた「『女性にもはげる権利が欲しい』ヘアドネーションがいらない社会を目指して」というものだった。流石に問題に感じたのか、改題して現在の表題になっている。

 ともあれ、当該記事においては「女というだけで、見た目においてもその役割を担わされているような社会ってオカシイよね?」といった形で、もっぱら社会の側のジェンダー意識の問題として取り上げられている。もちろん苦痛を感じている女性自身の内面のジェンダー意識の観点についても「髪が無い事を気にせず、エイっとウイッグを脱ごう!」といった風に多少は触れられてはいるのだが、当人の内面の「女性には髪がなければいけない」というジェンダー意識を克服する方向の解決策はほぼ語られていないといってよい。つまり、当該記事の基本的な論調は社会が変わっていかなければならないというものなのだ。

 一方で、妻の方が夫よりも所得が高い共働き夫婦に関する夫の苦痛に関する記事が2023/5/22にyahoo!ニュースに転載されたのだが、引用する冒頭の文に表れているように、苦痛を感じている男性自身の内面のジェンダー意識の問題として取り上げられ、社会の側のジェンダー意識については特には問題視されていない。

「私のほうが高収入だとわかってしまうと、“家庭を支えている”という夫のプライドが崩れてしまう。だから、お金の話はタブーで…」

「給料まで負けたら存在意義がない」“妻が夫より稼ぐ”に当事者が抱くモヤモヤ&根強い偏見
2023/5/18 ABEMA TIMES

 当該記事においては基本的に夫の有り様だけが問題になっている。「男というだけで、収入においてもその役割を担わされているような社会ってオカシイよね?」という形の主張もないではないが、批判されても言い訳できるように触れているといった態である。つまり、基本的な論調は男性が変わっていかなければならないというものである。

  女性がハゲによって苦痛を感じる問題も、男性が(妻より)低所得で苦痛を感じる問題も、当人自身が内面に持つジェンダー意識に呪縛されて苦痛を感じる問題があり、かつ、社会に存在するジェンダー規範によって苦痛が生じる環境の問題もある。しかし、これらのジェンダー問題は、その性別の男女の違いで記事での扱いが変わってくるのだ。

 この2つの記事の論調に典型的に表れている、男性のジェンダー問題は男性自身が悪く、女性のジェンダー問題は社会が悪いとする風潮に乗っかってジェンダー問題を記事で取り上げるメディアの姿勢は、男性のマッチョイズムを非難して女性への慈悲的性差別(=女性は"脆弱な存在"なのだから保護しなければならないとする意識による差別)を糾弾してきたフェミニズム記事を散々取り上げてきた、御大層なジェンダー正義を振りかざすメディアの態度と矛盾している。

 このメディアの姿勢は「女のジェンダー呪縛を周囲は解け!しかし、男は自分自身でジェンダー呪縛を断ち切れ!」という姿勢なのだから、「女性は周囲が守ってやる存在であり、男性は強くなければならない存在なのだ」という呆れるほど明白な旧来通りの男女のジェンダー規範に基づく姿勢なのだ。つまり、ジェンダー問題を批判しているメディアの姿勢そのものにどうしようもなく、メタレベルで、旧来のジェンダー規範がこびりついている。

 本稿では、この二つの記事でみられる理屈に対して題材を入れ替えてみることで、ジェンダー問題を取り上げる記事において、男女で如何なるジェンダー差があるのかを見ていきたい。


ジェンダー記事の姿勢におけるジェンダー差

男性にも低所得でいる権利が欲しい

 さて、まず最初に男女を入れ替えてみる理屈は先に挙げた「女性にもはげる権利が欲しい」という理屈である。再度引用してみよう。

毎日身なりを気にしていた女性が、ふと、その行為がしんどくなり、エイっとウィッグを脱いでこう言ったそうです。
「女性にもはげる権利が欲しい」と。
女というだけで、見た目においてもその役割を担わされている。

無意識の差別をなくすことはできるのか?ヘアドネーションがいらない社会を目指して
 インタビュイー渡辺貴一 インタビュアー西本美沙 2022/05/13 ランドリーボックス(再掲)

 ここで「女性にもはげる権利が欲しい」はどのような理屈に基づいて主張されているか考察してみよう(※「盗人にも三分の理」という諺があるように、どう考えても無理筋な話でも何らかの理屈に基づいて主張は為される)。

 この理屈の大前提となる事実として、男性は禿げる人間が多数いる一方で女性は禿げる人間が少数であるという事実がある。したがって男性は禿げてもあまり目立たないが女性は禿げると悪目立ちをするという事態が生まれる。ここから「(男性には禿げる権利があるが女性には禿げる権利が無いので)女性にも禿げる権利が欲しい」という主張が出てくるのだろう。

 つまり、同じ状態であるにも拘らず性別が異なれば一方は悪目立ちをするが他方は目立たないという事態はアンフェアであるという理屈に基づいて、女性は割を食っている(=男性はズルイ)という主張が生まれるのだろう。また、悪目立ちをしている事態こそが悪目立ちをしないように高い水準を維持する性役割を担わされている証拠なのだとする理屈である。

 では、この理屈自体は変えずに、理屈が適用される対象を変化させてみよう。

妻より所得が低いことを気にしていた男性が、ふと、その行為がしんどくなり、がむしゃらに仕事をするのをやめてこう言ったそうです。
「男性にも低所得でいる権利が欲しい」と。
男というだけで、所得獲得においてもその役割を担わされている。

対象を入れ替えた例A (筆者作成)

 上記の入れ替え例は「女性のもはげる権利が欲しい」と主張した理屈と同様の理屈を用いると「男性にも低所得でいる権利が欲しい」との主張になる。また同時に、同様の理屈に従って「男というだけで、所得獲得においてもその役割を担わされている」との主張にもなる。つまり、

  • 同じ状態であるにも拘らず性別が異なれば一方は悪目立ちをするが他方は目立たないという事態はアンフェア

  • 悪目立ちをしている事態こそが悪目立ちをしないように高い水準を維持する性役割を担わされている証拠

という理屈自体は「女性のもはげる権利が欲しい」も「男性にも低所得でいる権利が欲しい」も同じなのだ。そのことを踏まえた上で「男性にも低所得でいる権利が欲しい」という主張を具体的にみていこう。

 女性で低所得である人間が多数いる一方で男性で低所得である人間は(女性と比較すると)少数であるという事実がある。したがって、女性が低所得でもあまり目立たないが男性は低所得だと悪目立ちをするという事態が生まれる。ここから「(女性には低所得である権利があるが男性には低所得である権利が無いので)男性にも低所得である権利が欲しい」という主張になる。

 ここで「女性のもはげる権利が欲しい」とパラレルな「男性にも低所得でいる権利が欲しい」という主張における心情を俗っぽい言い回しで考えてみよう。

女性は低所得の人が一杯いるでしょ?女性ってズルイなぁ、自分が低所得でも全然気にならないじゃん。男は低所得だと悪目立ちするんだよね。それに悪目立ちしたくなければ高所得になれよっていう性役割からくるプレッシャーがあるんだよねぇ。

「男性にも低所得でいる権利が欲しい」という主張における心情 (筆者作成)

というものになろうか。同様に「女性のもはげる権利が欲しい」という主張における心情も示そう。

男性はハゲの人が一杯いるでしょ?男性ってズルイなぁ、自分がハゲでも全然気にならないじゃん。女はハゲだと悪目立ちするんだよね。それに悪目立ちしたくなければ美しくなれよっていう性役割からくるプレッシャーがあるんだよねぇ

「女性のもはげる権利が欲しい」という主張における心情 (筆者作成)

 当然のことであるが上記の両者の心情は異性の感情を逆撫でするものだ。ハゲになり易いことや低所得になり易いことは望ましいことでは決してなく、羨ましがることでもないからだ。また「女性にもはげる権利が欲しい」や「男性にも低所得でいる権利が欲しい」といった主張に登場する”権利”の言い回しにも異性からの反発が生じる。それらは

 「ハゲになりたきゃバリカンで丸坊主にすればいいじゃないか。"ハゲになる権利が欲しい"だなんて誰が禁止しているっていうんだい?ハゲがふさふさになるのは難しくても髪の毛がある奴がハゲになるのは簡単だろ?」

 「低所得になりたきゃ安い給料で働けばいいじゃない。"低所得になる権利が欲しい"だなんて誰が禁止しているの?高い給料の仕事に就くのは難しくても安い給料の仕事に就くことは(比較すれば)簡単でしょ?」

といった反発だろう。さて、こういった心情を見てきたのには理由がある。それは先に見た理屈:

  • 同じ状態であるにも拘らず性別が異なれば一方は悪目立ちをするが他方は目立たないという事態はアンフェア

に関して、他方の性別が何らかの公平性に反するズルをしてアンフェアな状態になっている訳ではないことについて納得してもらうためである。

 さて、この問題では異性が行うズル(=フェミニズム界隈でしばしば登場する男性特権や、それと対になる女性特権)は無いのでそれを解消するといった形ではこの問題は解決できない。したがってそれとは別の形の解決法となる。それは悪目立ちしていることを無化するといった解決法となる。そして、本稿で取り上げている二つの記事で提示されている処方箋は二つである。もっとも各記事でどちらに重点を置くかで違いがある。では、その二つの処方箋を見ていこう。

  1. 当人が気にしない

  2. 社会全体が気にしなくなる

 処方箋1はマッチョな自力救済の解決法であり、処方箋2は基本的には他者によって解決させる方法である。メタレベルで「男性は強くあるべき存在、女性は保護されるべき存在」という旧来のジェンダー意識のままのメディアにおいて、処方箋1は妻より所得の低い夫のジェンダー問題の解決策として強調され、処方箋2は女性のハゲに関わるジェンダー問題の解決策として強調されている。実際に見てみよう。

 「『給料まで負けたら存在意義がない』“妻が夫より稼ぐ”に当事者が抱くモヤモヤ&根強い偏見」の記事で挙げられた全3夫婦中全ての夫婦について以下のように、この問題があくまでも男性が乗り越えるべき男性自身の内面の旧来のジェンダー規範の問題であるとの認識に基づく言葉が紹介されている。

「私のほうが高収入だとわかってしまうと、“家庭を支えている”という夫のプライドが崩れてしまう。だから、お金の話はタブーで…」

あおい氏の夫婦

「妻のほうが稼ぐことで、自分が妻より稼いでいない情けなさや、“お金を稼ぐ”という家庭のなかでの重要な役割で妻よりも劣っているところに引け目を感じていた」と、率直な思いを語る。

まろん氏の夫婦

「プライドを傷つけてはいけないという気持ちが強い。そうすると何でも話せる間柄ではなくなってしまうかなと。本当は女の子扱いされたいし、守ってほしい気持ちもあるけど、“稼いでいる妻はそうではない”と夫が思っているのではないかとも感じる」と考えを述べた。

ユイ氏の夫婦

 これらは結局のところ、夫自身が乗り越えるべき旧来のジェンダー規範に基づくプライドの問題として理解されていることが示されている。

 そして当該記事において「男というだけで所得獲得においてもその役割を担わされているから、そんな社会のジェンダー規範は変えていかなければならない」と主張していると見做せる部分は少ない(註1)。

 つまり、妻より所得の低い夫のジェンダー問題は、苦痛を感じている当事者である男性自身のジェンダー意識の問題とされ、「当人が気にしない」と言う形で男性自身が変わっていかなければならないとする処方箋1の解決策が記事において提示されている。

 一方、「無意識の差別をなくすことはできるのか?ヘアドネーションがいらない社会を目指して」の記事においては、社会が奇異の目で見るから(旧来のジェンダーに基づく女性のジェンダーから外れた)ハゲの女性は苦痛を味わうのだから、そんな社会のジェンダー意識を変えていかなければならない、という姿勢でほぼ一貫している。以下に当該記事の該当部分を引用しよう。

マイノリティーとしてウィッグを着けないと生きづらさを感じる人たちが誰の目を気にしているかというと、結局、マジョリティーの目なんですよ。

必ずしもウィッグを必要としない社会を目指しているはずなのに、活動が拡大すればするほど、活動の辻褄が合わなくなる。
答えがないことなので、日々悩みながら、どう進んでいくべきかを考えています。

ウィッグを外しても親友の態度がなにも変わらなかったことをとてもよく覚えているそうです。
ウィッグでは水泳の授業が受けられないので、夏休みの補習に行く際も「暇だから一緒に行くわ」とついてきてくれた。
彼女はのちに、その感謝の気持ちを親友に伝えたら「そんなことあったっけ?」という反応だったそうです。
腫れ物に触らないようにすることもなく、変わらない態度で接してくれる人が1人でも増えていけばうれしいと言っています。

「髪の毛がなければウィッグがある方がいいに決まっている」
そう発していなくても、自分たちもメディアを通じて、知らないうちに社会の当たり前を押しつけていたのかもしれないと今回のインタビューを通じて強く感じた。
望んだ人がウィッグをつけられる選択肢を、そして、同じだけウィッグをつけなくてもいい選択肢を作り出せるように。

 上記引用の上2つが渡辺氏の言葉、3番目の引用が渡辺氏による事例紹介、そして最後の引用は西本氏の感想である。これらの引用箇所は、「女性には髪がなければいけない」というジェンダー意識が社会全体にあることによって苦しんでいるハゲの女性の問題として認識されている事を示す。あくまでも女性を取り巻く社会の問題であって、女性自身が「女性には髪がなければいけない」という旧来のジェンダー意識に囚われている当人の意識の問題となっている訳ではない。

 妻より所得の低い男性の苦痛の問題の扱いとは実に対照的である。

 旧来のジェンダー価値観から外れた、妻より所得が低いことによって苦痛を味わっている男性に対しては「そんな旧来の『男性が稼がなきゃいけない』なんていうジェンダー意識を内面化して克服してないから、苦痛を味わっているんだよ!ジェンダーフリーの価値観にとっととアップデートして乗り越えろよ」という処方箋1に当たる厳しい指摘が為される。一方、旧来の女性のジェンダー価値観から外れた、ハゲによって苦痛を味わっている女性に対して、「そんな旧来の『女性には髪がなきゃいけない』なんていうジェンダー意識を内面化して克服してないから、苦痛を味わっているんだよ!ジェンダーフリーの価値観にとっととアップデートして乗り越えろよ」といったような処方箋1に当たる厳しい指摘など殆ど無い(註2)。

 ともあれ、旧来の男性ジェンダーに苦しめられている男性に対しては「ガタガタ抜かさずアンタがとっととをアップデートしろよ!」と責められるのに対して、旧来の女性ジェンダーに苦しめられている女性に対しては「こんなにも女性を苦しめる社会なんてヒドイ!社会はアップデートしなきゃ!」となる。

 ジェンダー平等な社会を実現するには、当事者のアップデートと社会全体のアップデートの両面が必要なのだろうとは思うが、そのアップデートを押し付ける姿勢は到底ジェンダー平等とは言えない。


ハゲがバレると女性のプライドが崩れる

 次に、男女を入れ替えてみる理屈は「夫のプライドが崩れてしまう」という非難の理屈である。再度引用してみよう。

「私のほうが高収入だとわかってしまうと、“家庭を支えている”という夫のプライドが崩れてしまう。だから、お金の話はタブーで…」

「給料まで負けたら存在意義がない」“妻が夫より稼ぐ”に当事者が抱くモヤモヤ&根強い偏見
2023/5/18 ABEMA TIMES (再掲)

 上記の引用においてこの女性が非難しているのは「夫の有り方」である。男女を入れ替えて引用部の理屈を検討する前に、この女性が彼女の(元)夫のどんなところを非難しているのか箇条書きで列挙してみよう。

  1. 旧来のジェンダー規範をジェンダーフリー規範にアップデートしない

  2. 旧来のジェンダー規範に基づく男性の性役割を達成できない

  3. 上記に耐えられない

  4. 上記から現実を直視できない

 上記の箇条書きで列挙した夫の有り方を検討していこう。

 1.についてみよう。

 ジェンダーフリー規範が正しいとされている最近の風潮に従えば、旧来のジェンダー規範を内面化したままでジェンダーフリー規範にアップデートできていない事は、正しいとは言いかねる状態である。言ってみれば、時代遅れの考え方に固執する望ましくない態度といえる。

 2.についてみよう。この2.に関しては2つの視点から見ることが出来る。

 まず、旧来のジェンダー規範からの視点から見よう。夫である男性は旧来のジェンダー規範に基づく性役割を果たせていない。つまり、彼自身が固執している旧来のジェンダー規範という評価基準では夫として彼は不合格なのだ。夫である男性自身が選択した基準から見て彼はダメな夫といえる。

 つぎに、上記を踏まえて一段上の審級の視点から見よう。ただし、ここで見るのは先の1.で考察したものとは別の功利的観点による。

 さて、旧来のジェンダー規範という評価基準では夫として彼は不合格である。したがって、自己を夫として不合格にするような評価基準を放棄し、別個の評価基準となるジェンダーフリー規範を採用しない事は不合理である。彼が旧来のジェンダー規範に固執することの不合理さを、譬え話で説明しよう。

 ある人がプロ棋士を目指しているとしよう。しかし、どうにもこうにも将棋の才能がなく到底プロ試験には合格の見通しが立たないとする。このような場合、いつまでもプロ棋士の進路に固執することは不合理である。さっさと別の進路に切り替えて人生を歩むべきである。

 夫である男性の不合理さは、将棋の才能がないのにいつまでもプロ棋士の進路に拘る人間の不合理さと同じである。つまり、旧来のジェンダー規範からは夫として彼は不合格なのだから、彼は夫として合格になるように(ジェンダーフリーという)別の価値観に切り替えるのが合理的であるといえるのだ。

 3.についてみよう。

 旧来のジェンダー規範から見て夫として不合格であることに夫である男性自身が耐えられない、というトピックである。

 このトピックにおける彼のタチの悪さは、先の将棋の譬えを使って説明するならば「自分が将棋下手であることに耐えられない将棋好き」というタチの悪さと言える。将棋でも自分が下手の横好きとの自覚があれば将棋で負けてもストレスは溜まらない。しかし、将棋下手なのに自分が下手であることを受容できないならば将棋を指す度にカッカしてストレスを溜めることになる。

 夫自身が旧来のジェンダー規範から自由に成れずとも「自分はダメな亭主だな。ま、完璧な人間なんていないしな」といったような自己受容があれば、精神の安定と妻のダメな所への寛容とフォローが生まれたかもしれない(そしてそのことで良好な夫婦関係が築けたかもしれない)。しかし、旧来のジェンダー規範からは無根拠とも言える「夫としてのプライド」から「自分はダメな亭主だな」との自己理解にも耐えられず、夫としてダメな現実を突きつけられる度にストレスを溜めるのであるから処置無しである。

 4.についてみよう。

 これは3.で見た受け入れがたい現実から逃避するために「お金の話はタブーで…」とする非合理さである。心理上の防衛機制による行動が合理的な観点から正しい行動なのかといえば正しくない場合が殆どである。他人がその非合理な行動に付き合わされるとなると、付き合わせることの妥当性に関しては相当に厳しいものとなる。功利的な観点や感情面への配慮の観点から妥当性が生じることもないではないだろうが、基本的には非合理な行動は望ましくない。

 以上、夫である男性を非難する理屈を見てきたわけだが、これはこれでそれなりに道理のある話である。だが「当人自身の内面の旧来のジェンダー規範の呪縛から受ける苦痛の問題」であっても、苦痛を受けているのが女性であれは、この非難の理屈は血も涙もないストロングスタイルとなる。そして、ストロングスタイルと感じる感覚こそがジェンダー記事の姿勢のジェンダー差を生む問題となっている。

 では実際に女性のジェンダー問題でこの理屈を適用してみよう。

 さて、ハゲの女性は日本社会において大抵はウイッグを付けている。そして、ウイッグを付けた女性は旧来のジェンダー価値観から色々と苦痛を感じている。言い換えれば、ハゲのままだと苦痛を感じるからウイッグを付けている。このとき「旧来のジェンダー価値観に固執することなく、とっととジェンダーフリーの価値観に従うべし」との理屈に従うならば、ハゲている女性は自身の価値観をジェンダーフリーの価値観に切り替えて堂々とハゲ頭を出せばいいじゃないかと提言されるはずだが、そうはなっていない。

 このとき、節の冒頭で引用した文をこのハゲの女性のジェンダー問題に対応する形に置き換えると以下のようになるが、奇妙なことに思いやりのある対応の話になってしまうのだ。

「ハゲだとわかってしまうと、“ちゃんとした女性でありたい”という女のプライドが崩れてしまう。だから、髪の話はタブーで…」

対象を入れ替えた例B (筆者作成)

元になった記事の箇所を並べてみよう。

「私のほうが高収入だとわかってしまうと、“家庭を支えている”という夫のプライドが崩れてしまう。だから、お金の話はタブーで…」

「給料まで負けたら存在意義がない」“妻が夫より稼ぐ”に当事者が抱くモヤモヤ&根強い偏見
2023/5/18 ABEMA TIMES (再掲)

 元記事の箇所においては、ツイフェミ界隈からの「夫ちゃんはママにヨシヨシされないとダメなんでちゅね~」という揶揄が聞こえてきそうな雰囲気がある。一方、入れ替え例Bに対して「女ちゃんはパパにヨシヨシされないとダメなんでちゅね~」という揶揄がなされるとは到底感じられない。

 入れ替え例Bに対しては「本人が気にしてないならばともかくとして、気にしているんだったら配慮すべきでしょ?」といった理屈が優先される。全く持って奇妙な話である。なぜなら元記事のものと以下のように構造は同じで単に性別が男と女で入れ替わっただけであるからだ。

  1. 旧来のジェンダー規範をジェンダーフリー規範にアップデートしない

  2. 旧来のジェンダー規範に基づく女性の性役割を達成できない

  3. 上記に耐えられない

  4. 上記から現実を直視できない

 さて、上記の1.~4.に関して、元記事のものと入れ替え例Bで同様の対応をとったときの印象の違いを比較してみよう。

1.元記事の例についての提言
 自分の内面の規範を、旧来の男性ジェンダー規範「夫が家計を支える」からジェンダーフリー規範「夫と妻のどちらが家計を支えてもいい」にアップデートすべき。それができないのは単なる時代遅れ。

1.入れ替え例Bについての提言
 自分の内面の規範を旧来の女性ジェンダー規範「髪は女の命」からジェンダーフリー規範「男女双方について髪があっても無くてもよい」にアップデートすべき。それができないのは単なる時代遅れ。


2.元記事の例についての提言
 妻より低所得なのだから旧来のジェンダー規範からは夫として失格。そんな自分を失格とするジェンダー規範にしがみつくのは馬鹿の所業。とっととジェンダーフリー規範にアップデートすべき。

2.入れ替え例Bについての提言
 ハゲなのだから旧来のジェンダー規範からは女として失格。そんな自分を失格とするジェンダー規範にしがみつくのは馬鹿の所業。とっととジェンダーフリー規範にアップデートすべき。


3.元記事の例についての提言
 夫として失格と評価してくるにも関わらず旧来のジェンダー規範に固執するならば、その規範からの評価も平然と受容すべきであって、自分が固執した規範からの評価に傷ついて「苦痛を感じる」などといった甘えたことを言うべきじゃない。

3.入れ替え例Bについての提言
 女として失格と評価してくるにも関わらず旧来のジェンダー規範に固執するならば、その規範からの評価も平然と受容すべきであって、自分が固執した規範からの評価に傷ついて「苦痛を感じる」などといった甘えたことを言うべきじゃない。


4.元記事の例についての提言
 実際は妻より所得が低いのに、そんな現実が無いように誤魔化すような振舞をするのは、いかがなものなの?現実を直視したら?

4.入れ替え例Bについての提言
 実際はハゲているのに、そんな現実が無いようにウイッグで誤魔化すのは、いかがなものなの?現実を直視したら?


 以上のように同型の男女のジェンダー問題への提言を並列して比較とき、男性のジェンダー問題に対して投げかけられる提言は巷でしばしば観察されるため驚きが無い。だが、女性のジェンダー問題に対して同様に投げかけた提言には苦痛を感じている人間に対する配慮が一切無いという驚きがある。この驚きは「女性は周囲が守ってやる存在であり、男性は強くなければならない存在なのだ」という旧来のジェンダー規範が、当のジェンダー問題に関する言説のなかにもメタレベルで強固に存在しているために生じている。

 ツイフェミ達の表現を借りるならば、女性はパパにヨシヨシされる存在であったため苦痛を感じている人間に対する配慮が無いマッチョなストロングスタイルのジェンダー問題の克服手段は強要されない。だが、男性はママにヨシヨシされるようなひ弱な存在であってはならないため、マッチョな克服手段を強要されるのだ。

 男性は感情よりも合理的な思考による論理が優先されるべきとして克服手段が提示される一方、女性に対しては克服手段において感情への配慮が十分になされるべきあるとのジェンダー意識が存在していることが明らかになった。ジェンダー問題に関して、まさにその克服の段階において、男女でジェンダー差が存在していると言えるのだ。


まとめ

 以上の二つの記事について記事で登場する理屈に関してそれぞれ男女のジェンダー問題を入れ替えて見てきた。その中で、以下の2つのジェンダー差の存在が明らかになった。

  • 男性のジェンダー問題は男性が変わるべきとされ、女性のジェンダー問題は社会が変わるべきとされる。

  • 男性のジェンダー問題の克服において苦痛を感じている男性の感情は軽視される。一方で、女性のジェンダー問題の克服においては苦痛を感じている女性に対して配慮される。

 この2つのジェンダー差は、個々のジェンダー問題のアプローチにおいて、また個々のジェンダー問題に関する言説において、メタレベルで「女性は周囲が守ってやる存在であり、男性は強くなければならない存在なのだ」とのジェンダー的価値観に基づく姿勢が存在していることを示しているのだ。


註1 
 これからの日本の経済情勢として家計収入が一馬力なのは厳しいといったような、ジェンダー正義の観点ではなく実際上の経済合理性から結果的に「夫が稼がねばならないとする旧来のジェンダー規範は維持できないだろう」という見通しを語る2人の識者の意見と、「自分より下の世代はデートでも割り勘が平気な人間が増えていて妻が夫より稼ぐことに忌避感を感じる人間は少なくなっているのではないか」という趣旨の元スポーツ選手のコメンテーターが語る印象論がそれにあたるぐらいである。これらは結語に当たる箇所に配置されたものなのだが、本論に当たる部分との関係性からみて、批判に対する予防線のような補足と言ってよい。

註2 
 "はげる権利"のパワーワードが登場した際の「その行為がしんどくなり、エイっとウィッグを脱いで・・・」の部分を”当人の気持ち次第なのだ”と解釈した場合、「今まで髪の毛がなくても何とも思ってなかった方が、ニュースを見て『あ、ウィッグ着けたほうがいいのかな』と不安になることもあるのではないかと思います」という箇所の「今まで髪の毛がなくても何とも思ってなかった」の部分からあくまでも当人の意識の問題なのだと解釈した場合、「脱毛症の当事者の女性がいます。思春期からずっと、学校でウィッグをどうするか、自身の脱毛症と向き合い続けてきました。彼女は高校生のときに、ウィッグを外しても親友の態度がなにも変わらなかったことをとてもよく覚えているそうです」の箇所を”周囲は何とも思ってなかったのに本人が独り相撲していた"と解釈する場合は、やや処方箋1よりの見解を当該記事でも触れていると解釈出来なくもないといったところになる。


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