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男女不平等な本質主義のエコフェミニズム

 フェミニストのダブルスタンダード問題は、実に様々なレベルで存在する。そんなフェミニストのダブルスタンダードに関して「本質主義-実存主義」あるいは「本質主義-構築主義」のダブルスタンダードがある。思想の根幹に関わる部分でのダブルスタンダードなので、「ホント、フェミニストって女の利益になるのなら何でもいいんだな」との感想を抱かざるを得ない。

 市井のフェミニストが訳も分からず適当にフェミニズム書籍を手に取ったとき、その書籍が異端の本質主義フェミニズム、とりわけエコフェミニズムの書籍である場合もあるのだろう。そして、エコフェミニズムと標準的な構築主義フェミニズムとの整合性を意識することなく同じフェミニズム思想として鵜呑みにしてしまう可能性がある。そのような読書体験をしている市井のフェミニストが、あるときは標準的な構築主義フェミニズムの書籍の引き写しの主張を行い、別のときはエコフェミニズムの書籍の引き写しの主張を行う、といった場合もあるだろう。そして、そんな半端な理解力のフェミニストが垂れ流す言説を目にして、劣化コピー言説を再生産する市井のフェミニストも少なくないのだろう。

 理解力に難がある市井のフェミニストからすれば、諸悪の根源は男であるとの男性悪玉論が展開されていれば、思想間の関係性などどうでよいのだろう。しかし、フェミニストの矛盾した言説に付き合わされる側としては、せめて自らの思想的立場ぐらいキチンと理解しておいて欲しいと呆れてしまう。

 そこで今回のnote記事のテーマとして、本質主義フェミニズムとりわけエコフェミニズムを取り上げようと思う。


■男女論における本質主義・実存主義・構築主義

 まずは男女論における本質主義・実存主義・構築主義の思想を簡単に説明しよう。

  • 本質主義:男女は存在論的に見て別々の存在である。それゆえ現実世界での男女の有り様が異なるのは必然である

  • 実存主義:現実世界での男女の有り様が異なるのは必然ではない。男女が現にあるような形の存在であるとは存在論的には決まっていない

  • 構築主義:男女の存在論的性質は等しく、現実世界の男女の有り様の違いは、社会によってつくられた(=構築された)ものである

 上記の説明から分かるように、本質主義と実存主義の考え方は両立できず、また本質主義と構築主義の考え方も両立できない。

 さて、フェミニズムは基本的には、実存主義や構築主義の立場を取っている。例えば、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの名言「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」で表される思想的立場が、典型的な実存主義や構築主義のフェミニストの立場である。そして、当然ながらこの思想的立場を取るならば、「人は男に生まれるのではない、男になるのだ」とも言える。もしも、そのように考えないのであれば、そのフェミニストの思想的立場は本質主義であって、ジェンダー平等などを唱える標準的フェミニズム――実存主義や構築主義のフェミニズム——からは外れる。

 言ってみれば、社会学的決定論をとるのが実存主義や構築主義のフェミニズムであり、生物学的決定論をとるのが本質主義フェミニズムである。

 難し気な哲学用語あるいは社会学用語を用いているので理解しずらいのかもしれないが、イメージを掴めば大して難解なことを言っているわけではない。そこでイメージを掴むために譬えを用いて説明しよう。

 実存主義や構築主義のフェミニズムの男女のイメージと思想は、お菓子のクッキーで考えると分かり易い。

 無定形のクッキー生地が星やハートの抜き型によって星形やハート形のクッキーとなって焼かれる。そして、形ごとに分けられて箱の別々の仕切りに入れられる。

実存主義や構築主義のフェミニズムを理解するための譬え1 (筆者作成)

 実存主義や構築主義のフェミニズムの考え方では、男女はクッキー生地のように本来はどんな形にでもなることができると考える。仮に現在は男が星形クッキーで女がハート形クッキーであっても、男女共に星形になることもできれば男女共にハート形にもでき、また男がハート形で女が星形になることもできる。更に言えば、花形やスペード形にすることも可能だ。

 クッキーの成型はクッキー自身ではなく型押しする料理人がしているように、男が「現にある男性」に、女が「現にある女性」になるのは現在の社会がそのようなジェンダーステレオタイプを押し付けて成型しているからだ。また、星形クッキーとハート形クッキーを箱の左右の仕切りに別々に入れるのはクッキー自身ではなく箱詰めする人であるように、社会において男女が別々になっているのは男女それぞれ自身というよりも社会がそうしている。

 この類比をさらに詳しく考えていこう。

 現在クッキー生地に押し付けられる抜き型がそのような型でなければならない必然性はなく、そもそも論として一定の型に成型されなければならない必要性もない。また、それぞれのクッキーが箱詰めされるとき、左右のどちらの仕切りに入れられるのかの必然性もない。つまり、特に理由もなく型抜きされ、特に理由もなく箱詰めされるのだ。

実存主義や構築主義のフェミニズムを理解するための譬え2 (筆者作成)

 上の譬えからイメージできるように、実存主義や構築主義のフェミニズムの考え方では、男女それぞれが「現にいる男性・女性」のようでなければならない必然性はなく、そもそも論として「男性は○○である」「女性は△△である」といった一定のジェンダーの型が存在しなければならない必要性はないと考える。また、社会において担う役割に関しても、男女で担う役割が決まっているわけでもないと考えるのだ。

 以上の説明を読んで「それって当たり前じゃない?フェミニズムってそういうものだし」と感じたならば、次に説明する本質主義フェミニズムの言説に対してはキッチリカッキリと「それは私の思想的立場とは異なる」と認識して欲しい。

 では、本質主義のフェミニズムの男女のイメージと思想は、果物のスターフルーツとスイカで考えると分かり易い。因みにスターフルーツは次の果物だ。

スター‐フルーツ(star fruit)
東南アジア原産の果実。果皮は黄色。果肉は多汁質で甘酸っぱい。果実の横断面が五角の星形をしているのでこの名がある。五斂子ごれんし。

出典 デジタル大辞泉 小学館
出典 デジタル大辞泉「スター‐フルーツ」の項 小学館

 上記の写真や辞書の説明を見れば分かる通り、スターフルーツが星形になっているのは、スターフルーツそのものの生物的性質によって星形になっている。なにかの型に嵌めて星形になるように育成したわけではない。

 本質主義フェミニズムによる男性についてのイメージは、生物的性質によって星形になるスターフルーツと同じである。譬えれば、構築主義や実存主義のフェミニズムであれば「本来は無定形のクッキー生地である男が星形になっているのは、星形の抜き型によって成型されたからだ」と考えるところ、本質主義フェミニズムでは「男性はその本質として星形になる性質を持っているから星形になるのだ」と考える。

 譬えではない形でいえば、「男は男性の本質によって『現にあるような男性』になっている」と考えるのが本質主義フェミニズムなのだ。

 一方で本質主義フェミニズムの女性に関する認識はどうかといえば、「女は女性の本質によって『現にあるような女性』になっている」とは考えない(ただし、そういう本質主義フェミニズムが無い訳ではない)。むしろ「資本主義体制や家父長制によって女の本質からは捻じ曲げられた『現にあるような女性』になっている」と考えるのだ。

 この本質主義フェミニズムの主張を理解するために、以下の写真を見てみよう。

 以下の写真のハート形のスイカは、本来は丸い形になるスイカをハートの型にいれてハート形なるようにして育成した変わり種スイカだ。当然ながら、このスイカもハートの型に入れて育てなければ普通の丸いスイカになったであろう。

世にも珍しい“ハート型のスイカ”が「道の駅すいかの里植木」に登場???
肥後ジャーナルライター 2017.7.6 肥後ジャーナル

 本質主義フェミニズムでは女性を写真のハート形のスイカのようなものと考える。譬えでいえば、女性の本質としては丸くなるハズであるにもかかわらず、資本主義体制や家父長制によってハート形になるように育成されているというわけだ。つまり、本質として星形になるスターフルーツのような男性とは違って、女性は枠にいれられてハート形になったスイカのように本質としてはハート形になることはないと考える。

 本質主義フェミニズムの男女観をまとめてみれば、スターフルーツが本質によって星形になるように、男性は男性の本質によって「現にある男性」となるのに対して、ハート形のスイカの本質がハート形でないように、女性の本質は「現にある女性」とは違うという訳である。言い換えると、「スターフルーツの星形となる本質」と「今現在はハート形にはなっているもの、自然にすれば丸くなるスイカの本質」とが別物であるのと同様に、「『現にある男性』として実現している男性の本質」と「『現にある女性』ではない別の形の女性の本質」とは有り様が別物であると本質主義フェミニズムでは認識するのだ。


■エコフェミニズムという異端の本質主義フェミニズム

 ジェンダー平等を否定する非標準的フェミニズムとして「エコフェミニズム」と呼ばれる立場があり、その思想的立場は本質主義である。エコフェミニズムから見た女性を巡る状況は、先のボーヴォワールの言葉に擬えば「女性は"現在そうであるような女"に生まれるのではない、男性が作り出した社会によって"現在そうであるような女"になるのだ」と認識する。これだけならば標準的なフェミニズムとそう大して変わらないように感じられるだろう。

 しかし、「本質的に男女は異なる存在であり、性別によって相異なる原理――男性原理と女性原理——を持つ」と考えるのがエコフェミニストである。そして、「男性が作り出した邪悪な社会システムがなければ、女性はその本質として『スーパーでミラクルな存在』となるのだ」と考え、さらに「そんなスーパーミラクルウーマンが社会を主導すれば現代社会が抱える問題を解消できるのだ」とエコフェミニストは主張する。つまり、彼女らの思想は形を変えた選民思想であり、ジェンダー平等を唱える標準的フェミニズムとは思想的立場が逆の立場なのだ。

 ここで、エコフェミニズム理論を簡単に説明しよう。

 エコフェミニズムは、マルクス理論からみた「資本主義体制による自然環境の価値の搾取」とマルクス主義フェミニズムからみた「資本主義体制による家事労働の価値の搾取」の類似性、生殖体験という女性特有の体験に立脚する存在論的な男女の差異から、エコフェミニスト達は女性の本質を『スーパーでミラクルな存在』として規定する。どういうことかといえば、マルクス理論およびマルクス主義フェミニズムによれば、自然も(家事労働を担う)女性も資本主義体制においては「剰余価値=資本家の利潤」の源泉となる。また、生物としての女性が担う生殖において、母なる自然と同様に、女性は自らの身を削り他者を生み出している。つまり、エコフェミニズムから見れば女性こそが無から有を創り出す性別なのだ。太古の大地母神信仰のリバイバルがエコフェミニズムといって良いだろう。


■余談:本質主義フェミニズムが顔を覗かせる「戦争指導者」に関する言説

 エコフェミニズムについてnote記事を書こうかと考えていたとき、本質主義フェミニズムに基づくバカバカしい言説がメディアに取り上げられた。あまりにも呆れ果てるメディアの姿勢だ。

 本質主義フェミニズムの考え方はジェンダーバイアスと等しい。本質主義フェミニズムはフェミニズムとの名前はついているものの、「男は○○、女は△△」との男女別の認識を大前提とする。両者は全く何も変わるところがないのだ。

 散々に「ジェンダーバイアスは間違っている。我々はアップデートしなければならない」とメディアは煽っているにも関わらず、「男は○○だ!女なら(きっと)違う!」と主張するフェミニストの主張を掲載してしまうあたり、「お前らの頭は飾りか?」と言いたくなる。現在の欧米の不健全な政治的風潮、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」で正しさが変わるアイデンティティ・ポリテクスを、日本に輸入するのは止めて欲しいものだ。

「男性政治指導者は戦争志向、女性政治指導者は平和志向」

 歴史を全く学習していない、通俗的に垂れ流される上記の認識に基づく言説は、ジェンダーバイアスそのものである。また、それがフェミニズムに適う言説だと考えるのであれば、そのフェミニストは本質主義フェミニズムの思想的立場に居る。そして、上記の認識こそが正しいと考えるならば、そのフェミニストは標準的な構築主義や実存主義のフェミニズムに対して決然と絶縁状を叩きつけるべきである。



※メディアに取り上げられた、「男性政治指導者は戦争志向、女性政治指導者は平和志向」との認識を前提におく本質主義フェミニズムの記事に関しては後日note記事で考察したいと思う。




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