『沈黙』マーティン・スコセッシ

 信仰心とは何か。誰のために宗教があり、正しさとは何なのか。カトリックのよくわからなさを海外の視点から描かれた作品で面白さや好きといった感情とは別のところで、ひとまず全く自分にはない視点が続々出てきて異様に好奇心を満たされた。

 神を信じぬいている本当に苦しい人たちを救わない神になんの意味があるのかという問い。まして神を信じて信仰心に忠実であればあるほど苦しむことになるし、その苦しみが周囲にまで飛び火していくやりきれなさ。それに対する答えが出たような出なかったような。目の前の人を救うことが大切で、心の中で思ってさえいればそれが自分の信仰や信念を表す。そして神はそれらの葛藤の中で沈黙を保っているのではなく共にそばで苦しんでいると。まぁそう言われてもこっちは物理的に救ってほしいんだよと思わないでもないんだけど。まして救われるという触れ込みである以上は。精神的にそばにいてくれるという救いがあまりにも大きいものなのか根本的に自分の認識がズレているのか。

 映画を見ていてやっぱり実感を伴って当時の信仰心について認識できていなかったなと思った。踏み絵をすることに対してなぜ命を賭してまで拒んだのかあまりしっくりきていなかったのだけれど感情移入しながら見ていると単純に顔を踏むというのは忌避される行為だと本能的に思った。これに信仰が乗れば踏めなくなるのもわかる。しかもどこまで史実に基づいているのかはわからないけれどあそこまで早いタイミングでせっつかれれば命のために踏むという覚悟をする余裕もなくなって流されるままに踏めなくなりそうだった。

 あとは日本人が信仰心のために殉教していくのではなく、ただ人のために自己犠牲をしているだけだという話には納得すると同時に複雑な気持ちになった。確かに日本では無宗教なり自然への信仰のみが受け入れられているような気がしているのだけれど、人を超えた存在を認めることはできないのだろうか。増して沼とまで言われていて。現代社会、少なくとも日本では宗教との付き合い方は一歩引いているように見えるものの、おかげで自由な信仰心をある程度認められている。ポリティカルコレクトネスの話にもなってくるけど4人の妻が喧嘩をするから全員排除するなんて横暴はなくなっている。けれど西欧諸国では徐々にその考え方が広がってきていて、逆行しているようにも思える。スコセッシはそういった現在の情勢に対する意見も含めてこれを撮ったのだろうか。だとすれば形がどうなったとしても心の奥底にある思いを忘れないようにしていれば大丈夫だというメッセージだったのだろうか。やっぱり面白いとか好きだとか以前にいろいろと勉強になったり示唆的な作品だった。

 あとなんら関係ない話なんだけれど客層がかなり高めだった。平日の昼間という職についていない人が来やすい時間だというのもあったのだろうけどそれにしても想像以上だった。多分遠藤周作効果なんだろうな。思わぬところで上の世代の小説に対する繋がりの深さに触れたような気がして若者の読書離れを実感した。これで実際はスコセッシ効果とかだったら笑う。

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