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エッセイ『大好きだよ』捨て犬だった君へ

彼女は幸せだっただろうか
彼女は淋しくなかっただろうか
彼女は
今も私たちを愛してくれているだろうか

 「よく頑張ったね!」
私たちの姿を見つけた彼女は、力弱く、でも嬉しそうに微笑んで応えた。
久しぶりと言っても三日間だが、私たち家族にはとてもとても長い三日間に思えた。

 彼女が癌に侵されていると分かった時、それは既にかなり進行していて、体中に広まってしまっていた。年齢も若くないから手術自体に耐えられない可能性もあるし、たとえ手術をしても助かるか分からないと、お医者さんに言われた。

一晩みんなで悩んだが、答えはひとつ。たとえ少しでも助かる可能性があるのなら、助けてほしい。小さなお腹を開いて、すい臓全部を摘出する大手術だった。
「成功しました!ぜんぶきれいに取れましたよ」
電話口でお医者さんがそう報告してくれた時、私たちは心から神様とお医者さんに感謝した。たとえそれが、限られた時間の幸せであっても・・・。

一、 〈出会い〉

 彼女の名前は “ミロ ”
名前に加えて、太い声とややぽっちゃりな体型も相まってよく男の子に間違えられるが、とても美形の女の子だ。由来はもちろんあのドリンク。元気に育ってほしいから・・といういのは後付けの理由で、たまたま姉と私の目の前にMILOの瓶があって、毛の色が茶色かったから、というのが本当の理由だ。
 当初、猫を飼う予定だった私たちは「アメリア」とか「クローディア」といったお洒落な名前を考えていた。上品な見た目で当時大流行していたグレーのアメリカンショートヘアの子猫に代わって突然我が家にやって来たのは、ちっとも流行っていなかったビーグルの子犬だった。
 姉の友人のお父さんに捨て犬を見ると必ず拾ってきてしまう人がいて、彼女も運良く、近所の川の土手で拾われたのだ。二匹の姉妹だったそうだが、残念ながら弱っていたもう一匹はすぐに死んでしまった。彼女は一人っ子になったが、何でも拾って来るその家にはすでに先客がたくさんいて、それ以上家族を増やせなかった。そうして、私たちの家に引き取られることになったのだ。

 初めて彼女を手渡されたとき、その温もり、ミルクの匂い、柔らかさに胸がいっぱいになった。迎えに行った車の後部座席で姉と私は交互に彼女を抱っこしたが、眠いのか怖かったのか、あるいは温もりに飢えていたのか、私たちの脇の下に頭をすっぽりと入れてじっとしていたのをよく覚えている。
 彼女が家に来てからというもの、私の毎日はバラ色になった。前に飼っていた柴犬は外犬だったので、同じ家の中で一緒に寝て起きて抱き上げて頬擦りする・・・犬とそんな関係になれることを初めて知り、子供の私は心から感動した。
 普通、ペットショップで子犬を探すときには二ヶ月は育ってから引き渡されるので、ある程度丈夫になっているものなのだが、彼女はまだ生後二、三週間の生まれたてだった。なんと、目も見えていない!「初めて見る家族は私であってほしい」と毎日期待に胸を膨らませていたが、彼女がそのクリクリとした大きなこげ茶色の瞳で見上げたこの世で初めての人間は、母であった。まぁ、小学校に通っている私には元々望みは薄かったのだけれど。

 目が開いてからも小さな彼女はなかなか丈夫にはならなかった。
人間の赤ちゃんにするように、哺乳瓶で温めたミルクをあげる。すると両手(前足)で瓶を抱えて必死に飲もうとするのだが、なんとか飲んだと思うとすぐに吐き出してしまう。何度やってもたくさんのミルクを飲むことが出来なかった。
 「この子は育たないかもしれないね・・・」
母の辛そうなつぶやきに姉も私も泣きそうになる。でもみんなで一生懸命に育てた。中でも母の愛情の掛け方は偉大だったと思う。三年前、十二年間飼っていた柴犬のカールが病気で死んでしまったとき。あまりの悲しさに「もう二度と犬は飼いません」と宣言した母だったが、このか弱い小さな命を前にして犬への愛情を一気に思い出したのだと思う。みんなが諦めかけても決して諦めず、わが子のように面倒を見ていた。母はやっぱり「母」だった。

 その気持ちが伝わったのか、やがてコロコロとした元気な子犬に成長して、それはもう、どうしようもないと言っていいぐらい可愛い姿になった。父が仕事に、姉と私が学校に行っている昼間の様子を母は毎日写真に撮って見せてくれるのだが、大抵はピントがずれていたりお尻しか映っていなかったりして、まともな写真はほとんどない。でもとにかく、それでも毎日カメラに収めなければ気が済まないほどに可愛かったのだ。
 この頃ならではのエピソードはたくさんある。たとえば初めての冬の思い出。我が家は父がとても寒がりで、秋が終わらないうちに居間には大きなコタツが登場する。彼女にとっては初めてのコタツで、その暖かい掛け布団の上をヨチヨチと歩いて楽しんでいた。コタツに入った家族の膝の上を渡り歩く彼女を見て、私たちはみんなで布団の端を持ってぽんぽんと彼女を弾ませてみた。するとお手製のトランポリンの上でまるで手毬みたいに弾んで布団の上をコロコロ転がった。本人(本犬?)が楽しかったかどうかは定かではなが、その愛らしい姿にコタツトランポリンは、しばらく家族の大ブームとなった。

 あるいは、ある休日。
「うわー!」という父の叫び声で居間の後ろを振り返ると、ソファに座る父の手の上に何か物体が乗っている。まだおトイレの躾が出来る前で、階段の上の踊り場にあるおトイレに間に合わなかった彼女はソファの上でウンチをしてしまったのだが、父はそれを思わず両手で受け止めたのだ。買いたての立派なソファが大事だったこともあるだろうが、それよりも「ウンチを手で持っても全然嫌じゃないほど愛しい!」というのが、このエピソードの結末である。
 まあどこの家でも自分のペットが一番可愛いという親バカぶりは当たり前だが、彼女の人気ぶりは家の中だけではなかった。生後三カ月ぐらいのときに姉と私で連れて行った公園デビューから始まり、社交的な母にとても友達が多かったこともあって、その人気は近所だけでなく、かなり広い範囲にまで広まって行った。彼女に会いに来るお客さんがどんどん増えて行き、家にはいつも賑やかな来客が絶えなかった。母の友達の他にも、私が小学校から帰ると既に自分の友達がうちの居間で彼女と遊んでいたり、同級生の妹までもがくつろいでいたり・・・という日も珍しくない。もちろん散歩をしてもアイドルだ。
これだけみんなの人気を集めたのは、たぶん見た目の可愛さだけではない(確かに子犬の彼女はとても可愛かったが、ビーグルはどちらかというと平凡な姿だ)。彼女は人間から見ても分かるほどの「性格美人」だったのだ。

 すべての人に愛嬌が良く、そして人に優しかった。でも犬嫌いの人だけはなぜか見極めて自分からは近づかない賢さもあった。子犬の頃にあまり他の犬と遊ばせなかったせいで犬は苦手のようだったが、どんな気性の荒い犬にも吠えないし、ケンカもしない。気が強くてすぐ歯をむき出す犬も、なぜか彼女にはそうしなかった。ただ、家の出窓やベランダから外に犬を見つけた時にはビックリするぐらい大きな声で吠えていたから、単に内弁慶だったのかもしれないが、近所ではお子様からお年寄りまで安心して撫でられる「気のやさしい子」と大評判になっていたのは確かだった。

それと、むやみやたらに自己主張をしない奥ゆかしさがあった。
ある日、彼女の姿が何時間も見当たらないことに気がついた母と私が家中を探していると、レースカーテンの向こうに何やら茶色い影が見える。居間のベランダに彼女が出ていたことを知らずに母がガラス戸を閉めてしまい、レースカーテンまで閉めてしまって、閉じ込められていたのだ。たしかガラス戸のすぐこちら側で母も私もテレビを見ていたのだが、なぜか彼女は何時間も一声も吠えず、ガラス戸を爪でガリガリすることもしないで、じーっとそこに座ってお茶を飲む私たちを見ていたというのだから驚いた。「謙虚なのか、バカなのか・・・」とみんなで笑ったが、そういうちょっと「わびさび」のような魅力が彼女にはあった。甘えん坊でさみしがり屋なのに、たまにふいっと違う部屋に行って一人になりたがったりもした。いないなーと思って姿を探すと、たいていは外が眺められるお気に入りの場所に静かに寝そべっている。居間の出窓、広いベランダのはしっこ、そして私の部屋の窓際のベッドの上。居間の出窓にお行儀よく伏せをしていると、まるで良くできた美しい置物のようだったので、外を歩く人がたまにびっくりして見上げる。行きかう人や車を見ているのが彼女の趣味だったのだろう。私はそのお気に入りのスポットの中に自分のベッドが入っているのが嬉しかった。宿題をするために机に向っていると、すぐ横のベッドで彼女が静かに外を眺めている。それだけで、優しい、幸せな気持ちになれる。

 とても小心者なところもみんなを微笑ませたチャームポイントだったかもしれない。外で犬に吠えないこともそうだが、家の中でもおかしいほどに臆病な時があった。我が家は自営業だから一階が店で住まいが二階にあるため、彼女の住まいも階段を上がった二階だった。なので誰かが帰って来ると玄関の開く音が一階から聞こえるのだが、階段を上がってくるまで誰だか分らないのだ。彼女が外に出てしまわないように階段の上には小さな柵がしてあって、一階で気になる音がすると踊り場から階段の下の様子を窺っていた。わたしたちはたまに彼女を驚かそうと、玄関で大きな音を立てたり、階段の下から低い変な声を出してみたりした。するとビクッ!と驚いた彼女は踊り場から居間に引き返すだけなく、居間の一番奥にあるソファの背もたれの上にまで逃げて硬直していた。その怖がりようがあまりに可笑しくて、かわりばんこにおどかしては大笑いした。今思えばひどい飼い主である。一方で歩いて十分以上も離れた最寄り駅に家族の誰かが着いた頃から匂いを嗅ぎ分けて階段の上で待つような素晴らしい嗅覚でわたしたちを驚かせてもいたのだが、なぜか玄関を入ってからの演技力には騙されてしまうのだから面白い。

 実は彼女がここまで小心者になった原因のひとつとして考えられるのには、やはり子犬の頃の思い出があった。まだ生後数か月のころ、夜中に震度4ぐらいの地震があってかなり家が揺れたのだ。成犬になってからの寝床は母のベッドだったが、当時はまだ例の階段の踊り場に置いたゲージの中に一人で寝かせていた。当然彼女を心配して家族全員が踊り場に駆けつけたのだが、どこにも姿が見えない。居間を見回してもいない。ふと誰かが階段のほうを見ると閉めていたはずの柵が開いている。慌てて階段を数段降りてみたところで、彼女は発見された。上から六、七段のところでおしっこをちびって哀れに震えていた。どうやら初めての大きな地震にびっくりしてゲージを飛び出し、柵を体でこじ開けて階段を転げ落ちたうえに、びびってちびったらしい。一瞬家族みんなの動きが止まって、そして大爆笑した。怯えた目でわたしたちを見上げる彼女は本当に必死の思いで怖かったのだろうが、恐ろしいはずの地震の夜は思わぬ笑いの渦に包まれて終わった。

 二、〈本当の家族〉

 こうして(?)様々な楽しいエピソードを作りながら、小心者ながらも立派なビーグル犬へとすくすくと成長していった。犬は人間の数倍の速さで成長するので、生後一年もすると見た目はすっかり成犬になる。でも中身はまだまだ子供で、やんちゃで、三歳ぐらいになってだんだんと分別もつくようになり落ち着きが出てくる(人間と同じで個体にもよるが・・・)。その頃になると、家族である人間の気持ちが伝わるようになってくるから不思議だ。あるいは人間の方が犬の気持ちを理解し出すのかもしれないが、たぶんその両方だろう。

 とにかく三歳の誕生日を迎える頃には、「ただ可愛い」というだけの対象ではなくなり、心が通じる「本当の家族の一員」となってくるのだ。人間語もだんだん理解してくるが、でももちろん言葉で会話をすることは出来ない。それではどうやって心が通じるのか。他の家族がどうだったのかは分からないが、私の場合はこういう形だった。 
 私からは彼女に人間の言葉で話しかける。でもただ話すのではなく、同じ低い視線までしゃがみこみ、瞳を見つめる。そして手で頭や背中を撫でながらゆっくりと話しかける。そう、まるで外国でのコミュニケーションのようにジェスチャーとスキンシップが大事なのだ。あるいは小さな子供にするようにかもしれないが、彼女はだいぶ大人になっていたから感覚は少し違う。
 一方で彼女の方はというと、じっと瞳で話をする。犬の中には人となるべく目を合わせないようにする子も多いが、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめて何分でも視線を外さない子だった。それから手(前足)で私の腕をひっかいて何かを訴えたり、私の顔をなめて気持ちをより伝えようとする。やっぱりジェスチャーとスキンシップ、そしてお互いの「目」が共通の言葉になるのだと思う。ビーグルはイギリス生まれなので、ある意味で外国人だったのは確かだ。先代の柴犬カールの時には私が幼すぎてそこまで気がつけなかったが、でもまあ日本犬でもきっとこの方法に近いのだろう。
 とにかくそうして気持ちが伝わるようになった愛犬はもはや単に「犬」というくくりには出来ない存在になる。私が高校生になった頃には、彼女は妹のような姉のような、かけがえのない存在になっていた。父・母・姉にしても、それは同じだったと思う。

 近所の評判もさることながら、彼女がとても優しかったのは本当で、たとえば家族の誰かが足の指を家具にぶつけたときなどに、その優しさは発揮された。「痛い!」と泣きながら床にうずくまっていると、彼女はすぐに飛んで来てくれ、人の顔をのぞきこむように伏せて顔をペロペロと優しくなめてくれるのだ。
 思春期だった私は家族に対しては強がっていて、落ち込むようなことがあっても悩みを素直に相談出来るような子供ではなかったので、そんな時には自分の部屋に閉じこもって一人で泣いていることが多かった。こういう時にも彼女は寄り添うように隣に座って静かにじーっとこちらを見つめては、優しく顔をなめてくれた。それはまるで「泣いてもいいよ」と言われているようで余計に悲しさを誘うのだが、おかげで彼女に話しかけながら思いっきり泣くことが出来て、気持ちはとてもスッキリした。だから私は彼女にいろんな話をしたと思う。嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。もちろん返事を言葉で聞くことは出来ないが、黙って耳を傾け、時に優しくなめてくれる様子は本当に話の大半を理解してくれているようにも見えた。

仲の良い友達はいたがまだ彼氏もいなかったし、中・高校生というのは本当の悩みを人に話すのは苦手なものだと思う。だから、あの頃の私のことを一番よく知っていたのは間違いなく、ちょっと太った可愛いビーグル犬一匹だっただろう。「この子のためなら死んでもいい」と本気で思っていたこともある。こんなふうに言うとかなり暗い子供のように聞こえるかもしれないが、思春期特有の重い辛さの中で、彼女は確かに私の愛情のはけ口となってくれた。
でももちろん、彼女は私だけのアイドルではない。父・母・姉からも、たくさんの愛情を注がれていた。私はそんな思春期で姉もすでに社会人になっていたので、父と母がケンカをしても小さい頃のように仲裁役を買って出るのは面倒になっていたから、そんな時の二人は我が家の三女である彼女を間に入れて会話をしていた記憶がある。冷戦状態の中でも彼女を使って会話をし、あるいは彼女の話でいつの間にか無言の冷戦が終わり、仲直りをしていた。どこの家でもよくある光景だが、子供の役目を放棄した姉と私に代って彼女は本当によく大役をこなしてくれたと思う。ちゃんと聞いたことはないが、もしかしたら家族の誰もが、彼女にたくさんの告白をしていたかもしれない・・・と今になってそんな気がする。

家族の一番の「癒し」である彼女に、わたしたちはそれぞれの方法で愛情のお返しをしていた。父は週末の長い散歩で。母は毎日のご飯と温かいベッドの添い寝で。姉は何よりも命の恩人で、そしてたくさんの遊び相手として。私ももちろんたくさん遊んだが、最も彼女が喜んでいたのは私の肩もみだった。首の後ろや背中を揉みほぐしてあげると、ゴロンと横になってウットリとし、本当に気持ちよさそうに寝ていた。私がたまに疲れて手を休めると、すかさずこちらを振り返って手(前足)で腕をたたき、「もっとやれ」と催促された。犬も年を取るとどうやら肩こりはひどくなるようで、だんだんと遊びの誘いよりも肩もみの催促が増えるようになった。私を見ると飛んで来ては背中を向けてゴロンと横になるのだ。もうそれは明らかに「さあ、暇なら肩を揉んでちょうだい」と命令されているのに近かったと思う。人間だったらはなはだ迷惑なおばさんだが、彼女に言われればちっとも面倒ではなかった。そんなこんなでほぼ毎日、彼女の肩もみをしていたような気がする。小さかった彼女もちょっと太りすぎなぐらい大きくなり、八歳になろうとしていた。あ、そうそう。成犬になった彼女は普通のビーグルよりもやや足が長くて、その足にはたくさんの斑点があったので、「ビーグルとポインターのあいの子だったかな」という結論にもなっていた。

三、〈年をとる、ということ〉

それでも犬はいくつになっても可愛いもので、年を取っても、白髪が増えても、鼻の頭の色がはげてきても、ぽっちゃりをやや超えて太ったとしても、ずーっと可愛い。人間から見たらなんとも羨ましい話だ。彼女の場合はヒゲまで何本かは白髪となったが、体の何か所かに出てきた小さなイボでさえもチャームポイントに思えるから不思議だった。だからこそ、いつまでも元気でいてくれる気がしていたのかもしれない。最初に異変に気がついたのは私が一人で散歩に連れて出た時のことだった。

 うちの近所はもともと山を切り開いたような場所で散歩道も急な坂だらけだった。玄関を出てすぐに迎えてくれるのは、人間のお年寄りもため息をつくような急斜面の上り坂だ。散歩が大好きで玄関を出る時から大騒ぎをする彼女は、最初にその坂を全速力で駆けあがって頂上でいったん休むのがいつものコースだった。
その日も私は意を決して「ミロ、行くよ!」と言って駆け出そうとした。
すると先に前に出た私は、ちっとも追いかけてこない散歩用のヒモに後ろに引っ張られてつんのめりそうになってしまった。びっくりして振り返ると彼女が全然走ろうとしない。それどころか歩こうともしない。「どうしたの?散歩行きたくないの?」と聞く。なんだか変な表情をしてこちらを見上げているが、よく分からない。いくら引っ張っても動かない。だいぶ太っていて散歩もかかせなかったのでそのまま無理にでも歩かせようと思ったのだが、どうやっても数メートルと歩こうとしなかった。懸命に引っ張る姿を通りがかる人が笑うので、私は仕方なく彼女を抱えて家に帰ることにした。
家に帰って家族に話したが、やはり具合が悪そうだったので病院に連れて行った。レントゲンを撮り、詳しく調べてもらったら、彼女は病気だった。
心臓の左心室の弁がもともと上手く機能していなかったのが年を取ってひどくなってしまったらしい。上手く血液が回らなくて苦しいようなのだ。
実はビーグル犬の多くは心臓が弱い、ということをこの時初めて聞かされた。せっかく雑種だったのに、そんなところは正統に受け継いでしまったらしい・・・。「ミロも年を取っているんだ!」ということにも、初めて気付かされた日だったと思う。
でも心臓の働きを助けてくれる薬をもらい、これをきちんと飲んでいれば大丈夫でしょうと言ってもらった。「太りすぎも心臓に良くありません」とお医者さんにきつく注意されて、本格的にダイエット食に切り替えた。
家族みんなで心配したが、薬が良かったのか、母の必死なダイエット効果が出たのか、その後発作を起こすこともなくまた元気に散歩に行けるようにまで回復した。

 四、〈悲しみの予感〉

やがて姉は一人暮らしを始め、私も社会人になった。彼女と遊べる時間は学生の頃に比べると非常に少なくなっていたが、初めて社会に出て心身ともに疲れている私を、母の美味しい夕ご飯とミロの可愛さがいつも癒してくれていた。私はどんどん忙しくなり、深夜に家に帰ることも増えていたが、それでも玄関をそっと開けると、その微かな「カチャ」という音を聞きつけて、振り切れんばかりにしっぽを振って起きて来てくれた。どんなに疲れていても、仕事で嫌なことがあっても、その顔を見ればストレスは吹っ飛んだのを覚えている。父や母にとっても同じであっただろうし、離れて暮らす姉もたまに彼女に会いに来ては、そのぬくもりを味わっていた。それからも少しずつ年は取っていたがとても元気で、時に子犬のようにはしゃいでは家族や近所の人たちからもずーっと愛されていた。

心臓の病気になってから三年以上が過ぎていたその春のはじめ、もっと大きな病魔が彼女を襲っていることに気がついたのは、既に癌がお腹中に広まっていた後だった。「なぜ、もっと早く気がついてあげられなかったのか」とも悔やんだがすい臓の癌というのは他の癌と比べても非常に進行が早く、手遅れになりやすいらしい。すい臓でなくても癌で命を落とす犬は多かった。
広まってしまった癌を取り除くには手術しかなかったが、年を取っていたし、心臓も弱かったのでお医者さんもわたしたちも悩んだ。麻酔自体が体を弱らす可能性もある。手術をしても助からないかもしれない。一晩家族で話し合った。
でも、答えはひとつだった。たとえ少しでも助かる可能性があるのなら助けてほしい。このまま諦めてしまうなんて出来ない。みんなでお医者さんと神様に祈った。こんなに愛しい命をわたしたちから奪わないでほしい。
癌の宣告からわずか一週間、彼女を失う覚悟なんて誰にも出来ない。
出来るわけがなかった。

 神様はいた気がする。彼女の手術は成功したのだ。ぜんぶ取り除けました!と動物好きのお医者さんは嬉しそうに報告しくれた。数日間の入院を終えて、彼女はわたしたちの家に帰って来てくれたのだ!
 大手術の傷跡は痛々しかったが、癌でぼこぼこに膨らんでいたお腹は見事にきれいに平らになり、軽くなったお腹で軽やかに大好きなソファや私のベッドに飛び乗れるようにまで回復した。「本当に良かった」家族も、近所の人達も、親戚中も、そして数年前に私に出来た彼も彼女を愛してくれ、そう思い、みんなが安堵した。そして何より彼女は痛みから解放されて、表情はまた若々しくなり、とても嬉しそうだった。

でも癌は完治していなかったのだ。それからわずか一ヶ月たらずだったと思う。癌は再発した。もうあんな風にお腹を切り開く大手術は出来ないし、わたしたちはそれをしたくないと思った。そして二回目の手術はしない道を選んだのだ。はっきりとは分からなかったが、残された時間がそう長くはないことは確かだった。
私は会社から出来るだけ早く帰るようになり、姉も実家に帰るようになった。父も母も懸命に介護した。彼女とわたしたちの闘病生活はとても辛いものだったが、でもそれでも、「その時間」を与えてくれたことにみんなが感謝していた。もしもあの一度目の手術で死んでしまっていたら、こんな風に家族で彼女の面倒を見てあげることも出来なかったからだ。だんだんご飯も食べられなくなってきたので、好きそうなものを色々あげてみた。
アジの焼いたのやら、チーズなど、その日によって好きなものは変わったが、少しでも喜んで食べてくれるなら何でもよかった。中でも彼女が気に入ってくれたのは「カステラ」だった。文明堂のカステラ。私も姉もお土産にカステラを持って急いで帰宅する日々が続いた。でも一番献身的に面倒を見ていたのは、やはりずっと一緒にいる母だったろう。わたしたちが仕事に行っている間には、しょっちゅう彼女の写真を携帯で撮っては送ってくれていた。子犬の頃にはお尻しか写っていないような写真をいっぱい撮っていた母だったが、だいぶ上手くなったものだと、へんなところにも感心した気がする。

 あの数週間のことは、辛すぎて覚えていないこともあるが、ふたつだけとても良く覚えている日がある。

 ひとつはある土曜日。彼女は既にほとんど寝たきりで、もちろんずっと家からは出られない日が続いていた。天気のよかった休日の朝。誰かが思い立って、彼女を散歩に連れ出そう!となったのだ。散歩コースの中でも一番のお気に入りだった近所の大きな自然公園に車で連れて行くことにした。家族みんなで抱っこし、呼びかけながら慎重に運んだ。少し心配ではあったけど、公園について芝生の上に寝転んだ彼女は本当に嬉しそうだった。
もう走ったり歩いたりは出来なかったけど、みんなで芝生の上で気持ちのよい風に吹かれた。
彼女だけではない。父も母も姉もとても嬉しそうだった。私も幸せだった。たくさん写真を撮って、お弁当を食べて、まるで少し早い初夏のプレゼントのような素敵な一日を過ごした。

 もうひとつはある夜。好きなカステラもほとんど食べなくなってしまって、苦しそうにぜいぜいし始めた彼女を見て、今夜が峠かもしれない・・・と家族みんなで同じ部屋に眠ることにした。みんなが眠りにつき始めた頃だったか、母が彼女に呼びかける声で目が覚めた。とても苦しそうだ。私も彼女の背中をさすった。涙が出て来て、止まらなくなった。一週間前にみんなで行った散歩を思い出した。それまでの思い出がたくさん蘇ってきて、もう止まらない。思わず「ミロ、楽しかったね。本当に楽しかったよね」と泣きわめく私に、姉は「まだ死んでないよ」とちょっと笑ってみせたが、でもみんな泣いていたと思う。
その夜、彼女はもちこたえてくれた。その頃まだ慣れない仕事に疲れていて、根性も体力もなかった私は、翌日は自分の部屋に戻って泥のように眠った。父と母はその夜も介護をしてくれていたのだろう。私は仕事の忙しさや習い事もあり、彼女の介護に力を集中出来ない自分が情けなかったが、あの時の私にはどうしようもなかったのだと思う。

 五、〈日曜日〉

 その週末だったと思う。日曜日。前日に姉の誕生日会をした。六月二十七日。私は通っていた習い事に都心まで外出していた。父も仕事があって、家には母と姉がいた。習い事が終わったのはお昼過ぎだったのだが、その日はずっと行っていなかった美容院に行きたいと思っていた。色々なことに疲れていた私はだいぶ前からプリンになっていた髪が嫌で、今日こそ髪を染めたかったのだ。
 「美容院に行ってから帰りたいんだけど、ミロは大丈夫だよね?」電話には姉が出た。大丈夫そうだ、と言っていた。今はね、と確か小さく加えながら。
 美容院で念願のカラーをしていた時、携帯が鳴る。やっぱり姉だった。嫌な予感がする。
「帰って来て」それで分かった。「まだ大丈夫だよね?まで生きてるよね?」必死にすがりつく私に姉は答えられなかった。途中だったカラーをやめ、タクシーに乗った。必死の形相の私を見て運転手さんは何かを悟っていた。一番の近道をしてくれてすぐに家に着いた。

 玄関を開けたら姉が二階から駆け降りてきて、目が合った。何も言わずに抱きしめられて涙が溢れる。「お姉ちゃーん!」と泣いた。彼女は居間にいた。いつものお気に入りの場所。柔らかい敷物の上。でも、動かないし、目を閉じていた。「ミロ!」泣き叫んで抱きついたら、まだ温かかった。「ほんとに三十分前だったんだよ」姉が言う。母は?と思ったがそちらを見られないぐらいに悲しくてどうしようもなかった。もう一度彼女のお腹にすがりつく。温かくて柔らかい。ミロの匂いがする。もう一度だけ、目を開けてほしい。心から祈ったけど叶わなかった。
彼女をとても可愛がってくれていた近所の人が駆けつけて、静かに泣いてくれた。父が夕方帰って来た。もう冷たくなってしまって、少し硬くなった彼女をやさしく撫でていた。あまり多くを語らなかったが、泣くことも出来ずに父は悲しかったのだろう。三番目の娘だった。一番親の言うことをきく、可愛い可愛い娘だった。
 
その夜、わたしたちはもう一度、家族みんなで同じ部屋に寝た。彼女の眠る居間に布団を敷いて。かわりばんこに撫でた。たくさん思い出を語った。ミロもきっと、そこに居たと思う。朝になってみんなが起きたのに、ミロだけが目を覚まさない。それが本当に悲しくって、また泣いた。母と泣いてくれた近所の人に見送られて、白い煙となって空に昇って行った。私はどうしても休めなくて会社に行ったが、確かにその同じ時刻、ふとパソコンを打つ手が止まって、涙が一筋流れた。お別れの挨拶だったのだと思う。彼女は天国に行ってしまった。

 六、〈約束〉

 「あの日、私はなぜ美容院になんて行ってしまったのだろう」
その後悔に私はしばらくの間苦しんだ。最後はきっと自分の腕の中で、と思っていたのに。あの日、習い事に遅れそうで慌てて階段を降りようとし、「ミロ!行ってくるね!」と叫んだ私を彼女は振り返った。その瞳を今でもはっきりと覚えている。彼女はきっと知っていたのだろう。もう会えないってこと。

 でもね。その最後の瞳を何度も何度も思い出し、彼女が亡くなったときのことを姉から聞いては涙をながし、自問自答を繰り返すうちに気がついたんだ。
彼女はきっと、とても幸せだったに違いない、ということに。

 最後の日の話を、もう少しだけしよう。
穏やかな日曜日の昼過ぎ。違う部屋で寝ていた彼女は急に、母と姉がいた居間におぼつかない足取りで、でも自分の意思で来たそうだ。「どうしたの?こっちがいいの?」とちょっと不思議に思ったという。居間に敷いた彼女のための暖かい敷物の上に伏せをしてくつろいだので、二人は安心してその目の前のテーブルでお茶を飲んでいた。なにか楽しい話をしていた、と言っていた気がする。しばらくして姉がふと彼女の視線を感じてそちらを見た。すると、彼女は愛らしい瞳で母と姉の姿を眺めたまま、静かに静かに息をひきとっていたのだ。大好きな家族を眺めながら、楽しいおしゃべりを子守唄に聞きながら、苦しむこともなく、本当に眠るように・・・。
 確かに私と父はそばに居てあげられなかったけど、母と姉が最後まで見守ってくれたんだ。彼女は、ひとりじゃなかった。

 それからね。実はそれより一年ほど前に私は犬についての素敵な絵本を見つけて、その中で読んだ習慣をかかさず続けていた。それはミロに毎日「大好きだよ」と伝えること。みんなに聞こえたら恥ずかしいので、いつも二人きりの時に。「ずーっとずーっと、大好きだよ」ときちんと言葉にして伝える。それは彼女が病気になるずっと前からだったが、いつかはお別れのときが来ることは知っていた。「そのときに後悔をしないように」と始めた習慣だった。そしてそれは亡くなる直前までかかさなかった。だから、最後の瞬間には一緒にいられなかったけど、きっと私の気持ちは伝わっていたに違いない、と思うことが出来た。絵本の中では愛犬のためにする習慣として描かれていたけれど、あれはもしかしたら残される家族のための「心の準備」を教えてくれたものだったのかもしれない。
 
だから私は、もう悲しまないことにしたんだ。だって彼女も、私たち家族も、あんなに幸せだったんだからね。

  ミロ
  とうとう天国に行ってしまったね
  君は幸せだった?楽しかった?淋しくはなかった?
  私たち家族のところに来てよかったと思ってくれているだろうか

君と過ごした十一年と少し
本当に楽しかったね 嬉しかったね
君とのたくさんの思い出は
わたしたち家族の宝物です

私たちのところに来てくれて ありがとう ミロ
彼女を連れて来てくれて 本当にありがとうございます 神様

私たちはこれからも君との素敵な思い出を胸に精一杯生きて行きます
それが君に出来る最後の約束

いつかまた会うその日まで
ありがとう
大好き

ずーっとずーっと大好きだよ

 大切な命を失ったとき。誰もがぽっかりと心に穴を開けて、悲しみながら色々なことを考える。「もう一度だけでいいから戻って来てほしい」そう願い、そして「もっとこうしてあげればよかった、ああしてあげればよかった」と悔やんだりする。
 でもね。やってあげたことが完璧ではなくても、その人を思う気持ちはきっと伝わっていると思う。たくさん悲しんで、失った命と自分のために涸れるほどに涙を流したら、あとはいつまでも下を向いていてはいけないよね。その人もきっと、私たちが元気で幸せに笑っている姿を天国から見たいと思うから。
あれから約一年して、私たちは新しく子犬を飼った。ビーグルの血が混じった、ミロによく似た女の子。ミロを忘れることはない。柴犬のカールを忘れることもない。
世界中にはたくさんの可哀そうな犬もいる。捨てられて命を落とす子。ひどい人間に虐待される子。すべての犬を救ってあげることは今の私には出来ないけれど、それならばせめて、自分の目の前にいるこの子だけは精一杯愛してやりたい。私たちよりも確実に早く命をまっとうしてしまうその子たちが、天国に行くその瞬間に「幸せだったなあ」と思ってくれたら、いい。

我が家に新しくやって来た子犬は、ミロとは比べものにならないほど、とてもやんちゃできかんぼうだ。そして私はその子と二人きりになったときを見計らって、彼女にそっと言う。

「大好きだよ」

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