見出し画像

年末・忠臣蔵・冬期講習

時に元禄十五年十二月十四日江戸の夜風を震わせて、
響くは山鹿流儀の陣太鼓しかも一打ち二打ち三流れ……

ということで今日は2023年12月14日、

旧暦とはいえ、赤穂浪士討ち入りのその日である。

ひと昔前は年末の特番で(多分テレビ東京だったか)6時間を超える忠臣蔵の時代劇を放送していたものだったが、いつのころからかやらなくなってしまった。忠臣蔵はもう「風物詩」ではないのだ。

11月末の休講日、せっかくいただいたお休みだからと都内の寄席で開かれた講談会を聴きに行ったのだが、そこで講談師の神田愛山先生がこんなことをおっしゃっていた。

「赤穂義士伝に出てくる忠義だ何だというのは古い価値観だという人もいますが…赤穂義士伝の本質は、〈別れ〉なんですよね。」

その直後、愛山先生の「大高源吾」の演目に没入させられたのはいうまでもない。

忠臣蔵といえば、三波春夫の「俵星玄蕃」も思い出す。

私は中学・高校生のときは定期試験のための自宅学習ともなれば常に自室でラジオ日本を聴いていたのだが(どんな中学生だよ)、この曲を知ったのはそこで流れてきたからだった(多分平日夕方の帯でやっていた(る?)「夏木ゆたかのホッと歌謡曲」だったと思う。違うかもしれない。)。

演歌・歌謡曲はもともと父の影響で好きだったのだが、ここで歌い手さんや曲の知識が広がった。普段は部活などで家にいない時間帯に聴けるラジオというだけでプレミア感とも相まって、この長大な曲にも興味をもった(どんな中学生だよ)。

冒頭に掲げたのはさまざまな義士伝で読まれる口上なのだが、「山鹿流儀の陣太鼓」の「山鹿」とは、いうまでもなく山鹿素行である。

山鹿素行は17世紀半ばに赤穂藩に仕え、のちに江戸で学問に専念するも、江戸幕府の支配イデオロギーである朱子学を批判したことから旧主の赤穂藩に配流となった。大学受験日本史では元禄文化の「学問」のテーマで出てくる。

実際に討ち入りの際に陣太鼓を鳴らすこともないし、山鹿流の兵学にそのような教えもないそうだが、冒頭の口上を知っていれば山鹿素行→赤穂へ配流との知識も結び付きやすいか、などと考えてしまう。

冒頭に掲げた写真は先日麻布十番(!)で開かれた某会合の帰り道、品川駅までとぼとぼ散歩しているときに通った泉岳寺の写真である。

麻布十番なんてハイソな土地に頓と縁がない私であったが、こちらで今回、お世話になっている取引先の会合があるとのことで、初めて上陸した。

おいしいお肉とお酒をいただき、帰り道になんとなく歩きたい気分になったので、Google mapでおおよその方向を定めたあと小一時間歩いたときに、

夜の都心にひっそりと立つ泉岳寺の姿を認めた。

午後九時を過ぎており、もちろん中には入れなかったが、以前昼間にうかがったときの四十七士の墓や、寄進したのだろうか、玉垣に川上音二郎の名前が彫られているのを発見して一人でハイテンションになったことを思い出した。

(のちに調べたところ、川上音二郎は四十七士の墓が荒れ果てているのを見てこれを嘆き、寄付を行ったのだという。それにより首洗いの井戸が整備されたのだとか)

冬の風物詩だなんだとつらつら述べてきたが、我々にとっての「冬」はいうまでもなく冬期講習である。

単発で一日6コマ行われる日曜講座は少し早く11月26日から当方の冬期講習出講は始まっている。

この御時世、多くのお仕事をいただけるのはありがたく、また今年も多くの受験生に相まみえることができることを大変誇りに思う。

受験生に私はいつも言っている。

未来は選べるし、創れる。我々はまだ何者にでもなれる。


”無職透明”になる2月まで、今年度も走りぬけようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?