コトバが劣化している
最近いきはじめたクリーニング屋が家の近所にある。
商店街のなかにある小さな店舗で、そこはもともと写真館であった。
聞けば、高齢と交通事故の後遺症で身体がうまく動かなくなり、子ども相手の撮影も多かったことから体力の限界を感じ、大手クリーニング店の加盟店として数年前に転身したのだそうだ。
ご夫婦でお店を営んでいる。
先日、私が普段使いのスーツとワイシャツを大量に預けたときも、
「こういうシャツはどういうときに着るんだい?」なんて目を丸くしながら聞いてくる、子ども好きな、人のいいおじいちゃんとおばあちゃんの老夫婦だ。
一言ひとことかけてくれる言葉に、それぞれ一つひとつの〈やさしさ〉がこめられている、素敵な御夫婦。私もこういう年のとり方をしたいと思わせてくれるような存在である。
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先週、老人ホームに入っている母方の祖母の「面会」にいってきた。
新型感染症が流行する前は居室までいってあーだこーだ話しに行けたのだが、2020年以降はロビーの中と外でガラス越しに電話をつなぐ方式やオンラインでの面会が中心で、互いに触れることはできないまでも元気な顔を見ることはできる。
認知症が進んでおり、面会した私や母、父の顔は認識はするが、同じことを何度も聞き、その都度答えると何度も新鮮なリアクションをする。存在を忘れてくれていないだけありがたいと思い、同じ会話を繰り返す。30分の限られた面会時間、これも貴重なコミュニケーションの時間である。
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そんなある日、ある動画がSNSで流れてきた。
「老人は集団自決すべき」であると発言した人物がいたらしい。
当人は「社会保障」について自らを「専門性もなければ当事者性もないという最悪の立場」であるとしたうえで以下のように述べた。
このあと、その人物は『葉隠』を引いたあと、このように述べた。
『葉隠』の解釈についてもいいたいことはゴマンとあるのだが、それは別の機会に譲る。ここで重要なのは、かれが、現代社会の抱える社会保障の問題について「考えたくない」、そして考えなくてよいようにするためには「集団自決」「集団切腹」をすればよいと得意げに語っていることである。ちなみに動画で彼の左側に座って笑っている人物は医師・弁護士で政権与党に所属する参議院議員である。公式HPを見ると基本政策のなかに「高齢化社会に向けて必要なマンパワーと施設・設備を確保し、人工知能や情報技術を利活用することにより、地域医療・介護の充実を図ります。」が掲げられている。
へらへらしたオトナたちが、「老人」に対する強制的な集団死を「社会保障政策について考えた」結論として述べる、非常にグロテスクな動画であった。
この発言が、なぜ問題なのか。
それは高校レベルの社会保障についての知識があれば0.002秒でわかる。
私の手もとにある実教出版の『高校政治・経済新訂版』には非常にわかりやすくその目的が書かれているので引いてみよう。
もはや名文ですらある。
社会保障とは、誰にでも―この発言者やその隣で笑っている国会議員にも起こりうる身体的・経済的な危難に際して、国家が公的にこれを助けることである。
これはすべて国民は「法の下に平等」(日本国憲法第14条1項)で、国家はその国民に対して「健康で文化的な最低限度の生活を保障」(同第25条1項)したうえで「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(同第25条2項)と日本国憲法にうたわれていることにも合致する。
「集団自決」は権力による強制的な集団死であり、一個人が勝手に「わたしゃ〈老害〉になるまえに死にとうございます」と考えるのとは次元が全く異なる。
この人物は「社会保障などという問題について議論しなくてもいいような世界を作り出す」ことが議論の「大義」であるとしているが、先ほどの高校教科書レヴェルの社会保障の理解からわかる通り、「人間である」、ひいては「生き物である」以上、そんな世界を作り出せるはずはないのである。だから「国家」が存在する以上、「考えなければならない」ことなのである。
:「国家が存在する以上」と書いたが、国家などなくても相互扶助は可能であるし、行われてきた。私は以前、縄文時代についての記事でこのことについて触れている。:
:以上みたように、当該発言は「専門性もなければ当事者性もない」以上に、「無責任」で「無教養」でもあった。:
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話はこれで終わらない。
後日、さらに絶望的な動画が流れてきたのである。
引用元の動画を見ていただければわかる(42:34付近)通り、少年が先ほどの発言者に対して質問を投げかけている。その少年曰く、「老人は実際退散したほうがいいと思う」のだそうだ。そのうえでどのような「システム」をつくればよいか、と問うている。
この少年についてどうこう言うつもりはないが、一つだけ言えるのは少年にも当該発言者にも共通するのは想像力の欠如であろうとは思う。彼らの親でもいい、祖父母でもいい、のみならず周りの大人でもいい、そして自分でもいい。誰しにも平等に「老い」はくる。そのとき、その固有の生の「終わり」を国家によって強制され、「退散」させられることを述べることにどこか胸の痛みは感じなかったのだろうか。
私が重視したいのは引用の2つめである。「で、それがいいのかどうかっていうとそれは難しい問題ですよね。もしいいと思うならそういう社会をつくるために頑張ってみるというのも手なんじゃないかなと。」と言っている。
彼は、1本目の動画(公開は「3年前」)で確かに「まぁ集団自決みたいなことをするのがいいんじゃないか、特に集団切腹みたいなものをするのがいいんじゃないかということですよね。」といっているのに、2本目の動画(公開は「9か月まえ」)では「難しい問題ですよね」とお茶を濁している。あまりに無責任ではないか。あなたの言葉に耳を傾けてそれに質問してきた少年に対して、向き合うことを放棄し逃げているではないか。これ一つとってみても、当該発言が信念のようなものに裏打ちされたものでは全くなく、思考し反芻することもなく軽々しく吐き出された言葉であることがわかる。
予備校講師の立場としていうのであれば、若年者に対してオトナが偉そうに何かをのたもうならば、その〈応答責任〉まで果たすべきだろう。
言ったら言いっぱなし。突っ込まれたら謝罪も訂正もせずにしっぽをまいて逃げる。昨今の「発言者」、とくに「論破」系や、政治家に顕著にみられる傾向だと思う。
ことばに対する責任が、ことばの重みが、急速に劣化している。
そう感じずにいられない。
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